過去を映す鏡 3
過去を映す鏡 3
「誰だい? そこにいるのは?」
鉄製の扉越しに、人の声がする。小沢は思わず悲鳴を上げそうになり、両手で口を押さえ、次に扉に寄りかかりながら、さらに身をかがめようとして失敗した。
ガチャ、ガチャァ……
「あれ、扉の鍵を閉めちゃったの? トイレの鍵は大きいほうをする個室で掛けるものであって、トイレの入り口そのものの鍵を掛けたら皆の迷惑だよ」
小沢の切羽詰った状況とはまるでかけ離れた別の世界が扉の向こう側にはあるようである。最初、小沢は恐怖から声が出ず、今となっては恥ずかしさから声が出しづらくなりつつあった。小沢は意を決して、そうなる前に声を出した。
「す、すいません。い、今、今開けますから」
いささか警戒心に欠ける行動のようにも思えたが、小沢は一刻も早く、誰かに助けを請いたい気分を抑えられなかったのである。それでも十分に警戒し、鍵を開けるとすぐに扉から3歩下がり、訪問者との距離をとった。扉はゆっくりと開き、まるで緊張感の欠片もない空気が一気に外からトイレの中に持ち込まれた。
「こんばんは、お取り込み中のところ申し訳ないね」
男は、これといって特徴的でもなく、やせているわけでも太っているわけでもなく、背が高くも低くもなく、色が白くも黒くもなく、強いて言えば、髪の毛が少し、癖があるらしく、どことなく収まりが悪い――それでいて妙に人懐っこさが印象的な優男が、最初は顔だけ覗き込むようにして、それからそよ風が吹き込むような自然な振る舞いでトイレの中に入ってきた。手ぶらである。
「こ、こちらこそ……そ、そのぉ、すいません。鍵なんか掛けたりして……」
「いやぁ、いいんだよ。鍵を掛け忘れたのは僕なんだし――」
「はぁ……そうなんですか?」
「だって、君、どうやってここに来たんだい?」
「どうやってって、僕はその扉から中に……」
「いやぁ、そういうことじゃなくてだねぇ……」
「はぁ?」
「あれ? もしかして君、まだ気づいてなかったのかな?」
「はぁ? な、何をですか?」
「いや、ほら、だからさぁ、えぇーっと、あっ、またやっちまたかなぁ、こりゃ」
「だ、だから、いったいなのことなんです。僕はただ、この扉を開けて、開けて、そしたら、そしたらですね! えーっと、信じてもらえるかどうかわかりませんが、どうやら、僕は、時空を越えて……」
小沢は思わず自分が口にしたことを後悔した。見ず知らずの男に、しかもトイレに鍵を掛けて半ば立てこもっていたような状況を諭されて、中に招きいれた男に話すようなことでは決してないと思い、言葉を濁した。
「時空を越えただって! ははっ、はははははっ」
なんともわざとらしい若い方をする男である。嫌味だと思い、小沢は少しばかり腹立たしくなったが、何一つ弁解できる状況ではなかったので、顔を真っ赤にしながら、下を向くしかなかった。
「まぁ、そう落ち込むなよ。何があったかは知らないけど、電気も着けずにトイレにそんなふうに突っ立っていると幽霊やお化けに間違われてしまうよ。そんなこと、君は信じないかもしれないけどね」
男の言っていることは腹立たしい限りだったが、その言葉にまったく悪意は感じられず、むしろ自分を気に掛けてくれているように思えた。小沢は勇気を振り絞って、男に自分の身に起きたことを話し始めた。
「いいよ、いいよ。そんなに僕を責めないでくれるかなぁ」
「えっ、ええ?」
「だからさ。鍵を掛け忘れたのは僕なんだよ。時の扉のさ」
「時の扉? 時の扉ってまさか……」
小沢の言葉をさえぎるように男が言った。
「『そんな馬鹿なことがあるはずがない』と君は言う」
小沢は『そんな馬鹿な』といいかけて、言葉を詰まらせた。すると男がまた笑い出した。
「ははっ、はははははっ。嘘だよ。いくら僕が未来の人間だからといって、君が何を言うかなんてわかりっこないさ。これは一種の心理学の問題さ。ごめん。気を悪くしたのなら誤るよ」
悪気がないのはわかっていても、気を悪くするなというほうが無理だった。しかし、そんな小沢の気持ちを無視するかのように、男は話を続けた。
「そう、そのまさかの『まさか』なんだ。『そんな馬鹿なことが』って思ってくれると本当はうれしいんだけど、君のご指摘の通り、ここは君が本来いた時空とは少し違うんだ。あまり正確なことは教えられないけど、君がいた時代より10年くらい前になる。つまり過去だね」
混乱する小沢を尻目にその男は話し続けた。
「でも何も心配はいらないよ。君がどういうわけでここに迷い込んだかは知らないけど、すぐにもとの時代に戻ってもらう。で、ここで起きたことの記憶の一部を消去――ちょっと乱暴な言い方だな。改ざん、或いは封印としようか。それですべては元通り。僕が欠け忘れた扉の前に、君には戻ってもらうよ。さぁ、行こうか。あまり時間が掛かるといろいろと面倒だからね。過去の時代に影響を与えたら大変だ」
話は飲み込めた。これが夢でないというのなら、つまり僕はこの男が言う『時の扉』を間違って開けてしまったのである。それによって過去にやってきてしまった。しかしだとすれば――
「ちょっと、ちょっとまってください。もう少し、ここに……向こうの世界の夜が明けるまで、ここにいるわけには行かないでしょうか」
「それはできないよ。そんなことしたら、僕が罪に問われてしまう。いや、そればかりか、君自身にもいろんな意味で危険が及ぶかもしれない」
「ぼ、僕は、人に命を狙われているのです。それで命からがら逃げ回って、ようやくたどり着いたのが、このトイレだったのです。ここで朝まで時を過ごせば、助かる見込みはある。だけど、今このタイミングで外に放り出されたら……」
「おやおや、どうやら複雑な事情があるようだね。いやぁ、困ったねぇ、どうも。困ったときには困ったことが重なり、もっと困ってしまう。いつの時代も変わらないようだね」
とんでもなく切羽詰った状態にはまるで似つかわしくない男のしゃべり方は、不思議と小沢の不安な心を落ち着かせた。
つづく




