エンディングノート 7
エンディングノート 7
おわかりだろうか? 僕があの穴から救出され、病院に搬送され身元の確認が済み、僕の安否が家族に知らされてあのは、なんと事故があった夜から5日も経ってのことである。
そして僕は驚愕の事実を知らされる。
「パパ、てっきり、死んじゃったのかと思った……」
なぜ、そんなことになったのかといえば、それはもう神のいたずら、それもかなり悪質で辛らつで無慈悲な悪ふざけのせいである。事故のあった夜から僕が救出されるまでは2日経っていない。しかし僕が病院に搬送され身元がわかるまでになんと2日半もかかったのである。病院に搬送された僕は身分を証明するものを何も持っていなかった。衰弱した僕は長いこと眠っており、僕は自分の名前を何とか看護士に告げはしたものの、詳しい住所や自宅の連絡先は聞けなかったのだった。そして僕は何一つ身元を証明するものを所持していなかった。
もしそれだけであれば、僕は行方不明となるはずだったのだが、ここに一体の遺体がある。それはあのやさぐれた中年男のものであるが、彼は彼で、身元を証明するものを持っていなかった。いや、身分を証明するものは持っていたのだが、『彼が彼であること』を証明するものは持っていなかったのである。
つまり、彼は――あのやさぐれた中年男は、僕の財布を所持し、財布の中には僕であることを証明するものが入っていたわけだ。しかも背格好から着ている物まで僕とその遺体は『違いがわからない』という程度に『似ていた』のである。さらには彼の頭部はトラックに踏みつぶされ、まさに木っ端微塵に砕け散り、人相を判別することは不可能であった。身体的な特徴を判別するに足る要件を満たしていない遺体。僕であることを指し示す財布と破壊された携帯電話が現場から押収され、すぐに僕の家族にそのことが知らされた。
妻は遺体を確認しようにも、すっかり変わり果てた姿に半狂乱になりかけたそうだ。
で、結局、この遺体は僕のものであろうということになったわけだが、もちろんそれは確定された事実ではない。事実ではなくても僕の家族にはどうしようもなく、それを僕だと思うような理由があった。
それがエンディングノートである。
僕が万が一のために書き記したエンディングノートは、翌日には妻の手によって発見され、きっと虫の知らせがあって、こんなものを書いたに違いないという話になった。それで、妻は娘たちと一緒にこのエンディングノートに書かれていることを実行したのである。
僕は病室でその話を聞かされたとき、はたしてもう一度気を失い。穴があったら入りたいという気持ちになり、そしてもう二度と穴には入りたくないと勇気を振り絞って事態の収拾に当たったわけである。
事態の収拾――それはまさに恥の上に恥を上塗りし、尻の穴をみんなに広げて見せるような想像を絶する忍耐力を要する作業であった。ソーシャルの伝播の力はすさまじく、僕が死んだ――いや、最初は『死んだかもしれない』という情報は、北は北海道の留萌から南は熊本まで広がっていた。それでも知り合いがいる県よりもいない県の方が多かったのは救いである。
妻がコピー&ペーストした文章は、必要以上に世間に広がり、まだ完全に確定していない情報が『さもそうであるかのように』広がり、さらに尾ひれはひれをつけて、僕が死を予言し、このような文章を残したことが一人歩きし、僕が知らない人にまでそのことが伝わる始末である。そして何より僕を赤面させたのは、僕のパソコンのありとあらゆる情報が家族の知るところとなり、とても家族に見せられないような卑猥な映像を閲覧した履歴やらソーシャルの仲間との馬鹿話が、白日の下にさらされたことである。
僕がパソコンに向かって何をやっているかについて、まったく関心をもっていなかった僕の家族は、僕が死んでしまったと思い込み、生前のパパ――おねえちゃんが小学校を卒業してから妙に僕を避けるようになり、最近ではあまり会話らしい会話もしていなかった――の様子をうかがい知ろうと、『エンディングノート』に従い、僕のブログやフェイスブックに何を書き込んでいるのか、死の直前、どんなサイトを見ていたのかなど、そういうことがなされたのだと妻から聞かされたとき、娘が僕の生還を喜びながらも、どこかよそよそしい理由がはっきりとわかった。
その後、SNSの世界で僕のハンドルネームには、次のような称号をつけて呼ばれるようになった。
アンブレイカブル・グロッキー
不死身の男 グロッキー
数週間後――某SNSにて
ケロちゃん:本当に無事でよかったです。でもグロッキーさんの今回の件、いろいろと考えさせられましたw
グロッキー:@ケロちゃん おかげさまで生き恥をさらしておりますw で、考えさせられたってたとえばどんなこと?
ケロちゃん:@グロッキー 私にだって死んだあとに家族に見られたくないものくらいあるもの。今のうちに整理しておかないと
ガッツ:オレなんかヤバイ画像やら動画やらHDDにいっぱいだからなぁ
ケロちゃん:@ガッツ さすがに女の私にはそんなのないけど・・・
グロッキー:@ケロちゃん 昔の彼氏の写真とか?
ガッツ:@ケロちゃん 恋文かw
ケロちゃん:@グロッキー ないとはいえない
ケロちゃん:@ガッツ 恋文ってw さすがにそれはない・・・いや、待てよ。なんだかありとあらゆることが不安になってきたw
グロッキー:エンディングノートそのものはいいアイデアだったし、あれはあれで必要だと思うけど、つまりは僕の生活が汚れきっているってことなのかな? これだけ恥ずかしい思いをしたのはw
ガッツ:@グロッキー オレも書いてみようかなぁ あ、でも自分でIDとかパスワードとかわからなくなっているのもあるなぁ きっとw
ケロちゃん:@ガッツ そうそうw 私もわからなくなったのあるよ。 @グロッキー 実は私、ちょっと書き始めたのだ。エンディングノート
グロッキー:@そうなの? でも、慎重にやらないと僕みたいなことに・・・まぁ、さすがにあんな滑稽なことにはならないと思うけど
ガッツ:@ケロちゃん 人に見せる前にグロさんに見せておいたほうがいいよ。添削してくれるよwww
ケロちゃん:@ガッツ なるほど・・・っておい! 他人になんか見せられないよw
グロッキー:@ガッツ そういうガッツさんはどうなんですか? 実はこっそり書いていたりしてw
ガッツ:@グロッキー ないないw それにアンブレイカブルな体験なんてそうできることじゃないからな。あれは本当に運が悪かったというか・・・いや、やっぱりよかったのかw
グロッキー:それは・・・神のみぞ知る。あるいはカミさんのみ知るですよ
ケロちゃん:@グロッキー www
ガッツ:@グロッキー www
おわり
財布を落としたとき、いろいろと面倒なことが起きます
ものをなくしたばかりか、場合によってはそれがもとで信用を無くしたりすることもあるかもしれません。
しかしこのお話では、様々な偶然からとんでもない事態に話が進んでいきます。
もしも自分が死んだら――いろんなことを思い浮かべると思いますが、『死んだと勘違いされたら』とは普通思わないものでしょう。
どうですか? そういうことを想像してみるのも、案外と楽しくはないですか? それとも怖いですか?




