白聖夜
夕食をご馳走になった帰り道、オイラは姫華さんの厚意で下宿まで送ってもらうことになった。美術館、水族館、そして高級フランス料理店――猿山育ちのオイラには馴染みのない場所を転々としたため、ヘトヘトに疲れてしまい、今にも寝落ちしそうだった。
やがて心地の良い微睡みの中、今日の出来事を振り返る。美術館、水族館での一幕は前述の通りだ。しかしその後に訪れたレストランでの粗相――これだけは避けられなかった。事の子細に言及することは差し控えたいが、一言で言い表すとすれば、テーブルマナーは面倒だ、ということだ。オイラは人間界に溶け込むため、長老や学者たちに日本式のそれを学んだ。鬼のような熱血指導、来る日も来る日もそれらしき所作を真似し、身に付けていった。そして血の滲むような特訓の末、木の実を箸で掴めた時は嬉しさの余り、狂喜乱舞し、猿にはあるまじき滑り落ちるという事態にまで発展したほどだった。それなのに―…
(やっぱり人間の食文化は面倒ウキね……)
様々に思うことはあれど、仕方ないと諦めるしかなかった。無知は恥だ、と身に染みた一日でもあった。
しばらくして寝ぼけ眼に見慣れた風景が映る。下宿の近辺に違いない、車は大通りから路地に入り込む。そろそろ到着する――そう思うや、ハッと目を覚まし、運転手の黒服に告げる。
「この辺で降ろして欲しいウキ!」
下宿まであと100メートルとない地点で行われた突然の通告は黒服を驚かせ、咄嗟に急ブレーキを踏ませてしまった。そしてこちらを振り向くと、
「あと少しですし……玄関先までお送りいたしますよ?」
「いいや、ここで大丈夫ウキ!」
オイラは必死だった。そこまでされると、下宿に帰っているであろう二人に様々なことが露見してしまうからだ。それは彼らに嘘をついていたことだけに止まらない。アレもコレもソレも――湯水のように沸き起こる危惧の数々、とにかくこのまま行けば厄介なことになると思い、オイラはここで降車することを切望した。
「そこまでおっしゃるのなら……」
オイラの威勢に押された黒服は渋々といった様子で後部座席のドアを開けた。その途端、すうっと忍び寄る外気に身を震わせながら短く礼を言うと、路傍に飛び出し、件の坂をひた上り始める。すると、
「宇喜田くん、ちょっと待って……!」
突然の呼び掛けにびっくりして足を止める。そしてすぐさま振り返ると、そこに車から降りた彼女の姿を見とめた。
「ど、どうしたウキッ!?」
なぜ呼び止められたかも知れず、キョトンとしたまま彼女の方を見やる。彼女は伏し目がちにこちらを窺いつつ、口をもごつかせて何かを言わんと試みていた。
(何か言おうとしているウキか……?)
オイラはその内容を聞き取るべく、彼女に近付こうとするも、彼女は真っ直ぐに手を差し出し、その動きを制する。そして―…
「あなたの非人間的なところに惹かれました……!」
「良かったら……その……私と付き合ってくださいっ!」
「……ウキッ!?」
予期せぬ告白は閑静な住宅街に響き渡るような声でなされ、オイラを大いに慌てさせた。喜治姫華に告白されたという事実はさして重要ではない。それよりもその声量、彼女に似つかわしくない大声での告白は下宿にまで届いているかもしれない――オイラはそのことばかり気にしていた。一方の彼女はオイラの反応から聞こえていないと思ったらしく、再び大きく息を吸い込むと、
「だから……私と―…」
「分かったウキ! 聞こえてたウキ! だから落ち着くウキ!」
これ以上大声を出されては敵わないと思い、彼女の言葉を遮る。そして再度、彼女はオイラに問いかける。
「付き合ってもらえませんか……?」
「分かったウキ! 付き合うウキ! だから今日のところは―…」
「本当……? 嬉しい……!」
その時だった。得体の知れない何かが頬に冷たく触れる。驚きつつ見上げると、無数の白綿らしきものがそこら中に舞っていた。
「あっ、雪だ」
「ウキッ!?」
彼女の一言で悟る、これが噂に聞く雪なのか――南国育ちのオイラには縁遠い存在だったそれに出くわし、寒さも忘れて飛び跳ねる。掴んでは消え、掴んではまた消える雪のひとひらを、まるで蝶々を捕まえるが如く追い求める様子は大層滑稽に映っただろう。現に彼女はそれを見て笑っていた。そして一言、
「今年はホワイトクリスマスね……」
彼女は天に手をかざし、どこかしみじみと呟いた。オイラはそれを特別なものだと知る由もなく、ただ無邪気にはしゃぎ回っていた。こうして初体験尽くしの一日は最高の幕切れで終わりを迎えた。




