疾走
「お前、もう降りてたのかよ。気が早いな」
「ああ、なんとなく落ち着かなくて」
明良は階段を下りて来るなり、僕にそう言葉を投げかける。
「しっかし、今日も寒いな……」
「何もこんな時期に試験やらなくてもいいのに」
運の悪いことに今年は厳冬だ。底冷えするような寒さに身を震わせながら、手先だけでも温めようとポケットに入れたカイロを頻りに握る。そしてふと外を見やると、ここ数日間続いた曇天、その雲間から顔を覗かせる朝日に天気の回復を確信する。天下に降り注ぐ日の光は眩しいほどに辺りを照らし、合わせてこれから訪れる人生の分岐点、更には僕らの行く末までもを明るくするものであって欲しいと戯れに思った。
「あれっ、類人は?」
「まだ来てないよ」
「あいつ……ホントにマイペースだな……」
明良はそう呆れたように言うと、玄関に腰を下ろし、靴を履き始めた。ここ最近の類人は何か変だ。元々おかしいところのある生物ではあるが、それにしても元気がなさすぎる。何かに思い悩み、それについて落ち込んでいる様子なのだ。そのことを明良に話しても、
『さあ……試験前だからナーバスになってるんじゃないの?』
ざっとこんな感じで気にしていないようだった。そして下宿のおばちゃんも、
『宇喜田くんにも色々あるのよ』
『そっとしておいてあげなさい』
そう言うに留まり、彼の変調に触れようとしていなかった。ただ僕はどうにもそこから覚える違和感を拭い去れない。彼の妙な大人しさは嵐の前の静けさのよう、このままそれを放置していたら、僕らの予想だにしない出来事を引き起こしてしまうのではないか――そんな悪い予感すらしていたのだ。
「何してんだよホントに……」
「そろそろ出なきゃマズくない?」
類人を待つこと十数分、手元の腕時計に目を落とすや、刻一刻とその時は迫っていた。傍らに立つ明良は苛立ちを隠しきれない様子で貧乏ゆすりを激しくする。勿論、試験に遅れることは由々しき問題だ。しかしそれにも増して類人の安否に気を揉む。彼は本当に大丈夫なのか、もしや……試験の重圧に耐えかねてあらぬことを考えていないだろうか――不安の種が促成的に発芽し、急速に成長していく。
(鈍臭いあいつのことだ、準備に手間取っているだけ、きっとそうだ……)
そう自分に言い聞かすも、彼の無事をこの目で確かめないことには何の気休めにもならない。
(……よしっ!)
僕は覚悟を決めた。これから二階に上がり、彼の部屋を訪れる。直々に迎えに行くのだ。そうすれば白黒はっきりするだろう。僕は心に巣食う疑念を払拭し、それらは全て杞憂であると証明するため、彼の住処へと向かうのだ。
「ちょっと見て来る」
僕はそう言って靴を脱ぎ、二階を目指す。そして階段を上る前に、恐る恐る、でもそれと悟られぬよう自然に声を掛けた。
「類人、早くしろよ! 遅れるぞ~」
「先、行っちゃうぜ!」
二人して大きな声で呼び掛ける。しかし応答はない。
(ひょっとして……)
いやに静かな二階へ上ろうと僕は階段に足を掛ける。一段、また一段と上るごとに肥大する不安、まさかの事態を心のどこかで想定しつつも、
(あいつに限ってそんなことはない、きっと二度寝しているだけだ……)
いつもの彼らしい笑える奇行で僕を拍子抜けさせてくれ――そうひたすら願いながら、二階へと上がった。
(どうにか無事で居てくれ……)
彼の部屋までの数秒間、僕は息を殺し、忍び足で進んだ。無論、存在を隠す必要はないのだが、どうにもそうしてしまう。一歩ずつ近付く彼の部屋、その距離に反比例するかの如く高鳴る鼓動、比喩でもなく、今にも心臓が口から飛び出してしまいそうなほどに緊張していた。
(遂に……来てしまった……)
やがて彼の部屋の前に至るや、大きく息を吸う。見慣れた扉の前、しかし今日は違う。禁忌の扉――そう呼ぶに相応しい。そして徐にドアノブへと手を掛ける。今から開けるのはゴミ箱か、はたまたパンドラの箱か、その答えは数秒先の未来にある。緊迫の瞬間――再び覚悟を決め、さっき吸い込んだ空気を大きく吐き出すや、
(……今だ!)
僕は一思いに扉を開けた。
「……えっ?」
身を交わす寒風に棚引くカーテン、呼応して波打つ光――それら全てが噛み合って幻想的な白色の光景を演出する。そしてその素晴らしいフレームの最中に僕は見てしまった。目下の出来事を大真面目に他言したとしても、きっと信じてもらえないだろう。しかし断じて見間違えではない。僕は確かにこの目で見たのだ。依然として揺れているカーテンの向こう、下方へと消えていく尻尾の先端をこの目で見たのだ。
「……ええっ!?!?!?」
「もぬけの殻」と表現するには雑多な部屋、しかしそこに彼の姿はない。
(まさか……)
最悪の事態を想起し、急ぎ大きく開いた窓辺に近付く。尻尾の真偽はともかく、まずは彼の安否を確認することが先決だ。そう思い、窓辺から地上を覗き見るや、
「うっ……嘘だろ……」
何の変哲もない階下の有り様に、僕はかえって我が目を疑った。そして咄嗟に叫ぶ。
「大変だ! 類人が……類人が―…」
突然の失踪――類人は僕らの前から忽然と姿を消した。
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昨日までの曇天が嘘のように晴れ渡る今朝の空模様、オイラは心地良い朝日を左頬に浴びつつ、身に迫る寒気を切り裂きながら、一途港を目指していた。人目を憚る余裕はない。道行く人の悲鳴、叫声、怒号――そんなものお構いなしだ。とにかく前に進む。そして朝イチの定期船に乗り込むのだ。そうすれば島に帰ることが出来る。
(長老……待っててウキ……! 今向かっているウキ!)
(だから……まだ逝かないで欲しいウキ……!)
オイラは自分の将来、そして身の安全より何より、長老のことを案じながら真冬の市街地を駆け抜ける。人間に戻ることは叶わない。それならば元の姿で良い。野生動物特有の四足歩行、その駆動に全精力を賭けて突き進む。長老はまだ生きている、きっと生きていると自分に言い聞かせながら――。




