過去を映す鏡 2
過去を映す鏡 2
「夢でも見ているのか? いや、そうであってほしい。それなら一向にかまわない。夢の中で殺されそうになろうが、過去と未来がごっちゃになろうが、夢から覚めればすべて解決だ」
小沢の精神は限界に近いところまできていた。知人に裏切られたという事実。擦り付けられた借金。自分の甘さ、そして命まで狙われて、命からがら逃げ回って、挙句の果てに精神が病んでしまった。
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
小沢は思いっきり腕を振り下ろし、洗面台をたたきつけた。そしてそのとき、あることに気づいた。
「水が……出ている」
さっき蛇口をひねったときには情けない音を立ててうんともすんとも言わなかった洗面所の蛇口から水が流れているのである。
「僕も、来るところまできちゃったってことか……」
とんでもない幻覚を見ている。小沢はそう思い、そしてそれを確かめるためにそっと蛇口から流れる水に手を寄せた。水に触れる寸前に、蛇口から流れ出した水が洗面台に落ち、それがはねて手の甲に冷たい感覚があるのを感じ思わず一度手を引っ込めた。
「マジかよ」
今度は最初から水を触るのだという覚悟で手を出した。熱いと思わずに熱せられたものを触れたときと、熱いと知っていて触れるときでは、感じる温度がまったく違う。それと同じで、水だと思わずに手を出して、冷たい感触が少し触れただけで、ものすごく冷たいものに肌が触れた感覚に襲われたのである。だから、今度は水だと思って――冷たい水だと思って手を差し伸べた。
「水だ。これは間違いなく、水だ」
小沢は最初右手だけで水を触れていたが、左手も添えて手を洗ってみる。確かに水である。そして今度は思いっきり顔を洗ってみる。間違いなく水である。顔を洗った水が唇に触れる。どうしようもない喉の渇きが小沢を襲う。蛇口から流れる水を両手ですくい、そこに口を当てる。冷たい水が小沢の唇を潤わし、舌を通って喉の渇きを癒す。グビッ、グビッっと音を立てて一気に水を体内に流し込む。うっかり呼吸をするのを忘れて、息が苦しくなり、ようやく水を飲むのをやめて、空気を気管に送り込む。
「ぷはぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
生き返った。思わず小沢はそう思い、そしてそのことを口にした。
「ふぅーーー! 生き返ったぁーーー!」
息を整え、自分の身なりをもう一度確認する。間違いない。今日はお昼くらいに起きて、ノンネクタイで紺のジャケットを羽織って、それで家を出てきたんだ。でも、鏡の前にいるのは……
小沢はおそるおそる、顔を上げて鏡の中を覗き込んだ。そこにはやはり、学生の頃の自分――髪の毛を肩の辺りまで伸ばし、麻のジャケットに黒のTシャツ。お気に入りのロックバンドのロゴがプリントされているものだ。このTシャツを手に入れたのは確か大学2年の秋だった。
「15年……いや、14年前か」
ふと、小沢にある考えが浮かんだ。水道が生きているのであれば、電気も生きているのではないか。いや、そういえば、臭いがさほど気にならなくなっている。鼻が慣れたせいか。或いは――
小沢は自分が立てたある仮説を実証するために、トイレの電気のスイッチがある場所を探した。自分が飛び込んだ鉄製の扉のすぐ横に二つのスイッチがある。小沢はひとつ深呼吸をして、右手でスイッチを触れ、もう一呼吸置いてスイッチを入れてみた。
カチッ
スイッチの入る音と同時にトイレの中の傾向とのグローランプが反応する。間違いない。電気が生きている。小沢は明かりが完全に灯る前に、スイッチをオフにした。それでも一瞬あたりが明るくなる。小沢の心臓の鼓動がいっそう高鳴る。今、自分の身に起きていることは、かなりとんでもないことかもしれないと小沢は思い始めていた。今度は、鉄製の扉の鍵を確認する。さっき閉めたばかりである。当たり前に鍵はしっかりと掛かっている。鍵を回し、ドアノブをまわす。扉をゆっくりと開く。さっき、この扉を開けたときにはさび付いて、キィキィ情けない悲鳴を上げていた扉がスムーズに開く。半分ほど開けて、再び扉を閉め、鍵をかけた。
「タイム……スリップとか、そういう話なのか?」
小沢はトイレに逃げ込んだときと同じように再び扉の前にへたり込んでしまった。
「時代は俺たちに、何をさせようとしているのか……クゥ、クゥ、クゥ、クゥ、クゥ……カァ、カァ、カァ、カァ……」
ひどく乾いた笑いが、トイレの中に響いていた。
つづく




