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浮世の風  作者: 金王丸
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臥薪嘗胆


 にじり寄る目の前の現実に恐れおののき、立つことすら出来ない。オイラはこれまでになく恐怖していた。その様と言ったら、小だけでなく、大までもを催し、垂れ流してしまいそうなほどだった。それもそのはず、視線の先でいきり立つ生物は人間界でもお馴染みの害獣であり、オイラたちにとってこの島に生息する唯一の天敵―鯨偶蹄げいぐうてい目シカ科に属する哺乳類、そうつまりは「シカ」である。あろうことか、オイラは天敵のシカに遭遇してしまったのだ。


 オイラのやること、なすこと、どうにもこうにも上手くいかない。どこまで行っても間の悪いおとこだとうんざりする。先ほどの上り調子はどこへやら、うんこ垂れ、ツキに見放される、と言った具合に、現実は地獄絵図の様相を呈していた。


 オイラは知らず知らずの内に彼らの縄張りを侵犯していたようだ。兎にも角にも、シカに出会うのは非常にマズい。ここは彼を見なかったことにして、それこそ無視シカトするように一族の元まで逃げ帰ろう。そう思い、振り返るや、青ざめる。真っ赤なお尻、真っ赤なお顔も、全てあい色に染まり上がった。


 (いつの間にか囲まれてしまってるウキ……)


 事態は正に四面楚歌、四、五頭のシカに逃げ道を塞がれてしまっていた。その頭から生えた巨大な歪角は血に飢えているかの如くこちらに向けられており、彼らは今にも襲い掛からんといきり立っていた。


 絶体絶命――今生最大の窮地に追いやられ、早く逃げなくては、頭ではそう思う。しかし身体はつゆとも動かない。「窮鼠、猫を噛む」というネズミは立派である。愚猿はこの期に及んで攻撃はおろか、逃げることすら出来ないのだから。これからオイラは角でつつかれ、蹄で踏みつけられ、そうやって弄ばれた後、終いにはなぶり殺されるのだ。これがオイラの歩む末路だと、未だ立つことすら能わない状態で悪い想像ばかり膨らます。


 そうこうしている内に、両者の間合いはジリジリと縮まっていく。


 (もうダメウキ……)


 迫り来る恐怖からグッと身を屈め、目を閉じる。オイラは死を覚悟した。後は死ぬ直前に見えるという走馬灯が現れるのを待つだけだ。視界の闇、タッタッタッタ――そいつは足取り軽やかにやって来る。シカと言い、ウマと言い、最期まで蹄のヤツらに縁のある人生だった。他にも思うことは色々ある。しかし思い出の引き出しはそれらで渋滞して、その一つ一つを取り上げるには短すぎる。しかしまだウマは来ないのか、そう思ったその時、


 「キュ~ン」


 唐突に起こったシカの叫声きょうせいはオイラを現実世界へと引き戻した。


 「ピエール、大丈夫か!?」


 恐るべき天敵目掛けて石をぶち当てた彼は紛れもなくオイラにとっての救世主だった。


 「マラー!!!」


 如何ともし難い暗闇に一筋の光明が差した瞬間だった。彼は投石の勢いそのままに、無数の石ころを彼らに浴びせる。当然シカたちも黙ってはいない。彼らは一斉にマラー目指して突進した。


 「今だ! 木に登れ!」


 オイラはその言葉のままに無我夢中でそこらの木によじ登る。その様は、と言うと、木登りのプロフェッショナルとは思えないほど不格好なものだった。ただ一途に生きるため、オイラはひたすら高みを目指した。そして孤軍奮闘しているマラーのことを顧みる間もなく、木々を伝って一目散にその場を離脱した。それほどに必死だったのだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 「危なかったな……!」


 その後、二人は別々にシカの縄張りから脱出し、一族の元へと戻った。一度は諦めかけた命、しかし春薫る樹木に生気を養われ、一呼吸ごとにその確かさを実感する。遂にオイラは生還したのだ。そして何故か鼻をつまむ周りの仲間を見るにつけ、ホッと一息、安堵と共に目から涙が零れ出る。


 「おいっ! 泣くなって!」


 鼻をつまみながら話しかける彼の顔――オイラはその顔を見て、ハッとする。


 「マラー……その傷は……」


 よくよく見ると、顔だけではない。腕や脚の随所に赤く血が滲んでいた。


 「ああ、これか……大丈夫だ! 気にすんなって!」


 彼はニッコリを笑って、親指を立てた。ここでオイラは思う。あの日負ったオイラの傷と彼のそれ、傷口の赤み・痛みは同じでも、性質はまるで違う。彼のそれは誇らしくも勇ましい勝者の証だ。オイラはそれを見て、単純に羨ましく思う。子供の頃に抱いた強き者への羨望――それと似たような、いやほとんど同じ感覚に襲われていた。確かに自分では何も出来ないという無力感はある。しかしそれにも増して、今のオイラは彼のようになりたいと願った。彼のように強くならなければ……自分だけではない、他の大切なモノをも守れない――そう思うに至った。


 「マラー……オイラは強くなりたいウキ……!」


 オイラは思わず彼の胸に飛び込んだ。彼はしばらく息を止めたまま、ただ静かに頷いた。しかし我慢の限界だったのか、やがて促した。


 「ピエール……それは分かったから―…」

 「取り敢えず……その……ケツ……拭いて来い……」


 オイラは次の日からマラーの下で武道に励んだ。あの日の悔しさをバネに、どんな辛いことにも耐え、そして実行した。全ては来るべき最終決戦のため、拳を振るい、蹴りを出し、人間界へと帰るその日まで、一途邁進努力するのみだった。



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