窮地
(見られたウキ……とてもマズいウキよ……)
最初に断っておくが、オイラは人間ではない。稀代の天才猿である。島に棲む皆の期待を一身に背負い、黒潮に乗って遠路遥々ここまでやって来た。そして人間の進学校に行くということで人間に擬態しているが、中身までは変わらないらしい。現にあれほど人間の所作を学んだのにも関わらず、いきなり悪癖を晒してしまった。大体決まった場所で立ったまま小便をするなど、普通ではない。前者は高等動物的衛生観の賜物であるし、後者は直立二足歩行の特権だ。だがどんな屁理屈を並べたとしても、同級生と思しき人間に動物的一端を見られてしまったのは確かだった。
(どう言い訳したらいいウキか……)
この状況、付け刃の猿知恵では切り抜けられまい。内心の動揺を抑えつつ上手く言い包める方法を思案するも、生糸を伴わない糸車のようにただカラカラと空回る。そして不意に長老との会話が頭を過ぎる――。
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黒潮に乗り、海を渡っていた時のことだった。ボロ筏を漕ぎながら、入学式に付き添う長老は言った。
『ロベスピエールよ、お前はこれから人間の高校でしっかりと勉強するんじゃぞ』
『その後、大学の農学部へ行き、我々の主食である木の実増産に寄与するんじゃ』
『オイラにそんなこと出来るウキか?』
『大丈夫じゃよ! お前は島の五賢猿も認める天才じゃ! 自信を持つんじゃ!』
『分かったウキ! なんとか頑張ってみるウキ!』
島の期待を一身に背負っていると思うと、やる気がみなぎる。幼い頃から勉強だけは得意だった。他のことは何をしてもてんでダメだが、頭を使わせたら島の誰にも負けなかった。だから長老はオイラを人間の進学校に行かせようと考えたのだ。
『そこで一つだけ注意しておく』
『これからお前は人間として生活することになるが―…』
『絶対に猿だとバレてはいけないぞ』
『もしバレたら―…』
『バレたら……?』
『二度と元の姿には戻れない』
『だから身の処し方には十分気をつけるんじゃな』
その話を聞いた途端、身の毛がよだつ程の衝撃を受けた。やがて気を取り直すや、人間として生きている間、猿であると疑われるような行動をするまいと肝に銘じた。それに留まらず、人間に尻尾すら掴ませないことを固く決心し、目標の海岸まで筏を漕ぎ続けた――。
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あれほど気を付けるよう言われていたのに、入学式早々窮地に追い込まれた自分がひどく情けない。醜態を目撃した彼はまだ入り口で突っ立っている。肝心の小便も緊張のために出が悪い。
(何としてでも誤魔化さなきゃならないウキ……)
一先ず挨拶だけでもしておこうと、場を取り繕うような作り笑いをあちらへ向け、言葉を掛けようとしたその時、廊下の方からつかつかと足音が聞こえてきた。そしてそれは次第に近付き、入り口の彼を見つけては声を張り上げる。
「コラッ! そんな所で何をしている!? 用が済んだら早く戻らんか!」
その声を聞いた彼は弾かれたビー玉の如く急いでトイレに駆け込む。そしてトイレの中に入って来るなり、オイラに向けて言う。
「お前も早く戻って来い!」
「はっ、はいウキ!」
取り敢えず怖そうな先生の登場で窮地を脱することが出来た。しかしさっきの彼には尻尾を掴まれたかもしれない。だから今後は彼の動向を注視しつつ、自分の立ち居振る舞いにも十分気を付けよう――そう心に決め、小便を絞り出すと、逃げ帰るようにその場を去った。