(1)
思い出すこと。
小さな喫茶店。
洋楽のBGM。
微笑む彼女。
いつも決まって、カフェオレを頼んでいた。
たまには違うもの注文したら? って言うと、
このふんわりした甘みが好きなのよ、って笑ってた。
――Dear my god.
こんにちは、ご機嫌いかがですか?
本日はお日柄も悪く、もうそろそろ雪でも降るかな、と思わされる寒空です。
えぇ、本当に、まったく。
……一つ、訊きたい事があります。
世界人類皆平等、とはアナタが掲げた理想ではなかったか?
少なくとも私には、そうだとは微塵も感じられません。
まぁ皆平等でなくても、この際いいという事にしておきましょう。
でもせめて。
もう少しだけでも私に
「スウガクテキシコウ」に対する「ユウシュウナサイノウ」を授けて欲しかった。
そう思うのは、贅沢な事なのでしょうか?
「――三角形の二辺とその間の角が等しければ?」
「あぁ、なるほど。△ADEと△CEFは合同……」
さりげなくヒントで誘導してくれたお陰で、桐子はなんとか、問題を先に進める事ができた。手に持つシャーペンを、テーブルの上に開けられた問題集とノートの間で忙しなく行き来させつつ、頭ではこの先の手順を思案している。
生まれつき人にはそれぞれ、合う、合わないという物があるが、桐子は特にこれ、数学が大の苦手である。何故苦手なのか? と訊かれても、そんなのは知らない。とにかく苦手なのだ。それこそ数学の問題集を二ページやれと言われるよりは、得意な国語の問題を十題解けと言われるほうがよっぽどマシ。と感じるくらいに。
「……そう、それでだから、辺ADとCFは等しいでしょ? だからここで、『証明終了』」
なるほど、と思いながら、桐子は言われたとおりにノートに書き加えた。図形の証明問題は考える事も多いけれど、書く量も多いので大変だ。とりあえずは一問クリア。
ふぅっと軽く息をつくと、彼女は目の前の人物へと視線を泳がせた。
「なぁに、桐子ちゃん。一問でもうダウンなの?」
呆れた顔でこちらを見返してきた人物は、どこからどう見ても高校生だ。その証拠に、セーラー服に身を包んでいる。『高校生』と思うのは、桐子自身が中学三年生で、目の前の彼女がその自分よりも明らかに年上だと思うからだ。ついでに言うと、桐子の知る限りセーラー服の中学校も高校も、この近辺には存在しない。おそらくもうちょっと都会に出た辺りにある、私立高校かどこかだろう。
胸ぐらいの高さで切りそろえられた黒髪が、優しそうな瞳によく似合う少女。彼女――桜は、桐子の家庭教師だ。
家庭教師といっても、桐子の両親も友人も、おそらくこの事を知らないだろう。桜は桐子から代金を要求したりはしなかったし、第一、勉強している場所自体も『家庭』ではなく、市内にある喫茶店である。
一番妥当な表現は『友達』と言ったほうがいいのかもしれない。
それでもやっぱり、桐子にとって桜は先生だし、桜にとっても桐子は生徒なのだろう。
放課後の家庭教師は、ここ数週間、二、三日毎に行われていた。
「ちょっと休憩~」
急に体の力を抜くと、桐子はだらんと問題集の上に上半身を埋めた。手に持っていたシャーペンが、ノートの上を転がる音が聞こえる。そうして目を閉じてしまうと、喫茶店のBGMと遠くの雑談だけが耳の中を支配する……筈なのだが、
「そう言って、いっっっつも休憩時間の方が長いんだから。さぁ、さっさと起きる!」
ぐいっと前方から両肩を持ち上げられて、無理やり上半身を起こされてしまった。あぁ、せっかくの至福の時間が……。
だるそうにテーブル上を眺める桐子の前で、カフェオレのカップからシャーペンに持ち替えた桜の右手が、問題集の上で動いている。
「次の問題。ハイ、さっさと解く!」
問題集上の一問にシャーペンを押し当てながら、凄むような視線を桐子に浴びせてくる。もちろん、本気で凄んではいないのだが、この眼で言われると、どうにもやらなきゃいけない気がしてくるから、不思議だ。
「はいはい……」
だるそうに一言そう言うと、テーブルの端っこまで転がっていたシャーペンを、もったいぶった動きで右手に取った。