良いことをしたら何かあってもいいじゃない
小さい頃、カナヘビを捕まえては噛まれるたびになんともいえないあのはむはむされている感に心を奪われてしまった記憶が甦る。
あの必死に噛みついてますよという感じが可愛いんだよなぁ…痛キモチイイし…と現実逃避をしていた俺の気をなんとか自分に向けようと奮闘したトカゲ(仮)は、ようやく意識が向いた頃にはグッタリしていた。
「本当の本当にドラゴンなのか…?」
「そうだ」
「本当にドラゴンならそのドラゴン姿を見せてみてくれ」
「フムゥ…そうしたいのは山々なのだがな」
俺の問いに一言区切った自称ドラゴンは、すっかり冷めてしまった焼き鮭を一口パクリと食べた。あむあむ租借してゆっくり呑み込むと、困ったような声でこう言ったのだ。
「この世界、我には狭いのだ…」
狭いとはどういうことなのだろうか、と眉を潜めると、考えている事がわかったのか視線を窓へ向けた。
窓からはビルやマンションなどが建ち並ぶ街並みが見える。
俺が住んでいる街は比較的都心に近く、建物も多い。
「この世界に来た時、我は本来の姿であった。だが、物と物の間隔が狭すぎて崩してしまった」
「よくそれで騒ぎにならなかったな」
それだけ大きいのならば、誰かに見られているはずだ。だが何故か得意気に尻尾を立てて「ウム」と頷かれた。
「危機を察知した我は目眩ましの魔術で即座に誤魔化し、この姿へ変化したのだ!」
ドヤァ!といった様子で語る彼の姿に疑惑の眼差しを向けていると、重大な事に気が付く。普段から出勤までかなり余裕をもって早起きをしていたが、話し込んでいる内に時間が迫ってきていたのだ。
慌てて椅子から立ち上がり、着替え始めた俺に向かってトカゲが何かを言っていたが遅刻は絶対にしてはならない。そのまま「いってきます!」とだけ叫んで駅へと向かった。
ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られながら溜め息を吐く。
なんとか電車には間に合ったが、今朝は異常な事態に翻弄されてしまった。一体あれはなんだったのだろう?と悶々と考えるはめになってしまったのは仕方のないことだ。
「今日は珍しく時間ギリギリですね。いつもはもっと早く来てるのに」
会社についた時、そう言われてしまった時は思わず苦笑する。まぁ、これで今日もいつも通りに仕事を終わらせて、いつも通りに帰ればいい。そう思いながらパソコンに向かった。
何事もなく仕事を終わらせた俺は、解放感に浸りつつ会社を出ようとした所で何かがおかしいことに気付く。
振り返ってみて、誰もいないことはまだわかる。何かが決定的におかしいのだ。
背中に嫌な汗をかきながらその違和感の正体を突き止めるべく、周囲を注意深く観察する。何と無く、動いてはいけないような気がした。
ふと、とあるものが目に入る。それは鏡だ。
確か、身嗜みを見直す目的で立て掛けられた大きめの鏡だった…と思う。しかしその鏡には何も映っていなかった。
「………いやいや、きっと反射で見えないだけだな。うん」
自分にそう言い聞かせるが、否。そんなことはない。
何故ならその鏡は墨を垂らしたような漆黒を映していたのだから……。
物凄く嫌な予感、寧ろ悪寒を感じる。あのトカゲを拾ってから、良いことをしたはずなのに何やら妙な目に逢いすぎなのではないだろうか。
そんなことを考えていると、不意に鏡の「中身」がどろりと溶け出した。まるで泥のような漆黒の何かは鏡からその全てを出し切ると、うぞうぞ蠢きだした。
「ヒィ!」
あれは最新技術の3Dとかいうやつですか!?質感まで再現されててスゲェなー!最近の科学ってスゲェ!
なんて内心パニックに陥っていると、その泥は粘着質な音を立てながらムクムクとある形を取る。
まるで犬のような、しかし犬としては筋肉量がおかしく、それでいておぞましい「生きている感じ」のしないナニカの姿になった。
「ガロロロ…」
泥から泡がボコボコと出てくるような濁った唸り声を発しながらそれは俺を……見た。