夢の跡
「ロベスピエール、本当に行くのか……?」
兵十さんの問いに対してオイラはただ静かに頷く。当の昔に覚悟は決めていた。こ一か月間、オイラは様々に己の肉体を苛め抜いた。全ては今日この日のため、私生活の大部分を鍛錬に費やしていたのだ。
「行って来るウキ……!」
一言それだけを言い残し、オイラはその場を離れた。
新緑溢れる皐月の裏山、日差しの明るさも相まって生命の息吹感じる雰囲気に身を置きながら、オイラは悲壮なまでもの覚悟を持ちつつ、約束の地へと赴く。その心境や、学徒出陣に向かう兵士の心境、灰色の風景そのものだ。前回と同様、果たし状は叩きつけてきた。だが待てど暮らせど返答はない。黙殺か――いや、違う。ヤツは必ずやって来る。オイラはひたすらそう信じ、一歩、また一歩と大地を踏み締め、かの地へ向かう。
やがてあの楠を視界に捉えた。良い思い出、苦い記憶――これまで幾度となく見てきたそれ、言わば原風景なのに、今日はやたらに大きく見えてしまう。オイラは改めて見るその壮観に圧倒されながらも、心の中で固く誓う。
恋路を邪魔する憎き雄猿を討ち果たし、愛しの彼女・ウキ江さんを我が物にする――と。
その時、悪戯な風が頬をかすめ、木々を揺らす。これは何かの予兆か、戯れにそう思うや、再戦の舞台はすぐそこ、目の前に迫っていた。
「おう、遅かったじゃねえか」
あろうことか、ヤツは既にいた。片足を揺すり、腕組みをして、不敵な笑みでオイラを迎え入れる。オイラはヤツの到着を待ち構える側とばかり考えていたため、眼前の現実に驚きを隠せなかった。表面的には平静を装うも、心臓の鼓動は高鳴り、頭に血が上る――絵に描いたような興奮状態に陥り、早くもこちらのペースは乱されつつあった。
このままではいけない――オイラは主導権を握るべく、舌戦を展開した。
「お前こそ……来るの早過ぎウキよ!」
「それは良い心掛けだろっ!」
確かにそう、時間前行動は見習うべきかもしれない。オイラは妙な正論を被せられ、余計に混乱してしまった。どうするべきか――瞬時に最適解は浮かばない。ただこれ以上猿知恵で行動してしまうと、再戦ムードに水を差すことになりかねない。オイラは目を閉じる。脳内で繰り広げる逡巡、やがて一つの真理に思い至る。
――言葉はいらない、ただ拳で語り合うのみ――
「オイラと……決闘するウキ!!!」
晩春の五月晴れの下、遂にオイラは宣戦布告を果たした。その堂々たるや、国際連盟をも脱退しそうなほどである。一方、ヤツはここに至りてもヘラヘラと笑うだけ、まるで真剣な様子はない。勝者の余裕、と言ってしまえばそれまでだが、大変癪に障る。そしてヤツは大きく息を吸い込み、思い切り吐き出すと、状況は一変、山の天気ほどにも変わった。
「ああ、やってやるよ」
「ただし、容赦はしないぜ」
突如として襲い掛かるその気迫に、一瞬オイラはたじろいだ。彼はあくまで本気だ。その変貌ぶりに前回の苦い記憶が蘇る。額には脂汗、そして完治したはずの古傷までも疼き始める。また負けてしまうのでは――臆病な悪魔に心を支配されていくように感じる。
このままじっとしていたら彼だけではなく、弱気な自分までにも屈してしまう。それだけは勘弁だ。そう思うや否や、オイラはあらゆる邪念を振り払うかのように駆け出し、彼に仕掛けた。
「ウキ~!!!」
オイラは彼に飛び掛かる。必死で拳を振るい、爪を立てて引っ掻き回す。しかし彼は倒れない。素早い身のこなしでオイラの攻撃を交わし、なかなか急所を捉えさせてはくれないのだ。一方、オイラも彼の反撃をしのぎつつ、互いに手数を増やしていく。
「絶対に……負けないウキ……!」
「オレだって……負けるわけにはいかねえんだ!」
やがて互いに大きく肩で息をするようになった。体力の消耗はガードの意識を希薄にする。殴り殴られ、引っ掻き合い――両者ともに一進一退の攻防を繰り広げる。オイラも彼も傷だらけ、前回とは打って変わったような展開に、もしかすると……わずかばかりの手応えを感じる。
「ゼェ……ハァ……なかなかやるウキね……」
「おっ、お前もな……」
オイラたちは向かい合う。体力的にこの一撃で仕留めなければ……勝機はない。それは相手方も同じだろう。そう腹を括ると、ありったけの力をその拳に込め、最後の一騎打ちに全ての勝敗を委ねる。
「「うおおおおお~!!!」」
拳から伝わる鈍痛、ただそれだけだった。しかしその手応えでオイラは悟る。
「グッ……」
遂に決着した。あの時のオイラのように、彼はその四肢を投げ出し地に伏せった。やった……オイラは勝ったのだ。夢にまで見た勝利、目の前の難敵をこの手で討ち果たしたのだ。
「やった……やったウキ……!」
オイラは思わず涙ぐむ。そして節々の痛みをも忘れて跳ね回る。内に秘めた歓喜をここぞとばかりに爆発させ、全身で表現する。未だ嘗てこれほどまでに嬉しいことがあっただろうか、いやなかろう。オイラは慣れない格闘戦を独力で完遂し、勝利を手にしたのだ。それだけでも十分に喜ばしいこと、しかし今回はこれだけではない。目の前の勝利のその先――すると何処からともなく聞こえてくる。
「あなた~!」
その声を聞くや、全身に電流が流れる。向こうからやって来た、それは彼女に間違いない。オイラは確信する――今日この日、二人の時計は再び動き出すのだ、と。次第に二人の距離は縮まる。きっと彼女はオイラの胸に飛び込みたいのだ。そうに決まってる。だから向こうから駆けて来る彼女を黙って抱きしめよう。倒れないようにしっかりと受け止めよう。そっと目を閉じる。もう少し、あと数メートル、三歩、二歩、一歩、
「あなた、しっかりして……!」
「……ウキッ!?」
猿生最大の肩透かし――それはもう名状しがたいほどに空虚だった。オイラのことには目もくれず、地に伏せったヤツに寄り添う。何かの間違いでは……オイラは咄嗟に振り返る。勝者はこちらであることを伝えんと彼女にアピールするためだ。しかしその瞬間、思考の全てをフリーズさせ、消し飛ばすほどの衝撃を味わうことになる。
「ウキ!」
ウキ江さんの背中に負ぶわれ、こちらに手をかざす小さな生き物――元気に挨拶してきたその幼生はきっとオイラと同種、しかし決して我が遺伝子を引くものではない。
(何者、何者、何者、何者―…)
頭の中はその文字列で埋め尽くされた。一つに状況を理解するため、もう一つに現実から逃避するため、その矛盾した思考に脳内では大パニックを起こしていた。しかしそれは語られる。勝者のいない決闘の敗者によって詳らかにされた。
「そう、オレたち……家族なんだ……」
ウキ江、家族、子持ち――この瞬間、オイラは膝から崩れ落ちた。不意に頬を伝う涙、悔しさの結晶はポロポロと眼下に零れ落ちる。やがて彼らは去った。オイラはただその三匹の背中を視界から消えゆくまで眺めていた。彼らはもういない。オイラは一体何の為に戦っていたのか、やるせない自問にどうしても答えを求めてしまう。しかしそれを見つけられないとなるや、自ら作り出す。まだ痛みの残る拳に諸々の感情を込め、歯を食いしばる。そして自らにその一撃を見舞った。
「オイラは……オイラは―…」
「大バカ者だったウキ……!」
オイラは泣いた。一人残され、誰もいなくなったその場所でひたすら泣き叫んだ。とある晩春の折、オイラの長い春は呆気なく終わりを迎えたのだった。「国破れて、山河あり」――彼女はもういない。だが目の前の原風景はあの日のまま、尚もそこに存在し続けるのであった。




