邂逅
『……豊学陪に入れるよう頑帳なちい』
(『……農学部に入れるように頑張りなさい』)
昨晩、ハトローによって届けられた手紙はそういう言葉で締め括られていた。誤字脱字の多さは相変わらずだったが、何も知らない長老の激励は薄れかけていた罪悪感を再び呼び覚ます。新緑色付く五月の裏山、オイラはいつものように仕送りの木の実を換金するべく、兵十さんの元へと向かっていた。背中に背負うカバンの中身、大量の木の実は背信の後ろめたさからか、とても重たく感じる。
(これからどうするウキか……)
オイラは文系に進んだものの、そこから先のビジョンを描けずにいた。長老の期待通りに農学部へと進学し、「木の実博士」を目指せたら、それに越したことはなかった。
しかし己が一存で敷かれたレールを外れたいま現在、周囲はともかくとして、自分自身に納得し得るような将来への展望を持てないでいること自体、時たま襲い来る罪悪感や後ろめたさに抵抗し、反論出来ない要因となっているに違いない。だから一刻も早くやりたいことを見つけ、進むべき道を切り開かなければ、気付いた頃には時すでに遅し、明るいとされる未来に大きな禍根を残しかねない。
(だからって急に……)
元はと言えばオイラは猿なのだ。自然界にまつわる実学、つまりは農学にしか興味を持てないでいた。しかし文系に進んでしまった今、法学や文学など、とても実用的とは思えない「虚学」の中から進路を決めなければならない。人気のない山道を一人歩きながら、これからのことを深く考える。
(……そう言えば――!)
消極的な選択肢を並べ、あれでもない、これでもないと首を傾げる「神経衰弱」に疲れた頃、オイラは失念していた「経済」という言葉に年初めの苦い記憶を思い出す。
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「兵十さん、約束が違うウキ!」
「今月はいつもの月の四割、一粒140円で買い取ってくれる約束だったウキよ!」
寒さ厳しい二月初旬、オイラはいつものように一粒100円で計算する兵十さんに食って掛かった。先月の約束では一粒140円で買い取るとしていたからだ。しかし彼は全く悪びれる様子を見せずに、懐から契約書を取り出すや、
「ロベスピエール、ここを見てみろ」
「なになに……来月はその四割増で……ウキッ!?」
「つまり三割減の四割増、98%ってことだ!」
「ウキッ!? 兵十さん、オイラを騙したウキか!?」
カッとなって詰め寄るオイラを窘めながら、兵十さんは教え諭すように言い放つ。
「騙したなんて……人聞きの悪い」
「ロベスピエール、これが経済ってやつよ!」
「ウキッ!?」
そう高笑いに笑う兵十さんを目の当たりに、オイラは騙されたという被害者意識を拭えないでいた。「経済」という訳の分からない概念の所為でオイラは損を被ってしまうのか、行き場のない怒りを覚えると同時に、どこかやるせない気持ちにもなる。しかし続く言葉、
「まあ、これも授業料、と言いたいところだが―…」
「今回だけは勘弁してやる!」
「じゃあ、一粒140円で買い取ってくれるウキか!?」
「ああ、でも今後は気を付けろよ」
こうして無事に取引を済ませたオイラは「経済」という得体の知れない何かの恐ろしさに触れたのであった。
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(『経済』……ウキねえ……)
一度はオイラに牙を剥き、襲い掛かってきた化け物、しかし兵十さんのように手懐けることが出来れば、忽ちにそれは巨万の富をもたらすだろう。オイラはその未知なる魅力に恐れを抱きつつも、一方で心惹かれていく自分を見つけた。「経済」を島に持ち帰り、一族繁栄の術と為す――真っ暗闇の中にか細く差し込む一筋の光明、進むべき方角をおぼろげながらに見出したその時、
(何か様子がおかしいウキ……)
樹上に何かの気配を察し、咄嗟に身構える。そしてガザガザと音を立てる枝木に目を凝らし、しばらく立ち止まっていると、
「えっ!?」「ウキッ!?」
互いに顔を見合わせるや、素っ頓狂な声を上げる。オイラの目の前に現れたのは、美しい栗毛を全身に纏った、目鼻尻尾のチャーミングな安産体型の美雌猿だった。
その瞬間、胸をぐさりと射抜かれたような、今までに経験のない感覚に襲われる。顔はお尻と同じく真っ赤に紅潮し、息をも忘れてしまいそうになる。未だ嘗て抱いたことのない不思議な心境、その由来は分からない。ただこれだけは確実に言える、彼女はオイラを一瞬の内に魅了し、そして狂わせているのだと――。
「なんでこんな所に人間がいるの!」
「ちっ、違うウキ! オイラは……!」
彼女はオイラとの遭遇にただならぬ状況を感じ取ったらしく、来た道を一目散に引き返してしまった。追いかけなくては――オイラは彼女の後を追おうと一歩踏み出すも、その体躯の重鈍さに全身が本来のそれでないことを悟る。
(こうしちゃいられないウキ……!)
オイラは彼女の逃げた方角の木に印を付けると、今まで様々に思い悩み、そして一度は掴みかけた逡巡の土産をどこへやら投げ出して、急ぎ兵十さんの棲み処へと向かった。




