エンディングノート 3
エンディングノート 3
「かっ、返してくださいよ。僕の財布」
その言葉に反応し、男はこちらを振り返った。が、走ることを――逃げることをやめようとしない。それはある意味当然の結末、必然の末路だったのかもしれない。声をかけた僕に、まったく罪の意識がないかといえば、それはそうではないが、とにもかくにも僕は被害者なのである。僕はいつでも110番ができるように携帯電話を右手に握りしめていた。あるいは、携帯はとっさの武器にもなりえる。ともかくその時点ではそうしていることが、僕にとってメリットがあると思っていた。
のちに公式の記録として僕が知ることとなるその男の死亡時刻。平成23年11月11日午前2時31分。土手に飛び出したその男は、偶然そこを通りかかったトラックに跳ねられたのである。トラックは夜中ということもあり、法定速度をやや上回るスピードで走っていた。男はぶつかった瞬間にものすごい勢いでトラックの前方に跳ね飛ばされ、されにブレーキをかけたトラックの前輪、後輪に見事にひかれる形となった。男の頭はぐしゃりとつぶれ、即死状態。そして僕もその事故に巻き込まれる形になった。男が跳ね飛ばされたとき、男が履いていた革靴が僕めがけて飛んできたのである。僕はそれを右手で受け流したが、持っていた携帯電話は弾き飛ばされてしまった。バランスを崩した僕は、そのまま土手を転がり落ち、意識を失った。
いや、もしかしたら意識はあったのかもしれない。意識を失ったと持ったのは、意識を失ったのと同じような状態に僕が陥っていたからなのだ。『陥っていた』というか『落ちた』という事実に気づくまでにどれほどの時間がかかったかわからない。そういう時間的な変化を認識するのに必要な情報が何一つない世界に落ちてしまった。
僕は、穴に落ちたのだった。
穴――それはぽっかりと、こっそりと人知れず、いつの間にか出来でいた穴である。自然にできたものなのか、人工的掘られたものなのかもわからない。人工物としてはどちらかというと不自然なものであるから、これはやはり自然にできたものだと思われる。穴は不運にもまっすぐではない。つまり僕がいる場所は、どういう方向にか、曲がっている穴の中であって、体重は背中にかかっている。両手は万歳した形で、その手を下におろすことは、今のところできない。
今のところというのは、どこをどうぶつけたのか、擦ったのか、ともかく体中が痛い。痛みをこらえてまで、両手を下に下げることが、この際有意義であるかどうか、疑問が大きいところである。もしかしたら、両腕を下に下げたことで、より身動きが取れなくなる可能性もある。とにもかくにも真っ暗闇で、何も見えない。
真横ではない。そして縦でもない。カーブしているわけでもない。思うに斜めである。それもおそらくどこかで傾斜が変わっているから上を見ても何も見えない。足は地面にしっかりとついているが、浮かすこともできる。楽な姿勢といえば楽な姿勢である。しかし、何も見えないし、何も聞こえない。
「なぜ、なにも聞こえないんだ?」
声を出してみる。土管の中で話をしているようなそんな響き方をする。空気はあるが、風は吹いてこない。地面は……手で触ると土がむき出しになっている穴ではない。コンクリートのように固いが、少しごつごつしている。
「井戸か? あるいは下水道のようなものなのか?」
水はない。しかし地面はしっとりとしている。ここ数日雨は降っていない。
「ともかくここから出ないと……おーい、誰か―! 誰かいないか―!」
何も聞こえない。落ちたのだからともかく登らなくてはいけない。どうにか体をよじらせて、足で地面をしっかり蹴って上に這い上がろうとする。背中から腰のあたりはひどく打ちつけたらしく激痛が走る。それをこらえて20センチほど上に移動したところで精根がつきた。
「向きを変えないと無理だな……」
改めて両手を使って穴の構造を確かめてみる。真っ暗闇の中で得体のしれないものに触れる恐怖というのは、最初想像を絶するものであったが、人間の適応能力と想像力は、その恐怖心を凌駕する。しかし、これは前向きな対処――恐怖に打ち勝つという積極的なものではない。このままここにいたら、もっと絶望的なことになってしまうという後ろ向きな想像力が働き、より大きな恐怖に駆られて小さな恐怖を凌駕するというものであった。
「こんなところで、死んでたまるか!」
そう自分を鼓舞した瞬間、一つの決定的な事実を思い出した。自分がこんな目にあった現況――あの男ははたして、死んでしまったのであろうか? いや、ほぼ即死状態に違いない。それは天罰とでもいうべきものかもしれないが、罰として死を賜るほど、悪いことをしたわけではないだろうに……いやいや、結果的にこれで自分の命が助からなかったら、やはりあの男は、殺人に近い罪があり、結果として当然の報いだったと言えなくはないか。
「いや、だから、僕は死なないって。死んでたまるか! こんな死に方が、こんな死に方があってたまるか!」
泣き叫びたくなる気持ちをこらえて、僕は体をどうにか仰向けからうつぶせにすることに成功した。それは生還への大きな第一歩である。僕はミノムシのように体をくねらせ、少しずつ上に上がっていった。
単純な作業の繰り返しは、僕の体力と精神をむしばんでいく。休憩をとる間隔が短くなり、休憩をする時間が作業をする時間をはるかに上回るようになっていた。最初の50センチくらいは、上に上がったという確かな感覚があったが、1メートルを超えた当たりか、或いはもう少し手前から、どれだけ上に進んでいるのかわからないという恐怖が僕を襲った。何も見えないのだから、どれだけ進んだのか、自分の感覚でしかわからない。じっとしていると少しずつ、下の方に滑り落ちていくような感覚が確かにある。3歩進んで2歩下がる。そんな状態になっているのではないかという疑いはある方法を見つけることで、払拭することに成功した。それは目印を探すこと、或いはつけることである。手で触れて特徴的な突起物があればそれを目印にし、何もなければ、小石を拾い上げ、目いっぱい手を伸ばせば届くところに置く。その小石を目指して登る。目印にした小石が胸の下に来るまで登ったら、その小石を拾いあげ、その動作を繰り返す。それによって腕の長さいくつ分先に進んだかを数えることで登った距離を測ることができる。この方法を思いついた時に、僕は生きる希望を見出したのだった。
つづく