決闘
「遂に……やって来たウキね……」
強風吹き荒む思い出の楠、その根元にて、とうとうオイラは名も知らぬ雄猿と対峙する。今朝から吹き続けるこの風は春一番だろうか、オイラは風に靡く体毛を整えることもせず、ただじっと目の前の恋敵を見据える。そしてしばらくの沈黙を経て、向こう方が口を開く。
「おい、お前! どこの誰だか知らねえが―…」
「いい加減、ウキ江に付きまとうのはやめろっ!」
そのとんでもない言い草に、当のオイラは怒り心頭、瞬間湯沸かし器に早変わりだ。そして売り言葉に買い言葉で、
「それはこっちのセリフウキ!」
「お前こそウキ江さんの周りをうろつくのはやめろっ!」
今日の天候に負けじと、荒ぶる語気に乗せて言い返してみせる。すると彼はオイラの言葉に、それ以上言い返すことはない。ただ一つ溜め息をつくや、心底呆れたような眼差しをこちらに寄越す。そしてすうっと大きく息を吸い込んだかと思えば、オイラを睨み据えて曰く、
「やれやれ……これだけ言っても分からないのなら―…」
「やるしかないみたいだな!」
「望むところウキ……!」
この期に及んで気取った態度の彼に対して、オイラは固く握り込めていた鉄拳を今この瞬間、振りかざさんと我武者羅に襲い掛かる。相も変わらずに吹きつける向かい風は季節柄、春一番に違いない。新たな季節の到来はこの恋に吉兆めいたモノを予感させる。春は恋、早く来い――。時流はオイラに向いている。とにかく目の前の敵を倒し、いまこの時、芽生えようとしてる恋の萌芽から悪い虫を追い払うのだ。
一歩、また一歩と近付く彼との距離――やがて手が届きそうになる。未だに動く素振りを見せない彼とは対照的に、殴り慣れていない拳にありったけの力を込め、憎き彼の顔面目掛けて振り抜いた。
(……ウキッ!?)
手応えなく虚空を泳ぐオイラの拳、それを何事もなかったようにひらりと交わしてみせた彼はその流れのままにオイラの背後に回り込む。そして次の瞬間、臀部に激痛が走る。
「うああああ!!! 痛いウキ~!!!」
なんと尻尾を噛まれたのだ。堪らずのた打ち回るオイラは完全に戦意喪失、戦いどころではなくなっていた。しかし戦いは終わらない。やがて彼はオイラのマウントを取るや、一心不乱に顔面を引っ掻き回した。このままでは本当にマズい――オイラは泣きべそを掻きながら、彼に許しを乞おうとしたその時、
「そこまでだ!」
突然、聞き馴染みのある声が飛ぶ。
(兵十さん……!?)
そして彼は凄い勢いで二人の間に割って入るや、身体を引き剥がし、
「おいっ! ロベスピエール! 大丈夫か?」
地面にべたりと伸びてしまっているオイラの肢体を揺すりながら彼は叫ぶ。
「……チッ! 口ほどにもないヤツだな……!」
「これに懲りたらもう二度とウキ江にちょっかい掛けるなよ!」
そう言い放ち、件の雄猿はこの場を離れた。
『情けない』
その一言に尽きる。
兵十さんに付き添われ、山を下る途中、オイラは言い知れぬ敗北感に打ちひしがれ、足取りすら覚束ない。一層のこと、このまま消えてなくなりたい――そう思えるほどに胸の内は落胆の色に染まっていた。彼と別れ、一人になる。このまま下宿に帰るのも憚られるので、路傍の切り株に腰掛け、ただぼんやり一日を過ごす。これからどうすべきか、今は何も考えられない。日は上り、そして下る。オイラはふと視線を上げる。気付けば付近に夕闇の帳が下りていた。遠目に見る、いやに明るく綺麗な夕焼けが眩しい。
(そろそろ帰るウキ……)
依然として裏山を駆け巡る春風はオイラの恋路に進展をもたらすことなく、赤く滲んだ決闘傷を戯れに撫で交わすだけだった。




