決断
決戦の朝は思いの外に静かだった。いつもに比べて早く目覚めた以外、何ら分かりない。昨日の延長上にある今日という日、目の前に広がるのはありふれた日常の風景だった。起床、洗顔、朝食――ただ淡々と流れていく時間の中で、オイラは半ば悟りの境地に達していた。長老のことについて昨日まで散々思い悩んだ。そして捻りだした結論――それは時流の赴くままに身を任せる、というものだ。つまりはこの場に留まり、試験を受けることにしたのだ。そういう風に言うと、どこか自律的な意思で「残留」を選んだと思われるだろう。しかし実際のところはまるで違う。その行動は限りなく消極的な態度の表れであり、決断出来なかった結果の現状維持でしかなかった。それ故、オイラの心はあの手紙を受け取った時から変わらず燻ったまま、相も変わらず優れない寒空の具合と同じく、光の透過を許さない灰色で覆われていた。
(きっと……これで良かった……ウキ……)
朝食を終え、自室に引き上げるや、自分にそう言い聞かせる。そして無理矢理にでも気持ちを整え、一通り準備を完了すると、身に纏う寝間着を脱ぎ捨て、戦闘服に着替える。
(とにかく今は目の前の試験を頑張るウキ……)
どうにかこうにか気丈に振る舞おうとするも、着替えの仕上げ、学ランのボタンを上から留めていく段になり、どことなく後ろ髪の引かれる思いに駆られる。心の奥底でまだどこか割り切れていないのか、この期に及んでうじうじと思い悩み始める自分――その優柔不断さに溜め息一つ、嫌気が差す。
(ダメだ、ダメだ、ダメだ……!)
オイラは頭を大きく横に振ると、諸々の憂いを断ち切るべく、ボタンの上から二つを勢いよく留めていった。
(大丈夫ウキ……きっと間違いではないはずウキ……)
そう何度言い聞かせたことか、ボタンに掛けた手が止まる。本当にこれで良かったのか、オイラは未だに迷っていた。内なる自分との禅問答、どう足掻いても結論は出ない。すると扉の外で足音が聞こえた。二人のどちらかはもう部屋を出たのだろう。出発の時は刻一刻と迫ってる。急がなければ――そう思うや、三つ目のそれに手を掛けたその時、
――ガサッ―…
突然、背後で何かの落ちる音を耳にした。咄嗟に振り向くと、それは二重、三重に山折りされた書簡であり、様々なモノが山積みにされている段ボール箱の一角から滑落したようだった。いつもなら特段気にも留めず、拾い上げもしないだろう。しかし今日はどうにも気になり、床に落ちたそれを手に取り、何気なく開いてみる。すると、
(長老からの……手紙ウキ……)
思いも寄らずハッとする。その書簡の正体は以前に貰った手紙であった。そのままオイラはその内容に目を通すと、途端に何かが込み上げてきてカッと目頭が熱くなる。そしてその段ボール箱に入っている手紙を続け様に読み漁る。読んでも読んでもキリがない。それもそのはず、そこには三年間毎月欠かさずに送られてきた手紙の全てが入っていたのだから。お世辞にも上手いとは言えない文字、誤字脱字だらけ、怪文書紛い――そんな手紙の数々に意図せず感情の雫が頬を伝う。
(長老……)
その言葉の端々にオイラに対する深い慈愛、思いやりの気持ちを感じずにはいられなかった。涙でぐちゃぐちゃになった顔をそのままに、鼻をすすり目を閉じる。すると突然、長老との思い出がサッと頭に過ぎる。走馬灯と言うと不適切かもしれないが、そんな具合にするすると流れ行く。思い返せば、両親のいないオイラにとって長老は正に親代わり、唯一の肉親と言ってもよい存在だった。島における記憶のどのページをめくっても、その傍らにはいつも居た。少し腰の曲がった、ちょっぴり気難しい老人の姿がそこにあった。喜怒哀楽豊かな彼は記憶の中で生き生きと息づいている。
しかし悲しいかな、現実は残酷だ。そんな長老はいま現在、ここから遥か遠く故郷の島で生死の境を彷徨っている。オイラにとって欠け替えのない存在がこの世から消えようとしているのだ。大学入試は毎年行われる。その一方、生命の終わりはたったの一度きり、一度きりである。その最期に居合わせられないことは果たして生涯の悔いにならないだろうか、核心に迫る自問自答――その時、思わず言葉が漏れた。
「オイラは……後悔したくないウキ……!」
そう思い至るや、今まで悩んできた事柄の一切合切、そしてこれまでオイラの心を支配していた諦観、無力感、やるせなさ、その全てを一思いに振り払った。
(長老の最期を……看取るウキ……!)
その瞬間、遂にオイラは島への帰還を決断した。うだうだと思い悩んでいる自分はもういない。そう思うと、先ほどまで澱んでいた心模様は嘘のように晴れ渡り、天頂までもを見渡せるほどに澄み切っていた。するとどうしたことか、身体の芯から活力が湧いてくる。五臓六腑の所々から得体の知れぬ力を感じるのだ。
(これは……どうなってしまうウキ……!?)
真冬だと言うのに全身を熱感に襲われる。今まで味わったことのない、いやそうでもない。身体の収縮、臀部の違和感、そして体毛の発達――これはまさか、まさかの―…
(もしや……元に戻っていくウキ!?)
緩々になってしまった制服、視点の低さ、そして何より猿人類特有の前傾姿勢に事態の進展を察する。どういう因果か分からないが、元に戻ってしまったらしい。オイラは現実に起こっている奇天烈な現象に驚きを隠せず、ただただ呆然としていた。
(どうして……こんなことが……!?)
その時だった。階下からオイラを呼ぶ声が聞こえた。
「類人、早くしろよ! 遅れるぞ~」
「先、行っちゃうぜ!」
思わず時計を見やるとびっくり、出発予定ギリギリの時間になっていた。しかしこの姿になってしまっては行けるわけもなく、右往左往と狼狽する。するとなかなか降りてこないオイラにしびれを切らしたのだろう、
「類人! 何してんだよ!」
一歩、また一歩と階段を上り来る足音にオイラは慌てふためき、パニック状態に陥る。一層このまま部屋に鍵を掛けて籠城してしまおうか、いやその場凌ぎの対応では部屋と共にオイラの正体をも暴かれてしまう。もしそんな事態を招けば、二度とあの島へと戻れなくなる。どうしよう――思考は混乱し、次の行動を決めかける。一方でそうしている間にも修悟は部屋へと近付いて来ている。
「おい、返事しろ! 寝てるのか?」
彼は階段を上り切る。あと数秒、オイラに残された猶予はほんの僅かしかなかった。こうなってしまえば仕方あるまい。オイラは覚悟を決め、身に纏う制服を取っ払う。手紙一枚、身一つ、後はこの絶体絶命の窮地を脱するべく、一世一代のダイブに全てを賭けるだけだった。




