凪日和
暦の上では立春を迎えたにも関わらず、冬の寒さはその厳しさを増すばかり、心身ともに凍え切り、「我が春は遠しや」と草木萌ゆる季節の到来に思いを馳せる如月の折、恋人たちの「誓いの日」はやって来た。
「いつまで髪の毛いじってんだよ……」
髪の毛を整えることに夢中で、洗面所の鏡の前から一歩たりとも動こうとしない明良に対して、僕は半ば呆れたようにそう言い放つ。
「もう少しだから! もう少しで―…」
相変わらずの返事に思わず溜め息を漏らす。彼はさっきからずっと髪をいじくり回してどうにか格好を付けようとしているが、何分不慣れなことをしているため、その出来に関しては素人目にもひどく映り、僕は寝癖と見紛うような彼の髪型に整髪の意義を問いたくなる。そしてそれから数分の後、遂に彼は妥結したようで、
「こんなもんで良いかな~」
そう言ってこちらを向くなり、その出来栄えについてキメ顔で僕に問うてくる。
「どうよ、オレの髪型?」
「へっ!? ああ……良いんじゃない?」
僕は努めて笑わないようにしながら、彼の意に沿うような返答を心掛けた。毛束を四方八方に散らせ、まるでエリマキトカゲの襟飾りみたくなっているそれはどう見ても寝癖としか思えず、とてもお洒落だとは言い難い代物だった。しかし当の本人は僕のおべっかを真に受け、満足気に頷いて見せると、
「お前にもやってやるよ!」
「ええっ!?」
起床してすぐに直したはずの寝癖をまた付けられては堪らない。僕は整髪と言う名の乱髪をなんとか阻止するべく、遠慮がちに手を横に振って見せ、
「いや、大丈夫っす……」
そう言ってやんわりと断るや、彼は軽くため息をつき、呆れたように言い放つ。
「お前さ~、今日という日にそれはないぜ!」
「今日ってあの―…」
最後まで言い切る手前、彼は僕の言葉を遮り、右手の指を鳴らして言う。
「そう、今日はバレンタインデー!」
「バシッとキメて行かなきゃ、貰えるモンも貰えなくなるぞ!」
僕は唖然とした。まさかこの年にもなって、バレンタイン当日にアピールする人間を目の当たりにするとは思いも寄らなかった。そういうことはせめて年明けくらいからやっておかないと結果に繋がる訳もない。その一方で、段取りとか準備といったある種大人の事情を全く考慮に入れず、当日の努力次第で何とかなるだろうと信じて止まない彼の純真は愛するべきかもしれない。
「……取り敢えずそこをどいてくれ」
そう言いつつ、彼を押し退け、鏡の前に立つ。そして歯を磨こうと、手元に視線を落としたその時、
「だ・か・ら……遠慮するなって!」
彼は整髪剤をべったりと付けた手で僕の髪の毛を掻き乱したのだ。僕は咄嗟に抵抗して見せるも、時すでに遅し、僕の頭髪はあらぬ方向に散り広がってしまっていた。
「おいっ! やめろよ……やめろって!」
「良いじゃねえか! オレに任せろよ!」
そうやってしばらく揉み合っていると、玄関の方から類人の声が聞こえてきた。
「修悟! 明良! 何してるウキか!」
「早く行かないと遅刻するウキよ!」
すぐさま時計を見やると、一時の猶予もないことに気付く。
「やっべ! 早く行かなきゃ!」
「お、おいっ! ちょっと待て!」
明良は僕を置いて急ぎ玄関に向かう。僕は乱れた髪型そのままに、ざっと歯を磨き口を濯ぐと、非情な彼らの後を一目散に追いかけた。独り身であれば他の日と変わらぬ冬晴れの一日、しかしこの時、僕らはまだ知らなかった。何事もなく流れ往く「恋人たちの祝日」にこの後、大波乱含みの展開が待ち受けていようとは思いもしなかった。




