01プロローグ
アルミ暦。五十二年。冬月。夕刻。
秋が終わる間近の冬。夕刻の太陽は遠く西の山へ沈もうとしていた。
ナホ国より西にある小さな集落、サーペスト村に住む八歳の少年オルカ・フレニスは、飼い犬を探し村の外へと彷徨っていた。
紅く染まった夕焼けの空を拒むかのように、群青色をした少年の髪が靡いていた。
「ぺティ、どこに行ったんだよ。早く帰ってこないと夜になっちゃうじゃないか……」
人々にとって冬の夜は恐ろしいものだった。冬の季節、夜という限定された時だが、地底に眠る魔神、バールの力が強まり、大地には魔物が昇ると言われている。
大人達は声を揃えて言った『夜になれば魔物が現れ子供達を食べてしまう』子供達にとって、夜は恐怖そのものでしかなかった。
「はぁ、はぁ……ペティどこだ! 早く戻ってきてくれよ……」
風が木々を揺らしただけで、少年は何度も体をびくつかせていた。
不安に包まれながらも必死で走り、村を囲う柵を越えたとき、遠くで子犬の鳴き声が聴こえた。
「ワン!」
「ペティ!? 近くに……いるの?」
少年の声が届いたのか、丸い大きな瞳を輝かせた子犬が、耳をピンと立て木陰から飛び出してきた。
子犬は体いっぱいに泥をつけており、飼い主の心配などよそに、自由気ままに遊んでいたのが一目でわかる。
「まったく……」
少年は安堵のため息をつき、大事そうに子犬を胸に抱えた。
「さぁ、家に帰ろ――」
太陽が沈み、夜の帳が降りた瞬間。青白い光が空へと昇った。
天まで伸びた一本の細い光は筒状に拡がり、甲高い音を発しながらみるみるうちに村の半分を包み込んでいく。
村を覆った光の柱は少年の目前にまで迫っていた。突然の出来事に少年はその場を動くことが出来なかったが、光の柱は少年の目前でその動きを止めた。
少年は犬を抱えながら青い光を眺めていた。空へと上る美しい青光に見惚れていたが、光の柱から跳ねた魔力の粉が村の柵を塵にすると、少年の顔色は徐々に変化していった。
「え……」
しばらく続いていた光の輝きが次第に薄らいでくると、代わりに月の光が村を照らし始めた。
月明かりに煌々と照らされる大地。そこに村は無く、光が覆った場所からは全てのものが消えていた。建ち並ぶ家々の窓から漏れる灯も、先程すれ違ったばかりの農夫も、連れて歩いていたヤギの足跡すらも、世界から全てが消え去っていた。
「なに……これ……僕の家は……? お父さん、お母さん!」
抱えられていた子犬が、苦しそうに少年の腕をすり抜けた。少年は犬が離れた事にも気付かず慌てて村へと走り出した。子犬が何度も鳴いたが、少年の足が止まることは無い。
少年は自分が今どこを走っているのか分からなかった。ただ感じたのは乾いた空気と硬い土の感触だけ。積み上げられた干草も、村一番の大きな煙突の家も、村にあったもの全てが見つからない。
しばらく走っていた少年が何かに気付いて足を止めた。
地底へと伸びる深い穴は、大人一人が入れる程の小さな穴だった。村の井戸はひとつ。井戸の傍には赤い煉瓦が目印の少年の家があるはずだった。
「……ぉとうさん、おかぁさん! どこに行ったの? なにこれ、なんで何もないの!」
何が起こったのかも分からないまま、少年は大粒の涙を流しその場に突っ伏してしまった。
「うっ……ううっ……!」
少年が泣いていると、突如慌しい馬の足音が響いた。音のする方を確認すると、遠くで十数頭の馬を率いた男が、消失した大地を見渡し悔しそうに叫んだ。
「ちぃ、遅かったか!」
男は紺の羽織を纏い、腰には二本の刀を携えていた。背中に描かれた花の紋は、隣国ナホが象徴とする桜花を模したものだった。
「くそっ、かなり規模がでかいな。もう少し早く地脈の流れを掴めていれば……祈祷班、分析を急げ!」
「はっ!」
男の指示に数人の部下が返事をした。
「セキレイ隊は東側を捜索。シラサギ隊は俺に続け、中心部を探すぞ」
男は切羽に指示を出すと、一隊を引き連れ村の奥へと馬を走らせた。
その様子をみていた少年は涙を拭った。泣いているだけでは状況は掴めない。走り去る馬の後を追うことが、少年にとって唯一出来ることだった。
子供の足で馬に追いつくことは出来なかったが、土埃と蹄の跡を頼りに少年は必死で一隊の跡を辿っていった。
月に雲が掛かる度に何度も闇が通り過ぎてゆく。どこまでも続く大地と静寂には言い知れない恐怖を感じた。
少年は馬が向かう先には何かがあると信じていた。何もないこの場所にいるより、何かがあるこの先に進みたかった。そのひとつの思いを頼りに、少年は足を進めるしかなかった。
中心部を見つけたナホ国の一隊は、馬から降り既に作業を進めていた。
「ゲントク隊長、やはり以前起きた現象と同じです」
薄い紫色の髪をした女が、ゲントクに小さな石の欠片を手渡した。
一隊が囲う中心には大きな石があった。それはまるで枯渇した湖の土のように、触れただけで崩れてしまう、脆く大きな石だった。
一人の祈祷師が石に近付いた。石の上から白い灰をかけると、灰に反応した石から、僅かに光の結晶が浮きあがった。
「やはり石の力が原因なのか……しかしかなりの規模のようだな。原因を突き止めることは出来そうか?」
「厳しいでしょう……石は壊しているようですし、魔力の流れも微量にしか感じとれません。僅かに残る破片が手掛かりになれば良いのですが……」
「そうか、では祈祷班は引き続き作業を進めてくれ」
「わかりました」
ゲントクは遅れて到着したセキレイ隊に近付くと、馬上の女性に周囲の様子を訊いた。
「シズク、東側の様子はどうだった」
「辺りを確認しましたが、やはりここが中心点のようです。それにこの付近一帯の物は全て消え去っているようです……」
「そうか……シズク、ここはどのような土地だったと思う? サーペストの村は、戦時中にナホ国から非難してきた魔通士の一族が住む村だろう。何も無い片田舎だが、信仰や儀式などでこのような出来事が起きたとは考え難いか?」
「魔通士は石に蓄積された魔力を操る力があると聞いた事があります。しかし五十年も昔の戦時でも、その力を発揮し活躍した者は、ほんの一握りだったと言われています。今の時世でそれだけの力を持つ者がいるか疑問ではありますね。ゲントク隊長は他の原因をお考えで?」
「うぅむ、北の大陸の仕業か、西部の革命軍か……そう考えてはみたが、こんな辺境消したところで何の得もあるまい」
「そうですね……検討すべき点は多くあります。ここ最近、原因不明の消失が頻発していますし、早急に対応しなければなりませんね」
「他国が動く可能性はいつでも付いてまわる。心配事は耐え――」
会話の途中、後方から祈祷師の声が聞こえた。
「き、君! この村の子か!?」
ゲントクが振り返ると、息を切らした少年が、覚束ない足取りで石に近付こうとしていた。
「子供……生存者か!」
「我々の跡を付いてきたのでしょうか、怪我などはないようですが……」
少年は崩れかかった石の前で呆然と立ち尽くした。辺りには石の破片が散らばっているだけで、少年の求めていたようなものは一つとして存在していなかった。優しい父と母はこの世界から消え、何もない広大な大地がそれを無残に証明させる。
「なんでなにもないの? おとうさんはどこ? おかぁさん?」
少年は成す術もなく地に崩れ落ちた。
「かわいそうに、親が巻きこまれたのか……シズク、見てやってくれるか」
空には灰色の雲が並び、闇は一層の深みを増していた。少年は絶望と孤独が一度に襲ってくるのを感じ悲鳴をあげた。
シズクは咽び泣く少年の肩を優しく抱いた。少年はシズクの存在にも気付かず、ただ涙をこぼしている。
「うぅ……なんだよ! なんでこんな事に……なんでなんだよぉぉぉ!」
少年が虚空に向かって叫んだ時、今にも崩れそうだった石が生気を纏い、突然輝き始めた。
「なっ!」
シズクは咄嗟に少年に覆いかぶさると、地面に身を埋めた。
石から漏れた魔力の結晶が個々に青白い光を発し、大気が異様な震えを感じさせた。光の強さが増したのと同時にゲントクが叫ぶ。
「全員伏せろ!!」
甲高い音と共に結晶が泡の用に弾け、石が青光を空へと放った。
その場にいた者達は死を覚悟したが、光の規模は思ったよりも小さく辺りを照らした程度で終わった。光はすぐに収まったが、空に漂う大気の歪みは、不気味なほどはっきりとしている。
突然の出来事に驚き、全員が空を見上げていた。
「……石の魔力を抜く作業は殆ど終わっていました。残った魔力の量を考えると、とても魔法反応を起こせるとは思えません……」
最初に口を開いた祈祷師の手が震えていた。
シズクの腕の中で少年は気を失っていた。その顔は赤子のような無垢な表情を浮かべている。
「年端もいかない子供が石の力を扱ったのか……シズク、この子を国へ連れて帰ろう。僅かな手掛かりが得られるかもしれない。それに子供一人を置いていくわけにはいかんしな」
「はい」
シズクは少年をそっと抱いて再び空を見上げた。
夜空には月が輝き、幾億の星が大地を見下ろしていた。少年の髪が揺れたので、シズクは風が吹いていることに気がついた。ゆっくりと雲が流れていたが、木々のそよぎは聴こえない。
静寂の中で、光に喰された世界がどこまでも広がっていた。