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エンディングノート 4

エンディングノート 4




 生きる希望を得た僕は、同時に別の不安――生きているがゆえに考えなければならないことを一つ一つ整理し始めた。


 まず、この状況――自分がどれだけこうしてここにいるのか全く分からないことへの不安。もしかしたらまだ夜が明けていないのかもしれないし、とっくにまる一日過ぎてしまっているのかもしれない。あるいはもっとか……空腹やのどの渇きから考えて、少なくとも8時間以上は立っているだろう。小便が我慢できなくて1回放尿した。酒をあれだけ飲んでいたのだからこれは仕方がない。しかし人間は極度の緊張――それも生死にかかわるような緊張状態の時には、便意や尿意、空腹感といった生理現象はかなり抑えられるものだということが分かった。


 ともかく時間がどれだけ経過したかということは、今は心配しても始まらない。それよりもあの男――僕から財布をこそねたやさぐれた中年オヤジはどうなったのだろう? トラックに跳ねられた。それは間違いがない。しかもかなりのスピードを出していたから助からない可能性の方が高いだろう。


「あの男――死んだのか」

 そうだとして、当然に事故現場には警察が来て、いろいろと調査をしているだろう。そう、現場には僕の財布と携帯がある。僕はその場にいて、しかも行方が分からないということになるわけか……


「おいおい、それって僕に何かよからぬ疑いがかかるってことか?」

 なんということだろう。その可能性は否定できないばかりか、僕があの男を追いかけている様子を目撃したという話も、どこかから出てくるだろうし、『来夢』で一緒に飲んでいたという話も出てくるだろう。コンビニの防犯カメラに僕の姿が映っているかもしれない。で、僕は指名手配されているのか……

「なんてことだ! 早く疑いを晴らさないと、とんでもないことになる……」


 とんでもないこと


 僕はふと、エンディングノートのことを思い出した。警察がきて、証拠品としてパソコンやら押収したりして、で、エンディングノートとか簡単にパスワードを破られて、恥ずかしい遺言を見られてしまうのか……なんて情けない!


「いや、それならまだいい。たぶん、事件に関係のない秘密は公開されないだろう。それよりも……」

 それよりももしも、妻が不審に思い、あっちこっち家探しでもしようものなら、あんな手紙、すぐに見つかってしまう。で、妻は、警察に言えないような何かがあるかもしれないと、こっそりと僕のパソコンを……いや、それならまだいい。妻は機械音痴でおそらくはお姉ちゃん――高校生の娘、明子にパソコンの使い方を聞くに違いない。もしそんなことになったら。


「畜生!こうしてはいられない。早くここから出ないと!」

 ここで僕は、最悪のシナリオを想定した。家族は警察から旦那が殺人事件に関わって姿をくらましたかもしれないとかなんとか言っちゃって、それで妻が不安がって,たとえばこれからの生活費のこととか考えて、生命保険の証書なんかを探したりする。あー、もうそうなったら、あの手紙が、あの手紙を見つけて封を開ける。まさか、僕が遺言なんて書いているとは思わない妻は、何やら不振がって、エンディングノートを見ようとするに決まっている。


「なんで、あんなもの書いたんだ……僕は」

 きっと隅から隅まで、お姉ちゃんと……いや、好奇心旺盛な京子がじっとしているはずがない。あの三人に対して、僕の秘密が守られたためしがないじゃないか。しかもエンディングノートにはメールやSNSのIDやパスワード。僕が仲良くしている友人との連絡方法などがこと細かく記してある。僕の所在を探そうと、そういう人たちに妻やお姉ちゃんが連絡を取ろうとする可能性はゼロではない。で、もしも――


「もしも、ガッツさんやケロちゃんにその連絡がいったら、僕の話は全国に広がる」

 ガッツさん――本名 石松和則さんのハンドルネームである。もちろん由来はガッツ石松。彼とはツイッターで知り合い、その後フェイスブックなどを通じて交流を深め、大の仲良しである。ガッツさんは本当にいい人で、なにより世話焼き好きである。僕が行方不明だとか、事件に巻き込まれたなどと知ったら、『ありとあらゆる手段を使って』僕のことを探してくれるだろう。しかし、この際それが大きな問題だ。


 ケロちゃん――本名 坂井みどりさんのハンドルネーム。ケロちゃんの由来は諸説あるが、もっとも有力なのはうつみ宮土里のケロンパから来ているらしい。いや、ケロンパでもドロンパでもどうでもいい。ケロちゃんは一日100ツイート越えをほぼ毎日するのだ。そんな人に僕のことが知れでもしたら、ガッツさんより厄介に決まっている。


 生きる希望をはるかに上回る絶望。僕はそれにも耐えて、自らを鼓舞し、困難な作業を続けなければならない。


「諦めたときが、ゲームオーバーだ」

 そうつぶやいた時、僕の両腕が何かにぶつかった。手を使ってゆっくりと確かめる。僕の手の感覚は暗闇でものを見るかのごとく研ぎ澄まされた感覚を持ち始めていた。どうやらここで穴の角度が大きく変わるようだ。手で触った感触ではどうやらこの穴はもともとまっすぐ斜めに伸びた穴だったが、何かの拍子にぐしゃりと折れてしまったようである。つまり鉄骨で作られたコンクリートの穴ではないかと思われる。何のための穴なのかはわからないが、ともかく、今は使われていない。誰もその存在を知らない穴なのであろう。その穴の口がどういうわけかぽっかりと空いていたわけだ。おそらく、ふたの部分が崩れたのではないか。たとえば大きな地震によって……


「なるほど、そういうことなのかもしれないが、この先は角度がきついな」

 どうにか体を穴が折れ曲がった場所まで持っていき、そこで体の向きをうつ伏せから仰向けに変えた。そうしないとここは通れない。頭が折れ曲がった先に到達したとき、僕の目の前にある光景が見えた。そう見えたのだ。暗くて何も見えない世界にわずかな光がさしている。それはうっすらとした闇、夜の空である。ちらちらと何かが揺れているのが見える。おそらくは雑草だろう。2メートルか3メートル先に空が見える。いや、それはもっともっと上だ。ともかくあと数メートル上がれば、僕はこの穴から出ることができる。やっとここまで来たのだ。


 僕は安心感と疲労感で、そのままそこで気を失ってしまった。いや、単に眠ってしまったのかもしれない。ともかく、気づいた時にはもう、外は明るくなっていた。僕は大きく深呼吸をして、大声で叫んだ。


「誰かー、誰かいないか―。助けて! 誰かー!」

 どのくらい経っただろうか。賢そうな柴犬が、穴の中をのぞき、そのあとに感じのいいおじいちゃんが恐る恐る穴をのぞき、声をかけた。

「誰ぞ、おるのかねー」

「た、助けてください。僕は、僕はここにいます」


 僕はついに穴から抜け出すことができた。




つづく


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