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短編集『休日、事務所のソファーにて』  作者: めけめけ
第3章 休日、事務所のソファにて
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過去を映す鏡 1

過去を映す鏡 1



 廃墟になった建物。そのような場所には誰が言うとでもなく、数年もしないうちに不思議な噂が立つものである。東京のはずれ――はずれといっても23区内である。平日の昼間は車も人通りもある場所だが、夜――それも休日の夜ともなれば、まず人通りはない。そこはもともと小さな町工場が寄り集まっているような川沿いの工業地域だったか、不況のあおりでひとつ、又ひとつと工場が閉鎖、あるいは移転し、今では倉庫として使われている何社かを除いて、操業をしている工場はない。再開発の話はあるが、いくつかの土地の持ち主が、値段を吊り上げようとなかなか首を立てに振らずにいたのだ。そのうちに一部の土地の権利が、いささかややこし人たちの手に渡ると、大手の土地開発会社は手を引いてしまった。そんなわけで、その場所は都会の中にあって、すっかりゴーストタウン化してしまったのである。


 小沢聡おざわさとしは、死を覚悟していた。最初はそんなつもりは毛頭なかった。まさか自分がここまで追い詰められるとは、ついこの前までまるで思っていなかった。


 ついこの前――大学を卒業し、都内のソフトウェア会社に勤務した小沢は、2年前――彼が32のときに独立をした。もともと独立志向が強かったわけではなく、仕事で知り合った友人知人から誘われて、小さな開発会社の設立に名前を連ねたのである。最初はよかった。しかし……どこにでもある話である。リスクを承知で起業し、何とか軌道に乗ったものの、思うように業績が伸びず、ついつい投機的な――といっても何億円とかそんなテレビのニュースになるような金額ではない。数千万。たかが数千万である。しかし、企業の活動規模からすればそれほどの大きな金額ではないが、個人で負担することを考えたら決して小さな数字ではなかった。それでも『改善』をすれば、どうにか対処しきれる金額のはずだった。


『がんばれば、なんとかなる』

 座右の銘というほどのものではないが、とにかく小沢は努力を惜しまない男であったし、我慢もできる男であった。しかし経営とは小沢一人で行うものではない。一緒に起業をした仲間には、ひとつの失敗をさらにハイリスクの手法で挽回しようという考えを持つものもいたのだ。小沢には、それを制止するだけの器量と度量を持ち合わせていなかった。結果、借金はさらに膨らみ、いよいよ事業は立ち行かなくなってしまった。


『諦めたらそれですべて終わり』

 どちらかといえば、こちらの言葉をこそ、小沢は座右の銘にしたいと考えていたが、自分自身がそういうことを実践したことはなかったし、当然にそれほど口にする機会もなかった。小沢はそうなる前に何とかする男であった。しかし、それはあくまでも自分のコントロールできる範囲内のことであって、他人にまで影響を及ぼすようなカリスマは皆無といってよかったし、小沢自信、そういうことは好きではなかったのである。


 性分――そういってしまえば実も蓋もないのだが、ともかく小沢はその性分によって、いささか面倒な借金の保証人になってしまったのである。そしてこういう話の類に漏れず、その後仲間は小沢の周りから姿を消し、とても一人では返せないような大きな借金を小沢は抱えてしまった。最初、命まではとられるようなことはないと小沢はタカをくくっていた。テレビドラマや映画ではあるまいし、自分身に危険が及ぶなど、想像もしていなかったのである。しかし、自分にかけてある生命保険について彼らが強い関心を示していることを耳にすると、さすがに平静ではいられなくなった。こうして小沢はしばらくの間、自分の身を隠す場所を探さなければならなくなった。いや、もちろんそうなるまでには、さらに紆余曲折、彼の身辺ではいろんな出来事が起きたのであるが……。


「この場所なら、どうにか安全か。まったくどうしてこんなことになってしまったのか……」

 小沢がこの場所――廃墟となった3階建ての部品工場跡地にたどり着いたのは、ほんの数分前のことである。土曜の夜。自分が抱えてしまった借金について弁護士や、コンサルタントを営む知人に相談に行ったのはその日の夕方だった。軽く食事をして知人と別れて一人アパートに帰ろうとしたとき、事件は起きた。


「あいつら、本当に僕を殺す気なんだ」

 わかってしまえばなんともお粗末な話である。借金をするための書類だといわれてあれこれサインしている中にまさか生命保険の契約が含まれているとはまったく気づいていなかった。もしそのことを知人が知っていて自分をあの連中に売ったのだとしたら、本当に許されないことだ。しかし、そんなことは自分が生き延びることができてから考えればいいことだ。


「どうする。警察に行くか。しかし、その前にやつらに見つかってしまってはもともこもない。畜生、携帯電話を落とすなんて……」

 小沢が人気のない路地に入ったとき、一台の車が小沢めがけて突っ込んできた。小沢は間一髪身をかわしたが、その際に携帯電話を落としてしまった。小さな交差点に差し掛かったとき、携帯にメールが入り、それをチェックしようと、立ち止まったところに猛スピードで車が突っ込んできた。


『夜道には気をつけろよ』

 半分冗談の脅しのメール……酒の席で相談に乗ってくれた知人からのものだった。そのメールのおかげで間一髪、車をかわすことができた小沢は、走り過ぎた車がUターンして再び自分めがけて突進してくるのを見て、夢中で走り出した。車が通れないような細い道を選び、いくつかの狭い路地を越えて少し大きめの通りに出た。そこで自分に何が起きたのか、これからどうすればいいのかと思案をめぐらせているうちにすぐに背後から誰かが走ってくる気配が聞こえた。まさか、車に乗っていた連中が、いよいよ口止めをしに自分を捕まえにきたのだと判断した小沢は選択肢を迫られた。


『助けを呼ぶか、身を隠すか』

 街灯はうっすらと暗い夜道を照らしている。しかし窓に明かりが灯っている建物は視界に入らなかった。大声を出して助けを呼ぶことのほうが、リスクが高い。そう判断した小沢は、身を隠せる場所を探したが、不慣れな場所で身を隠す場所を探すなど、たやすくできることではなかった。であれば――走るしかない。ともかく小沢は走った。まっすぐ走ってはすぐに見つかってしまう。小沢は曲がり角という曲がり角を左、右、左、右の順番で曲がっていった。息が切れる。酒なんか飲むんじゃなかった。いや、違う。日ごろの運動不足が――いや、そもそもこんなところにこなければ……。


 もうこれ以上走れないと思ったとき、目の前にいかにも廃墟という建物が現れた。ともかく休みたい。その一心で小沢は建物の敷地内に忍び込み、どこか建物に入る隙はないかと手の届く窓という窓、扉という扉に手をかけていった。すると案外と簡単にひとつの鉄製の扉が拍子抜けに開いたのである。扉を開けて中に入る。


 ギィイイイイイ


 錆びている。扉が壊れているかと思ったが、その扉は内側から鍵がかけられるようになっており、しっかりと鍵が掛かった。


 ギィイイイイイ


 できるだけ静かに閉めようと思ったが、どうにもならなかった。小沢はその場に座り込み。あたりを見回した。なるほど、そこは男性用のトイレのようだった。「ようだった」というのは小便器を目視で確認できたからであるが、男女兼用であったかもしれない。二つの小便器、二つの個室に二つの洗面台。廃墟にしてはきれいだと思ったが、同時につい最近まで使っていたかのような使用感――臭いもしていた。


「ともかく、朝までここに隠れていよう。明るくなれば、何とかなるだろう。いや、何とかなるさ。きっとなんとかなる」

 小沢は自分にそう言い聞かせた。携帯を持っていないから時間がわからない。夜明けまでどのくらいの時間、待たなければならないのか。寝てしまうという考えも頭をよぎったが、とてもではないが眠れそうにないと思った。そう思ったら、今度は急に喉が渇いてきた。酒を飲んだ跡にここ数年は走っていないだろうという距離を全速力で走ったのである。喉も渇く。


「水は出るのか……」

 小沢は立ち上がり、洗面台のほうへ歩いた。普通に考えて水は出るはずがないだろう。そう思いながらも、小沢は蛇口をひねってみた。


キュゥ、キュゥ、キュゥ


 情けない音を立てて空回りをする。当然だ。水道はとうの昔に止まってしまっているのだろう。小沢は大きくため息をついて、顔を上げた。薄く曇った鏡に自分の姿が映っている――はずだった。


「な、なんだこれは」

 小沢は思わず、声を上げた。確かにそこには自分の姿が映し出されていたが、身なりも格好も今自分が身につけている衣服ではなかったのである。いや、そんなことよりもなによりも、そこに映っている小沢聡は、間違いなく小沢聡なのであるが、『今、映し出されるべき』小沢聡の姿ではなかった。小沢は自分の顔や身体に手を当ててみた。鏡は鏡らしく、小沢と同じ動作を寸分たがわずするのであったが、しかし、そこに映し出されているのは、自分であって自分ではない。


「過去の……自分? 学生の頃の――僕なのか?」




つづく


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