敗北論~こぎつねと二人の男
敗北論~こぎつねと二人の男
こぎつね コンコン 山の中山の中
草の実、つぶして、お化粧したり
もみじの かんざし、つげのくし
こぎつね コンコン 冬の山冬の山
枯葉の着物じゃ ぬうにもぬえず
きれいな もようの、 花もなし
男が二人、人里離れた山小屋の中にいる。
外はすっかり暗くなり、灯り無しでは歩くこともままならない。
山道を、30分ほど登ったところにある、誰が建てたかも、誰が使っていたかもわからないその小屋は、誰にも気付かれず、誰にも知られず、誰の口の端に上ることもない。
一人は縄で縛られ、身動きすることができない。
一人は猟銃を構え、縄で縛られた男に向かって、なにやらわめき散らしている。
「よーし、わかった。それじゃぁ、こうしよう」
猟銃を持った男はニヤニヤしながら縄で縛られた男の耳元で話し始める。
「これからゲームをしよう。簡単なゲームだ」
縄で縛られた男は、顔中に痣があり、口元から血が流れている。
どうやら猟銃を持った男に散々暴行を受けたようだ。
「唄を歌ってもらおうか」
猟銃を持った男は鼻歌を歌い始めた。
そのメロディは、誰もが子供の頃に聴いたことがある童謡だった。
縄で縛られた男は思い出した。
「たしか、狐が、山の中でどうしたとか……、ああ、そうだ、『こぎつね』という題名じゃないか」
「よくできました。しかし、曲名は問題じゃない」
猟銃を構えた男は得意げだ。
「さーて、この曲の歌詞を間違いなく歌うことができるかな?」
まるでクイズ番組の司会者のように振舞ったが、男が持っていたのはマイクではなく猟銃だった。
「三回間違えたら……、ズドーン! なんてなぁ」
猟銃を持った男は、カラカラと笑いながら縄で縛られた男の頭を猟銃の銃身で小突いた。
「制限時間60分、三本勝負ってかぁー。かぁーっかっっかぁー!」
(狂っていやがる!)
縄で縛られた男は、心の中でそう履き捨てた。
どうせ命を助けるつもりはないのだろう。
(それにしても……)
縄で縛られた男は、なんとも複雑な心境だった。
(まさか、この男、知っていてやっているのか……。それとも単なる偶然なのか)
縄で縛られた男は、大声で歌いだした。
フックス、ドゥ ハス ディ ガンツ ゲシュトーレン
Fuchs, du hast die Ganz gestolen
ギプ エス ヴィーデァ ヒーァ
Gib es wieder hier
ギプ エス ヴィーデァ ヒーァ
Gib es wieder hier
ゾンスト ヴィァッ ディヒ デァ ィエーガァ ホーレン
Sonst wird dich der Jager holen
ミッ デム シースゲヴェア
Mit dem Schiesgewehr
ゾンスト ヴィァッ ディヒ デァ ィエーガァ ホーレン
Sonst wird dich der Jager holen
ミッ デム シースゲヴェア
Mit dem Schiesgewehr
猟銃を持った男は、一瞬ためらった。
銃口は縄で縛られた男の頭に向けられ、引鉄にはしっかりと指がかけられていた。
「おい。今のはなんだ。貴様、この期に及んで俺をからかっているのか?」
縄で縛られた男は、気丈に猟銃を持った男をみつめ、口を開いた。
「この歌は、もともとドイツの民謡だ。今のが原曲だよ」
猟銃を持った男は、狂喜の悦から不意に覚まされた不快感と何か面白いものを見つけたときのような好奇心が混ざり合ったような複雑な表情をしていた。
「おいおい。まさかテメェ。でまかせじゃないだろうな?」
猟銃を持った男は、不気味なぐらいに真剣な眼差しで縄で縛られた男を睨みつけた。
「日本の童謡じゃねぇのか……。俺は、小さい頃あの歌が好きでよー。学校の先生があの唄を歌うと褒めてくれたんだよ。俺はこの通りだがらよー。人に褒められたことなんて、めったにねぇから、よく覚えているんだよ。だからよー。お前さん。デタラメはいけねぇよ。なぁあ。アンタそんなに早く死にてぇのかぁ? 嘘じゃないなら、ちゃんと意味を聞かせてもらわねぇとな。ドイツ語じゃぁ、なんて唄っているんだ?」
猟銃を持った男の問いかけに、縄で縛られた男は一瞬戸惑った。
(まぁ、いい。こういう死に方も悪くない。一つくらい、自分の知識を誰かに残せて死ねるのだ。それがどんな悪党であろうと、単位をとることしか興味がない学生に、念仏のようにドイツ語の教鞭をとることに比べたらまだ、ましなのかもしれない)
「いいだろう。教えてやる。一番はこうだ」
キツネよ、君はガチョウを盗んだね
元のところへ返しなさい
元のところへ返しなさい
さもなきゃ、狩人がお前を捕まえに
鉄砲を持ってやってくるぞ
さもなきゃ、狩人がお前を捕まえに
鉄砲を持ってやってくるぞ
一瞬の静寂。銃を持った男はじっと縄で縛られた男を見つめている。真剣な表情だ。
「2番はあるのか?あるなら続けろ」
銃を持った男は、縄で縛られた男に促した。銃は構えたまま。しかしその目は真剣そのものだった。
そして静寂。さっきよりも長い。
こんなに真剣な表情で見つめられたのは、いつ以来だろうか?
縄で縛られた男はすぐにそれを思い出すことができなかった。
(思わぬ形で最後の教鞭をとることになったが、これもまた、人生なのかもしれない)
縄で縛られた男は大きく息を吸って、口を開いた。
「2番はこうなる」
ザィネ グローセ ランゲ フリンテ
Seine grose, lange Flinte
シースト アォフ ディヒ デン シュローッ
Schiest auf dich den Schrot,
シースト アォフ ディヒ デン シュローッ
Schiest auf dich den Schrot,
ダス ディヒ フェァプ・ディ ローテ ティンテ
Das dich farbt die rote Tinte
ウン ダン ビス ドゥ トーッ
Und dann bist du tot,
ダス ディヒ フェァプ・ディ ローテ ティンテ
Das dich farbt die rote Tinte
ウン ダン ビス ドゥ トーッ
Und dann bist du tot.
縄で縛られた男の声は震えていた。それは恐怖から来るものなのか、何かに興奮しているからなのか、わからない。もし興奮しているのだとしたら、何に対してなのか、わからなかった。
縄で縛られた男は、銃を持った男を見つめる。そこには純真な瞳がふたつ、『早く次を、早く次を』とせかしているように見えた。だから、縄で縛られた男は続けた。
「2番の訳は、こうだ」
狩人の大きくて長い銃が
君をめがけて弾を撃つ
君をめがけて弾を撃つ
赤いインクが君を染めて
君は死んでしまうぞ
赤いインクが君を染めて
君は死んでしまうぞ
縄で縛られた男は思った。
(いつこの猟銃で頭を吹っ飛ばされるかわからない。でも、それもいいのかもしれない。思い残す事がないわけではないが、それでも、もっと理不尽な生き方というものが、世の中にはあるものだ)
一呼吸おいて、縄で縛られた男は、さらに続けた。
「そして、これが最後、3番だ。」
リーベス フュクスライン、ラス ディァ ラーテン
Liebes Fuchslein, las dir raten
ザイ ドホ ヌア カィン ディープ
Sei doch nur kein Dieb
ザイ ドホ ヌア カィン ディープ
Sei doch nur kein Dieb
ニム、ドゥ ブラォフスト ニヒト ゲンゼブラーテン
Nimm, du brauchst nicht Gansebraten,
ミッ デァ マォス フォァリープ
Mit der Maus vorlieb.
ニム、ドゥ ブラォフスト ニヒト ゲンゼブラーテン
Nimm, du brauchst nicht Gansebraten,
ミッ デァ マォス フォァリープ
Mit der Maus vorlieb.
「意味は――」
縄で縛られた男が最後の訳を語ろうとしたとき、猟銃を持った男は銃口を縄で縛られた男の口に押し当て、言葉をさえぎった。
「待て。待つんだ……」
縄で縛られた男は一瞬自分の命がこれで最後だと覚悟を決めた……。はずだった。とっくに覚悟を決めたつもりだったが、どんなに覚悟を決めてもやはり、死ぬのは怖かった。そして殺されるのは、もっと怖かった。
「待ってくれ。その先は言わないでくれ」
縄で縛られた男は猟銃を持った男の変化にやっと気付いた。銃口が小刻みに震えている。猟銃を持った男をみると、その目には涙が浮かび、こぼれ落ちようとしていた。
「俺は、今まで他人のものを奪うことも、命を奪うことも、ためらうことはなかった。俺は自分が生きるために人から物を奪い、必要とあれば……。いや、そうでなくたって俺はたくさん殺してきた」
縄で縛られた男は、どんなに銃を持った男が、心変わりをしたように見えても死の覚悟を解けずにいた。いや、どうやって解いていいのかがわからなかったのだ。
「俺の殺してきた奴らも、いっぱいいっぱい俺の知らないことを知ってたんだなぁ、きっと……。そんなこと俺は……、俺は、今まで考えた事がなかった」
縄で縛られた男は思った。
(どうもおかしなことになってきた。しかし、なんという皮肉だ)
縄で縛られた男は自問自答を繰り返していた。自分が教えている学生は、ノートをとることに――つまりは単位を取るために一生懸命なのかもしれないが、猟銃を持った男のように真剣に学ぼうと、してはいなかったのではないだろうか。
一体自分は誰に向かって、何の教鞭をとり続けてきたのか。
(そうだ。私は、疑問に思いながらも、いつの間にか、『これは喰うために仕方のないことだ』とどこか割り切っていたのかもしれない。『生きる』とは、自分を殺すことだと)
縄で縛られた男は首を大きく横に振った。
(しかし……、私の目の前には、腹を空かせた盗人が、私を縄で縛り付け、銃口を向けている。私は今、殺されようとしている。私は……、私は死にたくない)
縄で縛られた男は、自分を問い詰めることをあきらめ、猟銃を持った男に問いかけた。
「どうするんだ。この続きを知りたいのなら、ドイツ語を学べばいい。私を殺したとしても、後でゆっくりやればいい。妙な話だが、私はお前さんが思っているような、たいそうな知識を持っているわけではない。ただの非常勤講師さ。もしかしたら、お前さんが過去に殺した人間よりも、ぜんぜん価値はないのかもしれないぞ」
そういい終えて、縄で縛られた男は心の中で舌打ちをした。
(ちっ! 私は何を言ってるんだ? 死にたくないのに、何を言っている?)
その疑問に答えるものを持たない男。これまでの人生に対する執着や、生きることの意味を示すような哲学や信仰といった、すがりつくようなものが、縄で縛られた男の内側には、何もなかった。
「なぁー。俺は、どうしたら、いいんだ」
さっきまでとは違う、情けない声で猟銃を持った男は言った。
その疑問に初めて向かい合った男。生き残るための行為以外に、人生に価値があることを知らない。自分は何のために生きているのか、或いは己を律するべき道徳や信仰のようなものが、猟銃を持った男の内側には、何もなかった。
男が二人、人気のない山道を登った小さな小屋の中にいた。
二人は道に迷い、戸惑い、見つめあい、答えを探し求めていた。
静かな時が流れていく。
。
二人はこぎつねのように小首をかしげて考えるしかなかった。
仕方がないので、縄で縛られた男は心の中で、続きを歌った。
キツネ君、忠告するが
泥棒なんてやめておけ
泥棒なんてやめておけ
ガチョウの焼肉は要らないだろう
ネズミで我慢しろよ
ガチョウの焼肉は要らないだろう
ネズミで我慢しろよ
仕方がないので、銃を持った男は心の中で歌い続けた。
こぎつね コンコン
穴の中
穴の中
大きな尻尾は、
じゃまにはなるし
小首をかしげて、
考える
ズドーン!
人気のない山に一発の銃声が木霊する。
そして静寂のあと
一羽の、金色のガチョウが、小屋から飛び立っていった。
おわり
こういう雰囲気の作品がかけたことは、なんとも不思議な体験でした。大きくは2回書き直されているのですが、それはやはり、ラストシーンです。
金色のガチョウというヒントを得られてのは、図書館で調べものをしていたときでした。中世ヨーロッパにおける狼について民話、逸話、童話を調べていたところ『ガチョウと黄金の卵』あるいは『金のガチョウ』というお話を目にし、それまで納得ができなかった最期のシーンを決めることができました。また、タイトルに関しても山作戰の『敗北論』という曲のなかで歌われている「あなたになら 負けてもいい」という歌詞に、この物語と歌の世界観に何か共通するものを感じ、『敗北論』というタイトルを拝借することになりました。
2012年9月さらに改訂