パンツを被る男 1
パンツを被る男 1
鏑木陽一は、かつて大手出版社の新人賞を受賞した男である。それなりに話題にもなったし、その後3作ほどはそこそこに売れた。しかし、そのときすでに彼の中では「書きたい」と思うようなテーマは見つからず、依頼されるがまま、言われるがままに「書きたくもないもの」をこなしていくうちに、彼はすっかり書くことができなくなっていた。とはいえ、食っていくためにはやはり、書くしかない。彼はゲームソフトのシナリオやアダルト向けのPCゲームのシナリオを書くことでなんとか食いつないできた。そんな生活が10年も続いたころ、彼はほとほと仕事に困る状況になった。
「なんか仕事ないっすかねぇ。坂本さん」
「う~ん。あることはあるんだが、ほとんど金にならんぞ」
「なんでもいいとは言いませんが、でもこの際、金になるのなら……」
「それこそ日雇いのアルバイトのほうが2倍は稼げると思うけどなぁ」
「そんなに高いんですか?」
「えぇ?」
「いや、その……最近の日雇いのアルバイトって」
「君も世間知らずだなぁ。逆だよ。最近こっちの業界は羽振りが悪くてね。シナリオなんて二束三文さ。これまではなんとか歩合のいい仕事を回せてたけどさぁ。なかなか難しいんだよ。今の世の中」
「はぁ」
「それよりどうだい? 久しぶりにしっかりとした作品でも書いてみないかい?」
「作品……小説ですかぁ……」
「最近は電子書籍とかブームでさ。まぁそういうネタをほしがっているところもあるし、まるっきりの新人よりは名前のある人が、そういうものを手掛けたほうが、いろいろとうまくいくこともあるわけだし」
「もう、10年……いや、実は僕自身、小説を書いたって意識は全然ないんですよ。あのころは見よう見まねで師匠にどやされながら書いてましたからね」
「君の師匠……永田さんだっけ?」
「えぇ、もう5年になります。あの人が亡くなって」
永田雄介。鏑木が最初務めた小さな制作会社の上司で、鏑木に物書きとしてのノウハウを一から叩き込んだいわば恩師である。永田は鏑木の才能を発掘し、ゲーム雑誌のコラムやゲームのシナリオの仕事をやりながら、あるキャラクターを使った2次著作の小説を書かせたのである。それが鏑木の出世作となったわけである。
「病気だったんだっけ?彼」
「肝臓をやられたらしいです。僕も亡くなってから知らされるまでだいぶ時間があいちゃいましたから」
「鏑木君はそういえば酒をやめたってきいたけど」
「えぇ、実はシャレにならないくらいのところまでいっちゃいまして、カウンセリングを受けて今は一滴も飲んでないんです」
「そうか。まぁ、健康に気を付けるのはいいことだよ。ついでにタバコも止めることをお勧めするよ」
「タバコだけは止められませんね」
「まぁ、考えてみてくれよ。何か手伝えることがあったら、相談に乗るし、さっきの仕事の件もどうしてもやりたいっていうのなら、まぁ手配はするけどさ。本当、割に合わない仕事だからさ」
「わかりました。ちょっと考えてみます」
「じゃあ、はこれで失礼するよ。会計は済ませておくから。コーヒー、もう一杯ごちそうするよ」
「あ、すいません。気を使わせちゃって」
「このくらいは経費で落ちるさ。まぁ、最近はなかなか厳しくはなってるから、一杯1000円もするような喫茶店は使えないけど」
そういうと坂本は大きなカバンを持ってカウンターで店員とやり取りをし、軽く会釈をしていそいそと店を出て行った。ほどなくして店員がコーヒーを運んできた。「御代はすでにいただいております。どうぞごゆっくり」と心にも無い台詞を言いながら、坂本さんが席を立つ際に飲み干していったコーヒーを片付けた。
「小説といってもなぁ」
鏑木は文字通り頭を抱えた。書きたい気持ちはもちろんある。しかし自分には書きたいものがない。あのころは師匠の言うがままにやっていれば、万事うまくいった。鏑木にとって永田は師匠であり、恩師であり、パートナーであった。永田なしで長編の小説など書くことはできない。
「こんなとき、永田さんが生きていれば……」
コーヒーにミルクを流し込み、スティックタイプの砂糖を半分だけいれた。思えばブラックばかり飲んでいた自分を胃によくないからと永田がミルクと少しだけでも砂糖を入れることを勧めたのがきっかけで、以来、鏑木はこの飲み方を守り続けている。今まですっかり忘れていたようなことを、鏑木は思い出していた。
『ネタに詰まったら自分が行ったことのない店に一人で行くんだ。そしてそこで人間を観察しろ。客だけじゃない。店員もだ。店員と客の人間関係や、そこから聞こえてくる会話の端々に必ずヒントがある。それを書くだけで3ページは稼げるぞ』
『書こう書こうと思うな。書きたくなるような状況に身を置け。そうすれば、自然と筆は進むさ』
『人の忠告なんて言うものは無視するためにある。無視して痛い目にあって初めて身になるのさ』
永田の言葉にはいつも説得力があった。永田自身がオリジナルの作品を書いているのを読んだことはないが、永田の言葉は、常に鏑木の迷いを打ち消してくれた。
「そうだな。師匠の言っていたことを久しぶりに実践してみるか」
席を立ちあがると、鏑木はまず、携帯の電源を切った。
「師匠の教えその1 自分の時間を作るべし」
それは至極無駄なことに感じられた。実は鏑木の携帯には、登録しているメールマガジンやSNSのお知らせ以外には週に一人くらいしか連絡が来ない。携帯の電源を入れたままにしていても問題はないのだが、やはり形から入ることも大事である。鏑木は店をでると来た方向と反対側に足を進めた。まだ日は明るい。酒を出すような店が開くまで3時間ほどつぶさなければならない。
「しかし酒を飲めない身で店に入るというのもなんだかなぁ」
真新しいビルのショウウインドウに自分の姿が映し出される。どうにもさえていなかった。しかしそれは今に始まったことではない。そもそも容姿に自信があるのなら物書きなんかしていないと、それは永田の言葉ではなく、誰の言葉だったか。
「オレで、あってほしくはないが、やはりオレか」
優男。身長はそこそこあるが全体的に線が細い。肌の色は不健康に白く、頬はそり残した髭が清潔感を損ねている。風呂に入ったのは2日ほど前か。銀縁のメガネはどことなく物書きの雰囲気を出していないこともないが、髪の毛は中途半端に伸びておさまりが悪い。
「そろそろ髪切らないとなぁ。来週あたり、切りに行くか」
「こんな格好で行くとすれば、やはり、おしゃれな感じというよりかは、隠れ家のような店だが、そもそも隠れ家というのは隠れているのだから、一見がそう簡単に見つけらるわけもない。さて、困ったぞ」
おもわず携帯に手が行く。ネットで調べれば、おすすめの店というのも案外簡単に見つけられる気がしたが、それでは興がない。で、結局鏑木は少し大きめの書店を探し、それらしい雑誌からそれらしい情報を得ようと思いついた。しばらく町の中を当てもなく歩くと、それなりに大きめの書店を見つけることができた。鏑木は早速雑誌のコーナーに足を運び、立読みを始めた。
「先は長い。とりあえず最近の漫画でも目を通しておくか」
本屋で時間をつぶすことは慣れている。鏑木はそのままあたりが暗くなるまで、雑誌を読み漁った。
「さて、そろそろ店を探さないとなぁ」
そう思ったとき、ふと店の前を知った顔が通り過ぎたような気がした。
「あ、あれは永田さん。まさか……」
MA-1ジャケット。それは鏑木の師匠である永田の代名詞であった。キャップを後ろ向きに深くかぶるのも永田の特徴である。その二点だけで永田であるか判断するのは早計である。第一永田はもうこの世にはいない。鏑木はあわてて本屋を出た。右手から左手へあたりを見渡す。永田らしき人影を追って、人並みの中を覗き込む。その人波から一人、左手に曲がった者がいる。一瞬だが鏑木の探している人影であることはすぐにわかった。
「他人の空似だとは思うけど……」
鏑木はなんとなく運命的なものを感じて、その人影の後を追うことにした。およそ人違いだろうけど、この際関係ない。鏑木は確かめずにいられなくなっていた。街はすっかりまどろみ、街頭のあかりや車のテールランプの不規則な明転が華やかさと儚さを演出する。鏑木は非日常の扉を開けたことにこのときは、まだ、気づいていなかった。
つづく