05
石の頂上に立った女は、一度二人を見ただけで、言葉を発する事なく空を見上げた。
月明かりに照らされた花は、白い花弁を水に落とし葉からは艶を失わせていた。小さな滝はいつのまにか流れを止め、風の音だけが辺りに響いていた。
無言のまま佇む女にココは声をかけた。
「こんな夜中に何をしているの? 村の人じゃ無さそうだけど」
女はココの問いに対し口を開こうとしなかった。オルカも続けて声をかける。
「私達はアルフ村の者です。あなたはこの辺りの方ではないのですか」
オルカは水面に数枚の白い羽が浮かんでいるのことに気が付いた。先ほど聴こえた羽音は間違いではない。
「すみませんが――」
再びオルカが口を開いた時、突然女は石を蹴り水面に降りた。
腕を伸ばしオルカの首元を掴もうとしたが、オルカは咄嗟にそれを扇で払い、女との距離を保った。
「……っ!」
女は驚いた様子で一瞬目を見開いたが、すぐに腕を構え直すと異様なまでの殺気を放った。
「いきなりですね!」
オルカは扇を構えた。黒の地紙には鮮やかな七匹の蝶が描かれ、扇面の中央で幾重にも重なる蝶の羽は、牡丹の花弁のようにも見える。金糸で紡がれた扇骨と地紙は淡く光を放ち、それに合わせて戸尻の紐先に付けられた黄金色の珠も輝きを放った。
オルカが要に指を這わせると、扇骨からは流れるように魔力が煌いた。
「クラベルタ……?」
扇の魔力を感じ取った女は、不思議そうに小さく声を出した。凛と透き通った声は、夜風に乗って遠くのココの耳にもよく届く。
女は構えた腕を下ろすと、じっと扇骨を見つめ、続けて言葉を発した。
「それらは界喰石か? どこで手に入れた」
「……界喰石?」
突然反応を見せた女に驚いたオルカは、思わず自分の扇に目をやった。
扇を構成する七本の扇骨は、オルカが各地で開放してきた魔石から作られたもので、七つの石はそれぞれ違った魔力の性質を持つものだった。
「デイルエード、キュランダ、ギアナ……随分と石を持っているようだな。我等が黙した石ばかりか、貴様はなぜそれらを必要とする?」
女は扇の骨を指差し数え一方的に訊いた。
聞いた事も無い言葉にオルカは一瞬の戸惑いを見せたが、女の質問に答える事は無く強く言い放った。
「僕達の質問は無視で、そちらの質問には答えろと? いきなり襲ってくるような方に答える気はありませんよ」
オルカが言うと、ココも言葉を続けた。
「何よ、偉そうに! あたし達はこの石に用があるの。この石の魔力を空っぽにしないと、とっても危ないんだからね! あなたこそ邪魔しないでくれる?」
女は二人から目を離し、菫青石に右手を翳した。直接石に触れたわけではなかったが、魔力の結晶が漏れ出し、空へと光が浮かび始めた。
「……ミヒュンタレーに触れたのか」
石はまるで、女の所有物かのように制御されていた。
女は怪訝な表情を浮かべたが、髪を一度掻き揚げると突然語り出した。
「一つ前の冬、我の見つけた光が突如消失した。元より均衡など取れるものではないが、短期間に複数石の魔力が消え去ったのは疑問であった。報告では我が失したクラベルタ以外にも六つの石があると言う。その七つ全ての石をお前が持っているのは偶然ではないのだろう。我らの願いを妨げる目的はなんだ? 僅かに感じた魔気は底神の其れだが、我はお前を感じるのは初めてだ。上位の魔族か? 大地の者ではあるまい」
突如語り出した女の言葉を、オルカは一つ一つ冷静に頭の中で巡らせていた。丁度一年前、オルカは大陸の北にあるヒュダ洞窟で魔石の開放を行った。女の並べた単語は聞いたこともないようなものだったが、呼び名は違えど、恐らく七つの石は全てオルカが解放したものに違いない。
「あなたの言うそれらの石の魔力を開放したのは私です。石には魔力が蓄積され危険な状態にあったので、石の魔力を開放しなければなりませんでした。あなたの目的はどういったことでしょうか? 私と同じ目的であるのならば、互いが争う必要は無いと考えるのですが……」
オルカは開いた扇を閉じて一旦対話の姿勢をとることにした。会話の中で相手に与えられる情報はひとつとしてなかったが、原因の判らないこの状況を打開する為、可能な限りの情報を手中に収める必要があると考えた。
「この石はミヒュンタレーと呼ばれるのですか?」
オルカの言葉に女は興味を示すと、質問に答え始めた。
「ミヒュンタレーは、遥か昔よりつけられたこの土地の名だ」
「そうですか。知識不足で申し訳ありません。あなたさまは長き時を過ごされておいでのようですね……」
「創世記の頃には五百を数えていた。我等は底の者に危害を加えるつもりはない。邪魔はしないでほしいものだ。何れ我等の長が底の(ー)王に伝える時期も来るだろう」
女は放った殺気を消していた。同属のように接する女の言葉の全ては、オルカには理解が出来なかった。しかし機会を逃すまいと断片的な情報を頼りに、オルカは頭の中で仮説を立て始めていた。
底に眠る古き神々は、祖神である不死鳥の力により不老不死の力を与えられたと言われている。数千歳を超える神もいると言われているので、五百を越える目の前の女が、人間では無い事に間違いはなさそうだった。
扇についた黄金色の根付の珠は、ナホ国を守護する魔神から貰った魔具だった。それが放つ魔気を感じ、女はオルカを魔の者だと考えた。魔神の気を感じながらも臆する事の無い様子からは、自身が上位魔族より上の存在、もしくは魔神に相当する位を持った者の可能性が高い。
魔物が大地に現れる冬の時期、魔族が人を襲うといったことはあったが、通常魔神が人に対して危害を加えるといったことは無い。賢人プランシーが記した書物には七十二の魔神が記述されているが、古より底の神は大地の者と密接な関わりがあるとされていた。
そのような存在が大地を消そうとするのだろうか、オルカは不思議に感じた。
「あなた様は、ミヒュンタレーをどうなさるおつもりですか」
「今はまだ話す時ではない、だがお前の持つ石については我も不問としよう。悪いがそのまま立ち去って貰おうか」
女は両手を小さく掲げ空で踊らせた。突如黒髪が白へと変化し、背中からは真っ白な翼が生えはじめた。
二枚の翼が羽ばたく度に風が巻き起こり、落ちた白い羽根が水辺で揺れた。
「何よこれ……もしかして、魔物……なの……?」
ココは驚き思わず声を漏らしてしまった。その様子にオルカも緊張を隠しきれず、扇を握る手には力が入る。
女は二人の様子を見ると、二枚の羽を高らかに広げて腕を斜に伸ばした。
「我の姿を見て恐れを抱くとは実に不快。若いとはいえ、我等の姿を知らぬ訳ではあるまい。そのような目を向けるとは、いくら底の者と言えど――」
女はオルカ達に怒りを向けたが、扇についた珠に気付いて言葉を詰まらせてしまった。何かを確認するかのように、瞳が紅く輝いた。
「魔気はその珠からか……石の魔力が入り混じり見分けがつかなかったが、お前達は底の者ではなく大地の者ということか……人が魔神を飼うとはなんともおこがましい。そのような低俗な者に、我等の石が消されていようとは虫唾が走る!」
一瞬のうちに撒かれた殺気に、オルカはココを遠ざけようと叫んだ。ココもまた強い殺気を感じとり、オルカの言葉と同時に後ろへと退いていた。
「魔神とは共存関係だ、別に飼っている訳ではない」
「フン、何が共存だ、三世界の礎も知らぬ愚かな者共よ」
女は少し呆れて言葉を吐き捨てた。
「三世界の礎?」
「長き時を得ようと人は変わらず無知で愚かだ。どうせ消える身だ、大地の者よ、お前の問いに答えてやろう」
女は嘲笑しながら羽を動かすと、軽々と石の上に飛び乗った。
両腕よりも長い翼と、真っ白に輝いた髪には美しさを感じたが、女から振り撒かれる殺気に肌が痺れを感じている。
「人でも底の者でも無い者が会話をしてくれるのはありがたく思います、しかし『消す』という言葉には同意出来ないですね」
オルカは抑揚のない声で答えた。
「相も変わらず大地の者は傲慢だな。お前たち人はどれ程の時が経とうと決して変わらない、変わることは無い。神々の決断も、貴様らにとっては些細な出来事の一つでしかないようだ」
女は羽をたたむと両腕を胸元で組んだ。
「それではもう一度聞きます。あなたは一体何者ですか」
オルカの質問に、女は少し間をあけて答えた。
「我はサリエル。天より堕天し天神の一人だ」
「天神……空に……住んでいると言うのですか? 天に神がいるなど聞いた事も……」
突拍子も無い答えだった。月の光に照らされ、サリエルの影が大きな人の形となって伸びている。
「空って何よ、雲の上にでも住んでいるって言うの? 街が浮かんでて雲でも食べるっていうの? そんなことある訳ないじゃない!」
木陰に隠れていたココが思わず口を挟んだ。子供のような質問だったが、理解が出来ないのも確かだった。
「住んでいるわけではない。我らは存在として其処にあるのだ」
サリエルはココを見る事もなく言う。
「じゃあ何を食べるのよ!」
雲の上には街があって、羽の生えた人たちが住んでいる。オルカはそんな想像を描いてみたが、納得がいくものでは無い。
「我等が姿を成す事は稀だ、精神世界ではそのような物は必要無い、我等は常にサンダルフォンと共にある」
「せ、せいしんせかい?」
次々と発せられる理解不能な言葉に、ココはとうとう返す言葉も失ってしまった。
「魔族は自らを精神と化し、地底の奥底に存在を残すと聞いた事があります。遠い昔、人と神の契約で魔族は底に姿を消した。そして魔の者が大地に姿を現すことが許されたのは冬の夜だけだと……おとぎ話なのか伝承なのかは知りませんが、あなたも同じようなものなのですか?」
オルカは国で学んだ歴史を思い出しながら言った。
「そうだ、それが決まりだ。底の者は大地が恋しいのだ、我等天神のように自身の世界で留まれば良いものを……なぜあのような選択を得るのか理解不能だ」
「では魔族は地底に住み、あなたは天に住んでいると? そして僕らは大地に住む者だと……それぞれの世界が確立されていながら、天の者はどうして大地に降りる必要があるのですか」
オルカの問いに、サリエルは怒りを露にして答えた。
「大地の者は制約を破り、我等の世界へと無断で足を踏み入れようとした! 神々の契約を無視し、自らの望むままに行動を示したのだ! そしてそれを知らぬ人もまた罪だ……世界の管理も出来ぬような愚かな者共は世界を得る資格などない。我等はお前等人を消す決断を行った。その為の界食の石であったが、まさか抗う者はいたとはな……」
「それでは今までの石の暴走は、あなた達が行っていたことなのですか? 石を暴走させて人々を殺しているは……あなた達、天の存在なのですか……?」
「そうだ、大地の者など全て消えればよい、人などこの世界には必要のない存在であろう?」
当然の事のようにサリエルは言い放った。
想像を絶する言葉に、オルカの体は静かに震えていた。
「……それじゃあ……僕の家族を、村を消したのはお前達だと言うんだな。石の暴走は事故ではなく……お前が……!」
オルカは込み上げる怒りを抑えきれずにいた。
「フン、神々に背いた罪は大きい、罰を受けるのは当然の事であろう」
サリエルは少し笑うと、手のひらの上で二つの光球を浮かべた。
「僕は神に背いた覚えは無い! ある日突然家族を奪われたんだ! 僕は……お前を許すわけには行かない!」
オルカは怒りを殺気へと変え、扇を構えて魔力を放出させた。
「許して貰うつもりなどない、だが覚えておこう。我等に歯向かう哀れな人間がいた事をな、ははっ!」
サリエルはオルカをあざ笑い翼を広げた。
「天神サリエル、僕は一つだけお前と同意するところがある」
「同じだと?」
「お前を消そうと思っていることだ!」