その白い笑み
毎日登ってるけど、慣れると言う事は無い。
押し付けれた役目と言うのはとても気に障るものだ。
それに、今日も男に勘違いされた。
こんな日は一層この階段が煩わしい。
けれど、エレベーターは使わない。あれほど嫌な物は無い。
扉の向こう側に部屋が下りて来るまで待つ間はまだいい。
誰かがいても自由に距離を取れる。
あの密閉空間に閉じこもって、誰かが入ってこないかと、
三階につくまで常時危惧しなければいけない。
もしも入ってきたりしたら、それこそ吐いてしまいそうになる。
そうでなくても、病院の匂いに参っているんだ。
古い病院に立ち込める、病院食と病人の息の匂いに頭はくらくら、
半分ほど機能をそがれているんだ。
もともと悪い頭がさらに悪くなる。
自分の格好に看護婦は強い目線を向ける。
自分の歩き方に、自然と滲み出る態度が語る人のなりに、
入院患者の眼が出て行けと叱り付ける。
足元を引きずる様な淡い茶色のズボン、同色のカッターシャツ、長袖。
ショートヘアだけど、目を隠すくらいの前髪はある。
見たくもない鏡に今日も映っていた、真っ赤に染めて苛めた髪の毛を、
そう言えば昨日の喧嘩で強く引っ張られた。
憎たらしい名前も知らない、
同年代の女の顔を思い出して、右手の手提げ袋を強く握った。
ようやく目的の部屋に到着したらしい。
扉の脇に見える名札は一つ。
幼馴染のフルネームが、昨日と同じ位置に、
同じ文字で仕事を続けていた。
扉を開けて個室に入る。
いつでも彼女は起きている。
自分とは正反対の髪の毛だ。
ベットに座って窓を開けて、生ぬるい夏の風を入れる。
残念な事に、いや、彼女はそう思っているのか分からないけれど、
愚かなほど都会の風が、
余りに不釣合いな汚れた空気の匂いを、彼女の病室に満たしていた。
いつものように。
吹き込んで来る風に僅かばかりの揺れを見せる流麗な黒髪の先が、
ベットになだれて白と鮮明なコントラストになっていたけれど、
やはり自分にはどこかぼやけて見えた。
うす青い寝巻きに身を包んで、彼女は窓の外から自分に眼を移す。
「こんにちは」
毎日あっているのに、他人行儀な挨拶を毎日交わしているんだ。
「こんにちは」
同じように挨拶をして、手提げ袋を渡す。
中には代えの衣服と、
彼女が要望したと言う、数冊の本が入っている。
ああ、それと、珍しく『私』に頼んだ物が一つあった。
手帳だ。
私に選んで欲しいと、何時になく必死で頼んでいた。
彼女はそう言う事を、つまり、彼女が直接私に物を頼むと言うのを、
私が面倒に思う事を知っている。
こうして毎日、
家族の代わりに病院に通う事事態、面倒に思っていると知っている。
大体、私はこんな事をするような人間じゃない。
中学に入る前までは、頼まれなくても毎日通っていたけれど。
ただの幼馴染ではなかった。
「手帳、買ってくれたんだ。ありがとう。ふふ、面白い」
手帳の表紙に付いている渋い顔のおじさんを見て笑った。
中学入学以前の記憶には、彼女が一緒にいない時間の方が少ない。
こうして微笑んでいる時、私が笑っていなかったことなんてなかった。
けれど、珍しいことでは無いはず。
ただの幼馴染では無いけど、
絆の強さは、仲の良い幼馴染のレベルに止まる。
普通でないのは、両方の環境だ。
「この手帳、買ってもらったこと内緒にしてね」
言われなくても、誰かに話す機会なんてないと思う。
頷いてみるけれど、同意したと言う気にはならなかった。
彼女は幼い頃から、自宅よりも病室にいる事の方が多い。
自然、自分が彼女と共にあった時間も、病室の中で流れている。
小学校を卒業してすぐ、
彼女は地元のこの町から遠く離れた大きな病院に移った。
ここだってそれなりに都会で、設備はかなり整っているだろうけれど、
それでも足りない病気だから、移らざるを得なかった。
高校に行く歳になり、彼女が帰ってくるまでの間、
自分は世間に言う所の落ちこぼれ達の渦に飲み込まれる。
入学はしてみたものの、予想されたとおり学校は早々に中退した。
蛍光灯に集まる虫の様に、
私は暗がりにたむろする腐った眼の人間に混じった。
こんな私に頼むのは、彼女の家族だって嫌だったはずだ。
頼みにきたときの彼らの顔が嫌がっていた。
仕事で毎日は通えない彼らは、幼馴染の真剣な指名に負けて、
私のもとに通って欲しいと頼んできた。
どうして彼女がこうまで私にこだわるのか、
正直言って分からないし、煩わしいとも思う。
けれど、私みたいな半端な奴は、
誰にしても変わりなく本物の真剣さに歯向かえない。
怒鳴りつけて逃げようとした私の前に土下座した彼女の父親が、怖かった。
「ごめん、前に言ったけど、明日から一週間くらい来れないから」
落ちこぼれから用事が入っている。
少し遠出しなければならない。
「うん、ありがとう」
代わりを隣りの人に頼んでいると言い渡す。
「これから出発しなきゃならないんだ。
いつもより早いけど、今日はこれで」
彼女は白く微笑んだ。酷く白かった。
肌も、眼も、笑い方も。
ふと、いつか見たことがあると思ったけれど、いつだったか分からない。
「じゃあ」
扉を閉めて、階段へ向かう。
自動販売機と硬いソファーが置いてある、
飾りのような休憩ロビーに、エレベーターの入り口がある。
自動販売機の横に公衆電話、
その隣りにゴミ箱、そして落し物を入れるふたつきの箱。
いつも三枚ハンカチが入っている。
中身が増えた事は無いと思う。
鍵もついていない。
階段を使って一回へ、ガラス作りの重たい扉を開けて、病院から出た。
なのにまだ匂いは消えていない。
周りと違う匂い。
打って変わって雑音だらけの町の中へ、駅を目指して歩き始めた。
いつだったかな、あの顔を見たの。
電車にゆられる体が、やる事をなくして眠りを誘う。
私は彼女との思い出を辿っていた。病室で誕生会をして、
病室でクリスマスを騒いで、
でも、そこで白い笑いは見たことがないと思い至る。
そうだ、外に出てた。
内緒、内緒、言い合って、口に指を当てて笑ったんだ。
小四の夏休み、
前の年も次の年も、
病室で見た花火を、こっそり抜け出して病院の屋上で見た。
会場は近くて、破裂した火の玉が震わせた空気が、
私と彼女を打ったのを思い出す。
どぉんと、内側で大きな手を叩かれている様で、彼女は嬉しそうに笑っていた。
「私は女の子だけれど、君にのことが好きになった。
面白いでしょう。
私が死ぬ前に、返事をしなさい。約束ですよ」
最期の花火が弾けた時に彼女が言った。
私は黙ってる。
今も黙ってる。
聞こえないように、
彼女はいったんだと思うから。
でも、私は見えないように、頷いてしまった。
聞こえていたけど、聞こえないって聞き返した。
「内緒」
聞こえたでしょって、彼女は聞き返した。
頷いたのが、見えたかもしれない。
花火の粉が落ちていく光で。
「内緒」
口に指を当てて、白く微笑んだ。
とても、痛いことになってしまった。
両手足に手錠、ベットに鎖でつながれた姿なんて、
AVでも中々見られる光景じゃない。
落ちこぼれの絆なんて、所詮はこんな物。
抗争に負けたかなんだかよく分からないけれど、運悪くも私が生贄になって、
こうしてどこか知らないけれど、
暗いコンクリートの壁に包まれた部屋に監禁されている。
もう二日もこのまんま、どうにか小さい窓から外が見えた。
一昨日まで通っていた病院がある街と比べて、明らかに緑が多い。
それになんだか見覚えのある道があった。
どうやら、目的地の駅を出て、人気のない場所で唐突に襲われてから、
違う町には移っていない様子だ。
私が選ばれたのは、これが理由かもしれない。
何を嫌がるわけもなく、大人しく繋がれて、仕方がないと諦めて、
元々異常な精神がどうこうなるにも遅すぎる。
けれど、三日目の朝にやっぱり正常だったなって、
感じてしまう事がおきてから、私の心にどんどん涙がたまっていった。
ただ、自転車が通り過ぎただけなんだ。
二人乗りの自転車。
そうして動く人という物を、久しぶりに見た気がする。
食事を持ってくる私と同じ様な人間は、動いているように見えなかった。
ぎぎぎと、音を立てていた。
気が付いたら、
必死で鎖を引っ張って自転車が窓の枠に消えるのを怖がっていた。
知らない内に手錠で擦り傷が出来る。
血が滲んでいる。
そうして、
消えた自転車をまだ目で追おうとして、
唐突に、今の私の姿を見たことがあると気づいてしまう。
いつもいつも、私は見ていた。
体に悪い都会の風を部屋に入れて、こんな風に外を見る人間を知っている。
そう言えば、私が扉を開けた時、昔も今も、幼馴染はいつだって窓の外を見ている。
「やっぱり、出たいよね」
久しぶりに声を出した。
けれど、その言葉がどれだけ愚かな物か、すぐに分かってしまった。
扉を見た。
銀色の取っ手を見た。
「動いて」
それが核心。
「動いてよ」
小さくしか、声は出ない。
こんな鎖、何てことは無い。
たかだか三日。
同い年の彼女は、
生まれてからこっち、ほぼ全ての時間、ベットに繋がれていたんだ。
点滴なんて言う、
馬鹿らしいくらいか弱い鎖に付いている手錠は、命を掴んでいるんだ。
外に出たいとか、そんな事じゃない。
開けて欲しい。
エレベーターの中に誰かといるだけで、私は吐き気がするのに、
たった一つの声を、この部屋に満たして欲しいんだ。
こんにちは。
私は、凄い事をしていた。
彼女にとっての私は、好きだとか、友達とか、そんな優しい物じゃない。
彼女が私に向けている感謝と、大切さは、きっと怖い。
凶暴だ。
彼女と私を壊してしまう位、怖い。
五日目の朝に開放された。
足が震えて、中々上手く歩けない。
部屋はやっぱり、五日前に電車を降りた駅のすぐ近くにあった。
携帯の電源も、五日前から切られたまま。
入れてみると、メールが何通かたまっている。
二日前に彼女の家族からの連絡、調子が悪いとあった。
痺れたような足を無理矢理走らせる。
すぐに転んで、膝から血が流れた。
ズボンも破れてしまう。
構わずに走った。
電車はすぐに来る。
転がり込むように乗って、座り込んで、
初めて額からも血が流れている事に気付く。
右腕で拭うと痛みが湧き上がった。
顔をしかめながら携帯を握る。
「あの、調子が悪いって」
彼女の父親に繋がった。
少しずつ悪化しているという。
もう、メールがあって二日立っていた。
「用事で、ごめんなさい、本当に」
いつもと違う声に、彼は戸惑っていた。
間が悪かったんだと言ってくれる。
とても嫌な気分だった。
携帯を切る。
なんで、白く笑ったんだろう。
そんな風に微笑んで、思い出して欲しいと叫んだんだろうか。
聞こえたよ。
叫び声は届いてる。
思い出した。
約束を守らなければいけないんだ。
だから、少し待ってよ。
思い出して欲しいといって、白く笑って、
そんな事をしなくても、覚えていると信じていたんだ。
だから彼女がそんな風に笑ったら、あと少ししかない。
分かってる、ただの可能性で終わらない。
ただの幼馴染じゃない。
手段は何を選ぶ。
携帯、彼女は持ってない。
電車の窓を開ける。
馬鹿だ。
「好きだよ」
叫び声にもならなかった。
今、彼女がいる部屋の窓は開いてるかな。
十分くらいして、携帯にメールが入る。
電車は走って走って、結局遅すぎる時間に私を街へ到着させた。
ディスプレイに危篤と表示された携帯は、次の言葉が入る前に叩きおった。
病院についた時には、もう落ちついていた。
家族は泣く事になれて、鼻をすすりながらそれぞれに動いている。
彼女の命を掴んでいた手錠は、鎖の針を腕に刺したまま、
鍵を開けて放してしまった。
私は泣かない。
泣いていない理由がわからなかった。
うな垂れるでもなく、けれど動けもしなかった。
休憩ロビーの硬いソファーに座って、何もしないでいる。
看護婦の一人が落し物の箱に、
久しぶりの新人を入れるのをぼうっと見て、跳ね起きた。
その手帳には、見覚えのある渋いおじさんの顔がついている。
透明な蓋を開けて、手にとった。
その場で開く。
一ページ目、五日前、つまり私がこの手帳を渡した日の日付と共に。
今日はまだ。
明日はきっと。
次のページ、同文。
次のページ、同文。
四ページ目、つまり昨日の日付のページ、同文。
明日はきっと、が震えている。
水滴の跡が重なっている。
指が止まった。
また動けない。
こんな手錠も鎖も見たことがない。
一ミリも動かさまいと、彼女の涙で出来た鎖が、私を捉える。
それでも、今日のページを開かなければいけない。
手帳が誰の物か知っているのは、私だけだ。
倒れこむように、この手帳は落し物の箱の中へたどり着いた。
例えそこに、
同じ文字の列があるだけと知っていても、私は見なければいけない。
指が紙に掛かる。
様子のおかしな私を見つけて、彼女の父親が近づいて来た。
「彼女、何か書いてましたか」
手帳を隠して聞いた。
「いや、分からないよ。
私たちが来れたのは君にメールを入れたのとほぼ同時だ。
看護婦さんも、ナースコールがある前には誰もついていなかったそうだよ。
何か有るのかい?」
「いいえ」
彼がその場を去ってから、私は崩れ落ちた。
誰にも見られずに書かれたページの上に、力なく落ちていく。
彼女が最期まで守り通した、約束の上に。
五ページ目、日付と共に。
聞こえたよ。
公衆電話の横、落し物の箱の下、私はゴミの山のような格好で泣いた。
彼女の声が耳鳴りに聞こえる。
白い微笑が、潤んだ視界に揺れている。
内緒、内緒、口に指を当てて、白く微笑んだんだ。