脱走
済み渡る青空、灼熱の太陽に照らされて、喧しく喚き散らすセミの鳴き声に夏の訪れを感じる。陰鬱な梅雨はどこへやら、陽気な季節の到来は人々を遍く高揚させる。しかしオイラは例外だった。浮かれる世の中とは裏腹に、どこか暗澹たる雰囲気を纏って過ごしていたのだ。それはなぜか、答えは先月の中間考査にあった。
「宇喜田、もっと勉強しろ!」
解答用紙を返却される度に各教科の先生から言われた言葉を思い出す。
(ちゃんと勉強したはずなのに……)
初めての定期考査は全科目平均点以下、数学に至っては赤点という燦々たる結果に終わった。稀代の天才猿・ロベスピエールも人間界においては一介の落ちこぼれ学生でしかないのだ。その事実にひどく衝撃を受けるとともに、果たしてこのままで農学部に行けるのか、一抹の不安が過ぎる。
そしてある晩のこと、将来への不安を振り払うように勉強していると、伝書鳩のハトローがやって来て、長老からの手紙を届けてくれた。その内容を読むと、明日仕送りの木の実が届く、ということだった。しかも先月より多く入っているらしく、オイラは小躍りして喜んだ。明日は土曜日、午前中で終業する。ならば午後から裏山に行けるではないか、念願の換金に夢が膨らむ。そしてその使い道をあれこれと妄想し、様々な邪念に付け入る隙を与えた結果、勉強に集中出来なくなってしまった。
(まあ何とかなるウキよ!)
受験は二年半後、今から焦っても仕方がない。とにかく明日が楽しみだ。そう思うや、オイラは課題をやりかけたまま、早めの床に就くこととした。
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翌日、気も漫ろに午前の授業を終えると、急ぎ荷物をまとめ、教室から飛び出す。するとその瞬間、背後でオイラを呼び止める声がした。
「おい、類人! なに帰ろうとしてるんだ!」
「お前、掃除当番だろっ!」
修悟の声に思わず立ち止まり、ハッとする。今日、というよりかはこの一週間、その役回りにあったことを完全に忘れていた。
「ウキ……」
オイラは焦っていた。なぜならば先月裏山へと登った時も道に迷ってしまい、兵十さんの家に着くまでかなりの時間を要したからだ。現時刻は午後の一時前、これからすぐに帰って出発しなければ、下宿の門限までに戻れないかもしれない。加えて昨晩から楽しみにしていた出来事を目の前に、気持ちの高揚を抑えられないでいた。致し方ない、オイラは心を決め、勢いよく頭を下げた。
「修悟! 今日は見逃して欲しいウキ!」
「急用でどうしても早く帰らなきゃならないウキ!」
オイラの必死な懇願に、彼は少し考えているようだった。この感じ、もうひと押しで聞き入れてもらえる――直感的にそう思うと、
「今度、掃除当番代わるウキ!」
「三日分! 三日分でどうウキか……!」
畳み掛けるように好条件を提示する。すると彼はそれを受け入れたらしく、やれやれと笑ってみせる。
「しょうがねえなぁ……約束だぞ!」
「針千本ウキ!」
彼に向けて小指を振りつつ、急ぎ帰ろうと前を向くや否や、
「宇喜田!」
更に背後から呼び止められる。聞き馴染みのない野太い声に再び足を止める。
「今度はなに―…」
振り返ると、そこには数学の先生が立っていた。
「お前、なに帰ろうとしてんだ!」
「数学の補習! 土曜日にやるって言ってたよな?」
「ウキッ!?」
「先週もすっぽかしやがって……今日という今日は逃がさんぞ!」
そう言われるとそうかもしれない。一瞬の間を置いてそのことを思い出した。しかし裏山への道すがら、一刻の猶予も許さない現状を鑑みるや、のうのうと補習を受けている場合ではなかった。
「……具合が悪いウキ」
「……んっ!?」
「今日は具合が悪いから早く帰るウキ!」
これで何とかなるだろう――そう思い、再び帰ろうとするも、先生は認めない。
「そりゃ頭の具合は元から悪いだろう」
「仮病なのは分かってるんだ、いいから早く来い!」
こうしてオイラは引き摺られるように空き教室まで連れて行かれた。そしてそこに入るなり、問題を手渡され、
「解き終わるまで帰さないからな!」
(こんなの、短時間で解けるワケないウキ……)
所狭しと並ぶ数学の問題を目の当たりにし、半ば絶望的な気持ちにもなった。解けない問題を解くまで帰さないという体の良い監禁はオイラから換金の機会を奪おうとしていた。これはいけない――そう感じるや、都合の良いように思考を切り替える。オイラは非道なこの仕打ちを基本的人権に対する挑戦と受け止めたのだ。
(やってやるウキ……!)
帰さないと言うならば逃げ出すのみ、オイラはとうとう「脱走」を決意し、したたかにその機を窺った。しかし先生はオイラを見張ったまま、一向に教室を離れようとしない。それならばこっちから仕掛けるのみ――そう覚悟を決めると、カバンを持ち、おもむろに立ち上がった。
「先生、トイレに行ってくるウキ」
「荷物は置いていけよ~」
「ウキ……」
オイラの目論見はお見通しと言わんばかりに、こちらを一瞥して短く言う。その眼光からオイラを絶対に逃がさないという強い意志すら感じた。
(かくなる上は―…!)
オイラは強行突破を図るべく、無理矢理にでも脱出しようと教室後方のドアへ向かった。
「おいっ! どこに行くんだ!」
「急用ウキ! 今日のところは帰るウキ!」
「待てっ!」
一旦教室の外に出て、回り込もうとする先生を横目に、事の成功を確信する。このまま逃げ切れる――そう思った矢先、通路に置かれた誰かの荷物に足を引っかけ、スコンとズッコケてしまう。
「逃げようとするからバチが当たったな!」
「いい加減、観念しろ!」
「それなら……!」
往生際の悪さは百も承知、今度は前方のドアから脱出を図る。しかし障害物の少ない廊下は移動しやすく、どうしても先に回り込まれてしまう。そして前後のドアを行ったり来たり、そんないたちごっこを二、三度繰り返した後、
(このままじゃ埒が空かないウキ……)
何か他に方法はないのか、焦燥感に駆られ、周りを見回すと、
(そうウキ!)
オイラは遂に外界へと通じる第三のドアを見つけた。教室のドアと正対するように存在している脱出口、それは―…
(窓から出て行けばいいウキ!)
幸いなことにここは一階だ。窓から飛び出しても怪我の心配はない。出口ではない窓からの脱走――このコペルニクス的転回にオイラは稀代の天才であることを再認識する。そして次の瞬間、さっさと窓の方に駆け寄ると、手際よくそれを開け、ピョンと跳ねるようにして外に逃げ出してみせた。
「宇喜田ー!」
先生の怒声が去り往く背中に虚しく響く。オイラはすぐさま靴を回収し、急ぎ下宿に逃げ帰った。そして届いていた段ボール箱の木の実をカバンに詰め込むと、裏山目指して一目散に駆け出した。ひどく蒸し暑い、仲夏の昼下がりのことだった。




