パンツを被る男 4
パンツを被る男 4
「パンツを……被るのか?」
目の前にパンティーがある。それは「どうぞご自由に」と差し出されたもので、それをポケットに入れようが、何をしようが……つまり履こうが、被ろうが鏑木の自由である。いや、むしろそのまま放置しておくことのほうが、なんとも気まずいように思えてきた。
「いや、パンティを被ること自体は、そんなにいやじゃないし、どうということはないんだ。問題はそこじゃない。これを被ることによって人が変わるという現象をどうとらえるかだ」
鏑木の両手には黒のレースのパンティーがしっかりと握られている。さらにパンティのカタログとその見本としてサンタクロースが自分が履いている毛糸のパンツを見せてくれた。隣の男はにやにや笑いながらやはりパンティーを被っている。
「い、いつの間に……」
「僕はまだ初心者なもので、ここまでパンティーをどうやって持ってくればいいのか、それを考えるだけでもドキドキものですよ。いやぁ、僕はまだまだひよっこです」
隣の男は紫色のレースのパンティーの被り具合を気にしながら照れくさそうに答えた。どういうわけだかもう、パンティを被らないわけにはいかない様子だ。
「被ると……その……パンティを被ると世界が変わりますか?」
紫色のパンティの男は自信満々に答えた。
「えぇ! 変わりますとも! そりゃぁ、もう、劇的に、衝撃的に変わりますとも! 僕はこれのおかげで初めて彼女ができたんですから!」
「そ、それはどうも、おめでとうございます」
鏑木は余計なことを聞いてしまったと後悔した。これはそう、いわば新興宗教やねずみ講の類だ。適当な成功体験を持っているやつだけが集まって、最後にパンティーを買わせて……しかし
被ってみたい。
今、ここで、被るだけなら。
手が震えたりはしない。心が乱れたりもしない。ただそこにパンティがあるから、それを頭にかぶるだけなのだ。
「おーっ!」
隣の男が声を上げる。しかしありがたいことに、それは遠慮を含んだものだったので、周りの人間の余計な関心を引くことはなかった。いや、つまりここでは『パンツを被る行為』というのは、ごく当たり前の、声を上げるようなことではないということなのだ。鏑木はまったく自然な動作で、見事に黒のレースのパンティーを頭からかぶった。
被った。ついに、おれは、パンティーを――
被った。
「あっ!」
鏑木は思わず声を上げた。
な、なんだ。この絶妙なフィット感。適度な締め付け。そして重さをまったく感じさせない心地よさ。
こ、これは……か、感覚が研ぎ澄まされていく。ま、まるで何かぶっ飛ぶような薬をやったような爽快感!
これが、パンティを 被るということなのか……これが……
鏑木は胸のポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、そして今書きたいと思うことを書き記した。まるで何かに取りつかれたかのようにボールペンを走らせ、ページを埋めていく。ものの5分もたたないうちにびっしりと10ページほどの文章を完成させた。それは物語のアイデアやプロットといったもので、他人が読んでも何の事だかわからないような記号と文節の塊だった。
これだ! この感覚だ! 何かを書くときっていうのは、何かを書くときっていうのは……
「お、何ですそれ?」
悦に浸る鏑木に水を差すかのように紫のパンティーを被った男が聞いてきた。
「あ、僕は実は物書きを生業としてまして、今不意にアイデアが浮かんだものですから――」
「おー! そうですか! きっと素敵なお話が書けますとも。パンティの力は偉大です」
「は、はぁ」
「なんといいましたっけ? そうそう、潜在能力。こいつを被るとその人が持っている潜在能力を引き出してくれるんです。そう思いませんか?」
「潜在能力ですか?」
「あれ、違いましたっけ? すいません。私には学がないもので――」
「い、いえぇ、それは潜在能力であってますよ。あってます。隠れたというか隠された能力ですよね」
「おー、さすが物書きの人は博識だ」
こんな会話ははやく幕を引きたい。しかし問題はそんなことではなく、このパンティだ。被ったのはいい。効果は驚くほどにばつぐんだ。自分もすっかり店の雰囲気になじんでしまって、最高の気分だ。だが、ずっとこのままではいられない。
「いったいぜんたい。いつ脱げばいいんだ?」
別に店の中の全員がパンティーを被っているわけではない。たとえばマスターをはじめ、店員は一人もパンティーを被っていない。客の中にも何人かはパンティーを被っていないように見える。しかし――
どこかに隠し持っているのか、或いはぱっと見た目にはわからないが、まるでアクセサリーのようにどこかに身に着けているのかもしれない。ただ、酒によって陽気なだけ。一見するとこの店の客は、ただそれだけのように見える。しかし、ショーが始まるまでは、どこかパッとしないというか、さえないというか、ともかくこんなにファンキーではなかった。やはり、すべてはパンティーのおかげなのだろうか?
だが、一歩外に出れば、彼らがパンティーを被ったままでいることはないように思えた。これはここだけのお忍びのパンティーパーティーなのか? そもそも自分は何をしにここに来たのか? そう永田さんと思しき人の後を追ってここまで来たのだ。そして、自分の目の前には永田さんとおぼしき人のジャケットが椅子に掛けてある。何もかもがでたらめだ。
「すいません。ちょっとトイレに行かせてください」
鏑木は、ともかくいったんこのバカ騒ぎから抜け出さなければと思い、いや、そうでなくとも普通にトイレに行きたくなって、席を立った。
「あー、どうぞどうぞ」
席を立ちあがった鏑木の視界にはパンティーを被った客たちの滑稽な姿が映った。どうしようもなくおかしくなり、それでも顔に表情を何一つ浮かべないように笑った。
トイレに入り、用を済ませる。手を洗い顔を上げると、そこには黒のレースのパンティーを被った自分の姿が映っていた。少し、左に曲がっていた。
「こんな格好でも身だしなみは整えないとな」
鏑木はパンティーの位置を正面に正し、トイレを出た。入れ替わりに一人の男性がトイレに入ってきた。その男はパンティーを被ってはいない。鏑木は一瞬意外に思ったが、気にせずにトイレを出た。鏑木は気づかなかった。すれ違った男が目を丸くして鏑木の後ろ姿……いや、パンティーを被った姿をまじまじと見ていたことを。
トイレからでて、自分が座っていた席にたどり着くまでの間、鏑木はすれ違う人、通り過ぎる人の冷たい視線にさらされていた。何人かは吹き出し、何人かは呆然と鏑木の姿を目で追う。みんな鏑木の頭……パンティーに視線を集めていた。鏑木がそのことに気付いたのは、自分の席に座ろうと、紫色のパンティーを被っていたはずの男に声をかけたときだった。
「すいません。通してもらって……あっ、パンティーが」
紫色のパンティーを被っていた男は目を丸くして、勢いよく席を立った。
「あ、あなた、なにを……」
「あ、あ、あ……」
一瞬店中が静まり返る。鏑木は一人立ちすくみ店の中を見渡す。誰ひとりパンティーを被っているものはいない。いや、そもそも自分がさっきまで見ていた客はそこには一人もいない。マスターも店員も……そう季節外れのサンタクロースは、どことなく愛想の悪い、気の強そうなジーンズ姿の女性に変わっていた。
「あ、あれ? どうしちゃったのかな。俺、はは、はははぁ……」
どうにもできない場面というのはある。中学生の時、母親に自慰行為を見られたとき、「ノックぐらいしろよ!」と叫んだとき、意中のクラスメイトの女の子に声をかけられてと思って「何?」と聞いたら、自分ではなく、その後ろにいたほかのクラスのモテモテ男子に声をかけたのを勘違いしたとわかったとき……つまりそんな場面を100倍くらい濃くしたようなシチュエーションがまさに、今、このとき、この場所の出来事であった。
「よ、酔いすぎました。か、帰ります。お会計を!」
「お会計なら、先ほどお連れの方が済ませて……もう先に出て行かれましたよ」
「は、はぁ?」
自分が座っていた席の正面、そこにもあったはずのものがなかった。永田のMR-1はどこにもない。いや、あるべきものではない。最初からあるはずのないものだ。いや、じゃあ、いったい誰が会計をしたんだ。
「そ、そうですか。し、失礼しました!」
店の中から笑い声が聞こえる。地上に上がる階段を勢いよく駆け上がる。何が何だかわからない。
「もう、何が何だか!」
表に出て愕然とする。そこは自分が歩いてきた道とは全く様子が違っていた。延々と続くような細い路地ではなく、大通りに面した雑居ビルで、2階から上は、美容院とオフィスになっている。右手を見ると、立読みをしていた本屋が見える。ほんの100メートルも離れてはいなかった。しかし――
鏑木の右手にはしっかりと黒のレースのパンティーが握られていた。少し汗ばんでいた。胸のポケットからメモ帳を出す。確かにそこには物語のネタがぎっしりと10ページほど書いてある。しかし、そのメモの最後に、自分が書いた覚えのない言葉が書き記されていた。
死んでからも 本は出る
それは師匠の口癖だった。
「死んでからも本は出る。だから手を抜くな。気を抜くな」
鏑木の目から、涙がこぼれた。鏑木は涙をそっと、パンティーでふき取った。
終わり
実在の人物をモデルにして作品を書いたのは、たぶんこれが初めてではないでしょうか?
とはいえもちろんこれは創作であり、モデルとなった僕の友人は、この物語の主人公と完全に同一人物というわけではありません。
ただ、この作品を読んでいただいたモデルとなった人物を知る人が、「それらしい」と言っていただいたことは、本当にうれしく思います。
そして友人の名誉のために明言しますが、パンツを被ったのは友人ではなく、筆者自信なのです