04
秋とはいえ太陽が昇っている時間の気温は温かく、額には汗が滲んでいた。
二人は丘を下ると、湖を左に迎えながら早足で歩いていた。長い葦が行く手を邪魔し、荒れた岩場は森に慣れたココでも辛い道となっていた。
何度か光を見失ったが、ココはこまめに方角を確認し森の奥へと進んでいった。ほどなくして川が見えると、ココは躊躇なく水の中に足を踏み入れた。靴の中に冷たい水が沁み、一瞬にして汗が引いた。
「光の見えた場所は、この辺りだと思うのだけど」
川を越えると高い木々が並んでいた。ずっと森の奥まで続いているのかと思われたが、視線を落とすと急な岩場が崖を作っているのが確認できた。気付かず足を進めると崖から落ちてしまうのではと肝を冷やしたが、下を覗くとそれほどの高さは無いようだった。
オルカは崖伝いに視線を伸ばすと、滝が流れているのが見えた。水が流れる先には綺麗な円を描いた水溜りがあり、中心には三角に尖った石がある。
「あそこだ」
ココは手近にあった蔓を引き、ナイフで同じ長さに整えて結ぶと一本のロープを作りだした。木にロープを結びつけると、体に巻きつけ器用に崖を降りていく。
ココが崖下で手招きをしたが、オルカは高いところが苦手だったので、慌てて迂回できそうな場所を探したが、そのような都合のよい場所は見つからなかった。
ココが何度も叫ぶのでオルカも覚悟を決めて蔓を掴んだ。足場を確認しながらゆっくりと崖を降りていたが、あまりにも動きが遅かったので、見兼ねたココがロープを掴み、オルカの足を無理矢理掴み引きずるようにして降ろしてしまった。
浅い大きな水溜りに近付くと、水の中には梅花藻が咲いていた。青々とした葉と小さなかわいらしい白い花は、波紋ひとつない水面に敷きつめられ、白詰草の草原のようにも見えた。
「こんな場所があったんだ……」
二人が水辺に近付くと、青い結晶が風に吹かれたように空へと昇った。石は悠々として威厳に満ち溢れ、決して人が触れてはいけないものであるように、その存在を浮き立たせていた。
水面の梅花藻は水の流れも無いのに、まるで生きているかのように揺れていた。小さな滝の音が響く中、オルカは水の中に足を踏み入れた。梅花藻の葉は踏まれても折れることはなく、人を軽々と支えている。オルカは静かに葉の上を進み、ゆっくりと石に近付いた。
オルカの手が石に触れると、空へと昇る結晶の勢いが増した。魔力の結晶が薄い霧に混じり、空には一本の虹が生まれる。
「わぁ、綺麗!」
「ココ、ありがとう。探していた石が見つかったよ」
「よかったぁ、これで安心よね?」
「そうだね、あとは蓄積された魔力を全て放出すれば大丈夫だよ。暫くここにいてもいいかな?」
「うん、平気だよ! 村を救ってくれる魔法使い様に感謝だね」
オルカは無言で笑みを浮かべると、両手を這わせ魔力の放出を始めた。
風が冷たくなった頃、森の中に日暮れを知らせる鐘の音が響いた。村の教会では夕暮れ前に鐘を鳴らしており、村の外で作業をする者達は、それを合図に村へと帰ることとしていた。
飽きずにずっと虹を眺めていたココだったが、その音を聴くと、思い出したように立ち上がって声を発した。
「オルカ! もう帰る時間だわ。作業はもう終わりそう?」
「そっか、もうそんな時間なんだね……でも僕はもう少し作業を続けるよ」
「え? だめよ。もう帰らなきゃ夜になっちゃうわ」
「僕なら大丈夫、通ってきた木に印をつけておいたから帰りは一人でも……」
オルカは石に手を触れたまま後ろ振り返ると、ココが両手を腰にあて少し怒った表情を浮かべていた。
「森で行き倒れるような人が大丈夫な訳ないじゃない、あたしがいなかったらあなた死んでいたかもしれないのよ! それに夜は魔物が出るかもしれないわ。オルカが残るって言うのならあたしも残るわよ、あたしが怪我でもしたらどうするの? あなた恩を仇で返すの!」
ココが矢継ぎ早に言葉を並べたので、オルカはその威圧に負け思わず石から手を放してしまった。
「うっ、それは……でも石を……いや、その……じゃあ……帰ります」
「はい!」
ココはオルカの返事に頷くと、崖の方へと走りだした。蔓に手を伸ばし崖を上ろうとしたが、水辺から離れたオルカが、真剣な表情で石を見つめているのに気が付いた。
その様子を見たココは、少し石が気掛かりに感じられたが、二度目の鐘が響いたので帰りを急ぐ事にした。
「さぁ、帰りましょ」
森を抜けた時には既に日は落ち、闇が辺りを包んでいた。
家の前では心配そうにウルナが立っていたが、戻った二人の顔を見ると安心し、労いの言葉と共に二人を優しく迎えてくれた。
家に入ると、コルゴールの陽気な声が響いた。
「おう! 狩りはどうだった、猪の一匹でも捕まえてきたか? ハハハ!」
コルゴールは空になった酒瓶を片手に、大きく笑いながら顔を真っ赤にさせていた。
「もう! 今日も飲んでるの? また二日酔いになっても知らないからね!」
開いたままの扉の外で、通りすがりの農夫が、二人のいつもの会話を聞いて笑っていた。
「オルカさんもご苦労だったね、疲れたんじゃないかい?」
「いえ、森の中を案内してもらっていい経験ができました。探していた物も見つかったので助かりましたよ」
「そうかい、それはよかったね。それじゃあ直ぐに食事の準備をするから、少し待っていて頂戴ね。ココ、手伝ってくれるかい」
ウルナは暖炉に火を入れると、コルゴールに火を見ておくようにと伝えた。コルゴールは軽く返事をしただけで、次のワインの栓を抜こうとしている。
オルカは食事の準備が整う間、部屋に戻って今日までの記録を付ける事にした。
机に向かったオルカは、羊革紙で出来た一本の小さな軸を取り出した。オルカは筆を取ると、びっしりと埋められた最後の文字の続きから記録を書き足した。
『アルミ暦六十一、秋月。ヒュダ洞窟。方解石の魔力開放から一年。アルフ村より北、空の湖と呼ばれる湖にて魔石を発見。シルフィード発見の石はこれで八となる。雄大な自然に囲まれた森と水の恵を得た石は、その色や反応から菫青石だと推測。既に漏れ出した光の放出量から、蓄積された魔力の量は膨大で、早急な対処が必要だと考えられる。夜を待っての作業を予定。次記は作業完了報告とする』
オルカは筆を置き、袋の中から透明の水晶珠を取り出した。まだ乾いていない文字の上を這わせるようにして転がすと、文字が水晶の中へと吸収されていった。
透明だった水晶珠はあっという間に黒く染まった。羊革紙には灰色の薄い文字だけが残り、水晶の中では文字が躍っている。
オルカは扇を抜くと、戸尻の紐を解いて水晶とはまた違う種類の珠を取り出した。それは龍の瞳のような黄金色をしており、少し異質な雰囲気を持つものだった。黄金色の珠の中は、まるで生き物が住んでいるかのように蠢き、見る度に色彩を変化させている。
文字を吸った水晶珠を黄金の珠に当てると、黄金色の珠が、静かに水晶の文字を吸収してしまった。
「頼んだよ、セーレ」
水晶珠からは黒が消え、元の透明度を取り戻していた。
オルカは昨日と同じよう暖炉の前に椅子を置くと、手に持った扇を額に当て考え事をしていた。考え事をする時は、扇を持つのがいつのまにか癖となっている。
石の暴走はいくつかの条件が重なり起きる現象だった。大地を伝わる魔脈から流れる魔力は、自然を介して魔石へと蓄積される。その魔力が石の許容量を超えた時、魔力が結晶へと変化し漏れが発生する。
地底神バール。七十二もの魔の神を束ねるその強大な力は、大地に走る魔脈の元だと言われている。バールの姿を見た者や、その力の元がバールである根拠も無かったが、魔導師と呼ばれる人々は、この魔脈の力を用いて魔道を扱っていた為、世界では魔力の元=魔神バールの力というのが常識とされていた。
季節は秋の終わり、魔力の漏れが底の影響を受けにくい昼間に現れていたのは、石の暴走が起こる前触れを感じさせていた。
冬の夜に強まる魔力が石に影響させる危険もあり、石がなんらかの変化を起こす可能性も否定はできない。
オルカはあの時、すぐにでも魔力の開放を行いたかったが、ココを連れたまま夜の森に残る訳にも行かなかった。しかし、石に残された時間を考えると不安は尽きることがなかった。
焦る気持ちが無意識のうちに出たのか、オルカは踵で床を叩いていた。それを見たコルゴールが面白そうに声をかけた。
「どうした、飯が待ち遠しいのか?」
「あ、あはは。そうなんですよ……お腹空いちゃって」
咄嗟にその場を取り繕ったが、調理場のココは不安そうな表情でオルカを見つめていた。
窓の奥に広がる闇から、オルカは十年前に感じた恐怖が迫って来るような気がしてしまった。震えを寒さで誤魔化し、暖炉の熱に手を当てた。恐怖を意識の奥へと奥へと潜り込ませるように、椅子を前へと引いて、無理にでも温もりを感じた。
夜更け、霧が村を覆っていた。
オルカは家の明りが全て消えたのを確認すると、静かに部屋の扉を開いた。寒気が喉元に入り咽びそうになったが、なんとかそれを堪えて外へと出る。
扇の要に指を触れると、一本の骨の先からは小さな炎が揺らめいた。
一年前、ラ・ママデラ火山で見つけた石を開放した時も、今日と同じような寒い日だった。その時は常に火口から熱波が吹き上がっていたので寒さは感じなかったが、夜空の月は同じ色に輝いていた。
岩の隙間からは真っ赤な溶岩が溢れ出し、噴火を匂わせる噴音が聞こえる度に、何度も肝を冷やしたのを今でも覚えている。
石探しにも苦労したが、長時間に及ぶ魔力開放の作業は困難を極め、辛い思い出となっていた。だが、石を開放した後に持ち帰った赤鉄鋼は、扇の骨に加工され、暗闇を照らす松明の代用や暖を取る道具として利用されていたので、収穫としては大きいものだった。
今回の魔力開放は時間が切迫しているものの、火山地帯での作業に比べると何倍も楽なものだと感じていた。危険な石ではあったが、魔力を開放してしまえばただの石に変わりない。再び石に魔力が蓄積されたとしても、それは数百年もの歳月がかかるような話だった。
オルカは村の外れから森へと入ると、扇から出る火を少し強くした。月明かりも入らない森の中だったが、帰りに撒いた蓄光粉が扇の火に反応し、道に迷う事無く目的地へ向かうことが出来た。
いくつかの目印を越えたとき、オルカは気配を感じた。数は一つ、音は無いが確実に後をつけている。
オルカは火を消すと暗闇の中で扇を広げた。木の影に隠れて息を殺し、風の向きを確認する。
獲物を狙う獣が闇に紛れているのかもしれない。いつぞやの狼のように殺気を剥き出しにしてくれれば分かりやすいものだが、知恵のあるものはそのような愚かなことはしない。
オルカはバールの影響を受けた獣や、底から上がる魔物を疑い緊張したが、近付く気配に違和感を覚えると、それが横切ろうとした時、わざと驚かすように声を発した。
「こんな夜中に一体どこへ行くつもりなんだい」
「きゃっ!」
声を掛けられたココは、体をびくりとさせてしりもちをついてしまった。
「まったく、夜は危ないって言っておきながら……」
「いたたた……だってさぁ、オルカが夜中にこっそり出て行くもんだから、あたし心配になっちゃったのよ。明日行くって言ったのに抜け駆けしちゃってさ。でも、わざわざ人目を忍んでまで行くなんて、そんなにあの石は危険なの?」
ココは申し訳無さそうに答えたが、瞳の奥には僅かな好奇心を覗かせていた。
「はぁ、今さら家に返す訳にもいかないけどさぁ……でも正直言うと時間はあまり無いんだ、魔物が出る可能性があったとしても、早めに手を打ちたくてね」
「そっか。帰る時も家に帰った後も心配そうにしてたから、もしかしてと思って気になってたの。でも安心して! あたし、こう見えても剣の腕はいいのよ、もし危ない魔物が出たらやっつけてあげる!」
「はいはい……じゃあ、さっさと終わらせて帰ろうか」
ココは木の棒を高々と揚げたが、オルカはそれに目をやることも無く前へと進んだ。
「あぁっ、待ってよぉ!」
二人が崖を降りると、水辺は光で溢れていた。昼間の石は全体を青く輝かせ、空へと昇る魔力の結晶は、一回り大きな粒となって漂っていた。
水中の梅花藻は緑に深みを増し、通常は爪ほどの大きさにしか咲かない梅花も、手のひらほどの大きさに開花していた。
月明かりに照らされた結晶は青白く色を変化させ、雪色の蛍が水辺を舞うような光景は、幻想的な美しさを見せていた。。
「わあ! 綺麗……」
ココは魔力の輝きに、一瞬で心を奪われていた。
「この石は何百年も魔力を蓄積し続けていたんだ。綺麗だけれど危険なものでもあるんだよ……それじゃあ僕は放出作業に入るけど、ココはそこで待っていてくれる? 時間は掛かるけど朝までには終わらせるから」
ココは返事もせずに近くにあった岩に座ると、合わせた両手を口元に置き、恍惚の表情を浮かべて輝く空を眺めた。
オルカは少し笑うと、ゆっくりと水辺に足を踏み入れた。
夜の水が着衣を濡らし、冷気を感じさせた瞬間。突然、空へと昇っていた結晶が弾けるように消えた。
「あれ?」
一度だけ鳥の羽音が聴こえた。ココは消えた結晶や音の行方を探したが、時が止まったかのように辺りは静けさに包まれている。
水面に一つの波紋が広がった。小さな波がオルカの靴にぶつかると同時に、石へと降り立つ小さな靴音が聴こえる。
オルカは何かの気配を感じた。本能的に危険を察知し腰から扇を抜くと、左手で袖の中の小石を二つ握った。気配の先を見上げると、まるで空から飛んできた鳥のように、一人の女が石の先端に佇んでいた。尖った石の先端につま先を合わせ、重力を感じてないかのように、微動だにせず立ち尽くした。
腰まで伸びた髪は闇よりも深い黒だった。前髪は水平に揃えられ、目は薄く開いていたが、下を向いた睫が長く、瞳の色までは読み取れない。
石の上に立っていたせいもあり、背は非常に高く感じられた。ローブが風で揺らぎ、華奢な肢体が僅かに姿を見せた。年若そうな印象も持ったが、氷の女王のような冷たさも感じさせている。
「あなた、だれ……?」
ココは小さく声を漏らした。
女は瞳を左右に滑らせ二人を視界に捉えた。開いた右目が、燃えるように紅く染まっていた。