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一色社長とのご褒美ホテルランチから3ヶ月が過ぎた。
振られた途端に金銭を要求するという、ゲス女作戦が功を奏したようで社長とはあれ以来、顔を合わせずに済んでいる。
「本庄せんぱーい、売り上げが伸びたのはいいですけど、商品の在庫の調整が無理でーす。」
仕事の出来る篠崎まいが珍しく根をあげた。商品の一部在庫管理は、庶用務課のメイン業務といえる。
前世の妹分だった「サクラ」がウェヌスタ社のイメージモデルになってから、彼女が女優デビューするTVドラマも始まり、化粧品の売り上げが予想以上に伸びているのだ。
「うーん、今回は発注数も難しいわね。過去のデータも通用しないし。ちょっと私が計算するから資料貸して。」
「お願いしまっス。」
いくら上層部の最終的なチェックが入るからと言っても、いい加減な数字は出せない。でも、絶対残業だけはしたくない。今日は、お笑い芸人「ライスボールマン」のライブがあるのだ。
仕事集中モードに入ろうとしたところに、庶用務課の重い扉がギィッと開かれる。
「失礼します。」
「片桐さん、またいらしたんですか?」
ハナの嫌そうな顔とは対象的に、片桐は笑顔だ。
社長室に呼び出されることはないものの、秘書の片桐はこうして度々、ハナの周囲に現れる。しかも最近、その頻度が多くなっている気がする。
「片桐さ~ん、こちらでお茶でもどうぞぉ。」
彼は、性別を感じさせない中性的な美しい容姿をしている。細身のスーツに甘くない高貴な感じのする香水は、ビジュアル系の彼の雰囲気にピッタリだ。
それが、篠崎まいにはドはまりだったようで、既にメロメロになっている。
「何か御用でしょうか?」
「いいえ、本庄さん。あなたの仕事を眺めにきました。」
「…それは随分、お暇なことですね。それでも社長の第一秘書ですか?」
(いつもより口調が厳しくなってしまった。でも今日だけは邪魔はさせない! お笑いライブが私を待っている。絶対定時で帰るんだ…!!)
「先輩、片桐さんに失礼ですよぅ。本庄先輩でよかったらゆっくり観察していってくださぁい。」
「篠崎さん、あのね…」
(今はイチイチ突っ込むのは止めよう…時間の無駄だ。)
「ありがとう、篠崎さん。そうさせていただきます。本庄さんの仕事ぶりは実に興味深い。無駄のない研ぎ澄まされた動作に惚れ惚れしてしまいますね。」
そう言いながら、片桐はいつの間にかハナのデスクの背後にまわり、挑発するようにハナのすぐ頬の近くに端正な顔を寄せてパソコンを覗き込む。
「…社長は諦めて僕にしませんか?」
片桐が、周りに聞こえない音量で囁く。
「…。」
こういう時は動揺して、「きゃっ」とか言って顔を赤らめるくらいした方が自然なのかもしれないが、こっちはそんな時間さえ惜しい。1ミリも定位置から動くことなくハナは口を開く。
「片桐さん、そんなにお暇ならまだ公になっていない社長の経営戦略の構想を教えて下さい。短期的なものから長期的なものまで全てです。」
(情報を制するものは、仕事を制す。できるだけたくさんのデータを得た方が仕事内容をブラッシュアップできる。つまり在庫管理においても正確な数字が出せるのだ。今後の仕事にも役立ちそうだし。)
「ふふ。利用するものは全て利用するか…痺れるなぁ、本庄さん。いいでしょう! ちょっとお待ちください。」
そう言って片桐はポッと頬を染め、社長室へと消えていった。
◇
「おい、お前いつから本庄ハナの犬になったんだ。」
最上階の社長室で書類の山に埋もれた、一色湊人が顔をしかめる。
これまでは、どんなに忙しい時でもスッキリと片付いた仕事机がモットーだったのに、一色社長はこの会社に来てからは、それすらできないほど仕事に忙殺されていた。
「人聞きの悪いこと言わないで下さい。僕が本庄ハナに近づくのは、全て社長とこの会社のためですよ。」
片桐は、書斎机の辛うじて物が置かれていない場所に一色社長がいつも飲んでいる糖分&カフェインたっふりのコーヒーを置く。
「…信用できんな。」
そう言いながらも、一色社長は片桐に催促された資料を粗雑に手渡す。今度の会議で扱おうと思っていた経営計画に関するものだ。
(まだ、ちゃんと整理していないデータもあるが、それでも本庄ハナなら十分解読できるだろう)
「ふふ、ありがとうございます。」
片桐の含み笑いに、一色湊人は不愉快そうにため息を吐く。
(本庄ハナ…本当は側近としてすぐにでも手元に置きたかったところだが、一方的に好意を抱かれた上に、振られた腹いせに金銭を要求するような女を近くに置くわけにいかない)
「って、おい片桐! もう庶用務課に戻るのか?!」
「ええ、今の僕の役割は、社長と本庄さんの架け橋ですからね。では失礼しま~す。」
「あっ…」
(片桐のヤツ、社長室に10分といなかったな…何だか最近妙に楽しそうなのも気にくわない…。
確かに直接本庄ハナとコンタクトを取らなくても片桐がいれば彼女の能力を多少利用できるが…この胸のモヤモヤは…何なんだ…)
一色湊人は、手元のコーヒーを口に含み、ちょうど3ヶ月前、本庄ハナとホテルでランチした時のことを思い出していた。
彼女が好物のケーキを口にした時のあの幸せそうな顔…なぜか惹き付けられて目が離せなかった。決して美人な面立ちではないのに、それは大層特別なものに感じられて、今も思い出しただけでもひどく胸が疼く。
(俺としたことが相当疲れているんだな…あの笑顔がもう一度みたいと思うなんて…)
一色社長は、自嘲気味に微笑んでコービーを一気に飲み干した。




