(2)
――放っておけないのよ。
初めて桜と出会った日、彼女が桐子に言った言葉。今でも時々、その時の言葉が頭の中にフラッシュバックする事がある。
桐子と桜は、別に幼い頃からの友達と言う訳でも、友達の友達と言う訳でもない。もちろん、先輩後輩の間柄でもない。二人は少し前に偶然出会い、そして偶然仲良くなっただけだ。
しかし、知り合って間もないというのに、桐子は桜といると、自然体でいられる自分に気づくのだ。普段友人や先生達の前で見せている少し気取った素振りも、初対面の頃にこそ見せたが、今ではすっかり素の自分で馴染んでしまっている。ここまで自分を出せるだなんて、今更ながら驚いてしまう。
親友と呼べる友達も、数こそ少ないが、いると自負している桐子だ。そういう人たちの前ではもちろん、羽目をはずしたり、いろいろと馬鹿なことをやったりはしている。しかし、桜とはそういう関係でもない気がするのだ。不思議な関係。だけど自然な。本当に、おかしな話なのだけれど……
二人が初めて出会ったのは、十一月後半の寒々とした空の下だった。
あの頃は確か、月始めにあった実力テストの結果が返ってきたばかりで、それが思うような結果ではなかったことに、ひどく落ち込んでいた時だったと思う。なんにも考えずに、他の友人と同じように高校に進学することを決めて、更に大学にまで進学する気でいる桐子は、当然受験生という存在で。受験生である桐子は、当たり前のことだけれども勉強をしなくてはいけない身の上だ。実際あの時も、市内にある塾に行く途中だった。
……いや、行くフリをしている途中だったというのが正解だろう。
(だるい……)
塾への通りを歩きながら、桐子は大きくため息をついた。結構オーバーリアクションだったと思うのだが、彼女を気に留める人など一人もいない。夕刻なので、仕事帰りの人が多いのだろう。みんな、疲れた渋い表情を浮かべている。空を仰ぐと、都会の空気でどんよりとした、くすんだ夕焼け色だった。
(重いなぁ……)
ずんと頭に、おかしな位の重力が掛かる気がする。そんなに重くなるほど、頭の中が詰まっている訳でもないのに。何もこんな時に重くならなくてもいいではないか。それでなくてもここ数日、散々悩み続けていたのだ。いわゆる、『進路』というヤツで。
担任とも相談した。でも結局、喉もとのつっかかりが取れることはなかった。根本的な問題が解決していないのだから、仕様がない事なのかもしれない。根本的な……両親との問題。
「…………」
その事が頭の中に浮かんで、更に頭の重さに拍車がかかった。塾へ向かう足取りも、つられて重くなった気がする。
(サボっちゃおうかなぁ……)
結果、そういう気になってしまったのだ。
サボってしまおう、そうしよう。そんなに欠席に厳しい所じゃないから、黙っていればバレやしない。もしバレたって……そんな事を気に留める人なんて、あそこには一人もいないのだから。
そうと決めて、市内の雑貨屋めぐりでもしようと進む向きをくるりと変えた。
「……コレ、あなたの?」
そんな時、桐子を呼び止めたのが桜だった。
彼女が言う『あなた』が自分の事だと気づくのに数秒。ようやく気づいて顔を上げると、驚くほど澄んだ瞳とぶつかった。
れっきとした日本人の黒い瞳。そのはずなのに、映画でよく見るあの青い瞳よりも明るく透き通って、静かな光をたたえていた。ちょっとの間、思わず見入ってしまった。
純粋な人は瞳が綺麗なんだよ、と昔誰かが言っていたような気がするが、本当にそんな感じの瞳だな、と思った。それが、彼女の第一印象。
彼女は親切にも、桐子の落し物を拾ってくれたらしい。だが、その落し物というのが塾の学生証だったという点で、まずかった。
「藤原――桐子ちゃん。 ごめんね、名前確認しなきゃと思って中身見せてもらっちゃった」
交番に届けようとしていたのだという。そこで、学生証の証明写真に気づき、人ごみの中の桐子を見つけたらしい。
ありがとうございました、とそっけなく言って立ち去ろうとする桐子に、
「塾……今日あるんじゃないの? サボりかな?」
悪びれもせずに、そうスパッと言ってきた。純粋そうに見えた瞳は、少しだけ好奇心の色を強くしたように感じる。そして、いたずらっ子のような、無邪気な笑顔が桐子にはカチンときた。第二印象と言うものがもしあるとすれば、恐らく『ヤな奴』と言うのがそれだろう。
――関係ない、あなたにどう言われようと人の勝手でしょう。
頭ではそんな台詞が浮かんでいたが、怒鳴る気力は、その日の桐子にはなかった。俯いて、そのまま真っ直ぐ歩いて行ってしまおう。そう思った。一人になりたかったのだ。
「……ねぇ、少しだけお茶しない? おごるわよ」
ふっと朗らかに微笑むと、彼女は予想もしなかった発言をしたのだ。思わず足を止めて彼女を見上げると、あの綺麗な瞳が優しそうに笑っていた。
「そんな、世界の終わりみたいな顔してないでさ。話したら楽になるわよ?」
――私でよかったら、話聞くよ?
それは、全くの他人に言われてそんなに嬉しい台詞じゃない。しかし、不審そうな顔の桐子にはかまわず、行きましょ。と言って彼女は、桐子の手を取った。
おせっかいにも程があるのではないだろうか。何にも知らないくせに、偽善者ぶっているんじゃないの?のど元まで出掛かった言葉は、しかし声になる事は無かった。できなかったのだ。しっかりと握られた手が、とても暖かい感じがして。その暖かさが、とても手放しがたいもののように思えて。どうにも放すことが、できなかった。そして、複雑な気持ちとは裏腹に、軽く動き出す足を止めることも。
結局彼女の言われるままについて行ってたどり着いた先が、今いるこの喫茶店だったというわけだ。今時の喫茶店にしては珍しくレトロな雰囲気で、セピア色の内装がよく似合う、小ぢんまりした店だった。桜のお気に入りの場所だと言う。
そこで――一体どれくらい話し込んだのだろう。見ず知らずの人間に話すことなんてない、と思っていたのに……。
友達関係で悩んでいること。
勉強が上手くいかないこと。
希望の進路が両親とは食い違うこと。
そして――そのことを両親に打ち明けられないこと。
真剣に聞いてくれる彼女の態度を見ているうちに、結局、思っていたことを全部吐き出していた。
「――だったらそうねぇ。私が家庭教師するってどう?」
えっと小さく驚くと、うつむいていた顔を上げて、彼女を見た。
一通り桐子が話し終えると、桜はなんとなしにそう提案してきたのだ。
「あ、もちろんお金はいいよ。ただのおせっかいだもの。桐子ちゃんの塾がある日、時間は塾が始まるまで」
それと、塾をサボるのは今日が最後ね。と付け加えると、例のいたずらっ子のような笑顔を見せる。
今度は、カチンと来る事はなかった。むしろその笑顔を見て、正直に嬉しいとさえ思った。
もちろん桐子は、嬉しいと思う気持ちを抑えて、見ず知らずの人にそこまでしてもらうのは悪い。と一度は断った。今日会ったばかりの彼女に、既にコーヒーとケーキをご馳走になってしまっているのだ。それから更に家庭教師だなんて……さすがにそこまでお願いするほど桐子も、あつかましい性格ではない。しかし、最終的には桜に押し切られてしまうことになる。
「放っておけないのよ」
真剣な表情で、しかし優しく紡がれたその言葉は、桐子に有無を言わせなくさせるだけの不思議な力があった。