(5)
「最悪……」
誰もいない空間で、桐子のかすれた声だけが響いた。
雑草が無造作に生えた川原は、二、三年前に舗装されて以来、昔のようなごつごつとした雰囲気では無くなっている。規則正しく並べられたタイルが、辺りの静けさを余計に増しているようだ。昔の風景の方が桐子は好きだったが、大雨の時に氾濫すると危険だとか何だとかで、これが適切な処置だったのだろう。
涙でぐちゃぐちゃになった顔で夕刻の川原を見つめていると、昔この場所でよく遊んだことが思い出された。川原は、水の生き物の宝庫だった。近所の友達と暗くなるまで走り回ったりもしたし、小学校のときには、ここの川原でクラス会を開いたりした。晩秋には空一杯の赤トンボを追い掛け回した。
初夏には夜になると、蛍がたくさん飛び交っていたっけ……。それを捕まえて持って帰りたいとせがんで、お父さんに叱られたのを覚えている。
自然にいるからこそ、こんなに光が綺麗なんだよ。
だから捕まえるのはだめだ、と確かそんなことを言っていた。……そういえばここ数年、蛍を見なくなったなぁと思う。別に取り立てて見たがらない年頃になったせいかもしれないけれど。田舎というほどでも、都会と言うほどでもないこの町も、確実に汚れて行っているのだろうか。
「蛍、飛んでるの見たかったねぇ……」
そんな時、ふいに背後から声がしたものだから、驚きで桐子は大きく息を呑んだ。その勢いで、喉が「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。そして川原に馳せていた回想から、一瞬にして現実に引き戻される。少し高めのこの声には聞き覚えがあった。あわてて振り返ると、
「さ、桜ちゃん……」
「やっ」と軽く手で合図してこちらに笑顔を向けたのは、桜だった。
何でここに? とか、どうしてここが分かったの? とか、いろいろ聞きたいことが浮かんできて、口をモゴモゴ言わせていると、
「言ったでしょ? いつでもどこでも駆けつけるって」
そんな桐子の気持ちなどお見通し、といった調子でくすくす笑うと、いつものあの笑顔で言った。
(あ……)
――桐子ちゃんがピンチの時には、いつでもどこでも駆けつけるよ?
それじゃぁ理由になってないよ。と、普通ならばそう思うんだろう。偶然なんでしょ? と笑うかもしれない。しかし彼女の、ためらいなど微塵も感じさせない笑顔には、桐子を納得させるだけのパワーがあった。そのまっすぐな瞳は、やっぱり信じられないほど透き通っていて綺麗で、桐子は、全てを見透かされそうな錯覚に陥ってしまう。
「蛍……」
見透かされないように誤魔化そうと、出てきた言葉がそれだった。
「うん?」
「冬だから……いるわけ無いよ。蛍なんて」
夏になってももう、いないかもしれないけれど……
「うん、そうだね」
いつの間にか桜は、桐子の隣に腰掛けて、目の前の川原を静かな眼差しで見つめていた。沈み行く夕日が、彼女の横顔を優しく照らしている。そのコントラストが非常に綺麗で、しばらく桐子は、彼女の横顔をじっと見つめていた。
「星が出てきたね」
少しずつ闇のヴェールをまとい始めた空を見上げ、ぽつりと桜が呟いた。
先ほどまで二人を照らしていた夕日は、住宅街の間からかすかに見える地平線に、わずかにその輪郭を残すのみとなっている。沈み始めてから消えるまで、なんて早いんだろう。太陽が空高く昇っている間は、この明るさが永遠に続くように思えるのに。
「うん……」
そう小さく返事して、桐子もまた、上空を仰いだ。
十二月の空気は、凛として澄んでいる。首筋を撫でる風がひんやり冷たかったが、桐子は特に気にならなかった。もう少し暗くなったら、南の空にはたくさんの星々が輝きだすのだろう。こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウス、オリオン座のペテルギウス――
そういえばここ最近、星を見るのをやめてしまっていた。
「……桜ちゃん」
「ん?」
「桜ちゃんは……どうやって高校を選んだの? 自分のしたい事とか、ちゃんと持って選んだの?」
私には、まだ何もわからない。もやもやしているものは、確かにあるはずなのに。目の前の彼女ならば、持っているのだろうか。いつも明るくて、優しい桜ちゃん。その明朗快活な様は、まったく自信のゆらぎを感じさせたことがない。
「――私には……何もなかったよ」
ハッとして桐子は、桜の方を見つめた。それはそんな彼女が、初めて発した消極的な発言だったから。
「そして、今もない。……きっと、これからも何もないんだと思う」
そう言ってこちらを向くと、いつもどおりの笑顔を浮かべた。いたずらっ子のような無邪気な笑顔のはずなのに、ほんの少しだけ、悲しそうに見えるのは桐子の気のせいなのだろうか。
「これからもないだなんて、そんなこと――」
「桐子ちゃん」
いつになく真剣な声でそう言われて、桐子は一瞬怯んだ。澄んだ瞳を真っ直ぐに向けられて、改めてその綺麗さに驚かされる。しかし、その不思議な輝きから、彼女の気持ちを量る事はできなかった。目の前の彼女の瞳は、少し悲しそうな、それでいて嬉しそうな……
「私はね。『桜』って名前、すごく気に入ってるの。両親が精一杯考えて、私にくれた最初の愛情だと思うから……だから、私は花に興味がある。花が好き。将来は、花に携わる仕事ができたらな……って、思ってた」
「?」
――……てた?
なんで過去形なのだろう。桐子は、不思議そうに桜を見つめていた。なんだか胸のあたリに、妙な引っ掛かりを覚える。彼女には、桐子に言えない事情や何かが、あるのだろうか。桐子は、桜になら何でも話せるような気がするのに……
「桐子ちゃんは、何が好き?」
「え……」
ふいに話題をこちらに振られて、桐子は大きく目を見開いた。
――何が好き?
もちろん、好きなものならたくさんある。
両親や友達、国語も好き。お気に入りのアーティストのCDを集めていたりもする。でも、彼女が言う『好き』は、そういう『好き』とは違うものだと思った。彼女の澄んだ瞳が、そう言う風に言っている。
「私は……」
もっとこう、気が付いた時にはもう、惹かれていたもの。そのことを考えると、ドキドキしたり、ワクワクしたりする――
そうしてハッと気が付いた。
「星が好き」
徐々に姿を現しだした星たちを仰いで、桐子が言った。
――好きなもの。
ここしばらく、考えたこともなかった。きっと、めまぐるしい毎日に飲み込まれてしまっていたんだろう。こんなに簡単な答えなのに。こんなに近くにあったのに。そう、幼い頃から空が、宇宙が、星が大好きだった。あの星達の輝きが何万年も昔のものだと知って、その途方の無さに頭がクラクラしたこと。人や動物と同じで、星達にも生と死とがあると知った時の、感動。流星群の来る夜は、興奮で待ちきれなかった。
「――私は、星が好き」
もう一度確かめるように言うと、桐子は興奮したように隣にいる桜へと視線を移した。彼女は桐子を満足そうに見つめて、優しく微笑んでいた。いつもの笑顔とは違って、少し大人びて見える。
「じゃぁ桐子ちゃんは、どうするの?」
そう訊かれて桐子は、今まで強ばっていた肩の力がすぅっと抜けて行くのを感じた。
(そうか……)
本当にあっけない。
今まで一体、自分は何に悩んできたんだろう。
「だから、高校へ行く」
私にはもっと、知りたいことや学びたいことがあるから。星に携わることが、果たして自分のやりたいことかはわからないけれど、少なくとも、それに関する事をもっともっと知りたいと思っていた。動機は、それだけで十分だったはずだ。理由なんてきっと、あとで考えればいい事なのだから。
「……そっか。そんな簡単なことで良かったんだ」
「そうだよ」
夢から覚めた後のように、体中の力が抜けている桐子を見て、桜はおかしそうに笑った。
「よく、学校は何も教えてくれないって嘆く人がいるけれど、それって違うと思わない? 学校は教えてくれるところじゃないんだから。一人一人が学びに行く場所でしょ?」
一人一人が、学びたい事を学びに行く。教えてもらうのでなく、自分から。その先に、自分のなりたいものだとか、やりたいことだとかがあるのだ、と桜は言った。
そうだね。と呟いて、桐子はまた、空を仰いだ。すっかり暗くなった空に、輝く星たちが美しい。今夜帰ったら、もう一度両親と、今度は真剣に話をしよう、と思った。分かってくれなくても、分かってくれるまで何度も何度も、話をしよう。応援してくれるだろうか……両親や担任は。応援して欲しい。心からそう思う。