錦鱗~昭和不思議譚~
この作品は史実を元にして作られたフィクションです。実在の人物・団体には一切関係がありません。
大正八年から帝国美術院に拠って毎年一度開催される「帝国美術院展覧会」は略称を帝展と謂い、各会派出身の美術家の他に無名の新人をもまた、数多く輩出して来た。
そして昭和七年のこの年、若干十五歳の女学生が入選を果たしたのは、有史以来の快挙であると新聞各紙を大いに賑わせる事となる。
彼女の作品『錦鱗』は“生けるが如し”と観る者に絶賛されたが、詳かにはされていない。
※※※※
凡そ油絵は日本画よりも、水面を透けた様に描くのは酷く難しいものだそうだ。
だがこの画はどうだね。
清き水を得て魚も色彩を翻し、今にも跳ね上がらんばかりじゃないか──
西村子爵は至極ご満悦だったけれども、田安亮は生まれてこの方油絵なぞじっくり観た事はない。はあ、素晴らしいですね──と精々気合いを入れて相槌を打った。
「これを十五歳のお嬢様が描かれたのですか」
「とてもそうは思えないだろう? 手前味噌になる様だが、姪の嘉久子は天賦の才がある。美術界には幾らか交誼があるのだが、『人を描かせれば魂を得、風景を描かせれば山野の息吹を知る』と、既に昨年辺りより衆目を集めているそうだ」
壁に掛けられた絵は大きく、亮が両手を広げればわずかに手の方が余る位。カンバスと呼ばれる画布の面、斜めに弧を描く水の飛沫に、太った背をくねらせる魚は錦鯉だろう。
庶民の彼にとって魚など、食卓に並ぶ鰯や秋刀魚といった大衆ものばかり。が、以前彼は仕事で出向いたさる邸宅の主人に戦果として現物を見せられた事がある。丁度、今日の様に自慢気に。
大正三色と名が付くそれは、亡き夫人が生前好んで飼っていたという。白を基調に朱に近い赤、黒と彩る何とも派手な魚だ。
「今度の帝展にも錦鯉を題材にするらしいのだね。いやまだ入選すると決まったものではないが、儂は鼻が高うてならん。済まぬな。つい誰かに見せたくなって、ここの所来る者全てに同じ事をしてしまう」
金満家や似非風流人によくあるのが己の蒐集物の自慢だが、少なくとも西村はまだ増しな方だと亮は思った。
未だ華族だの格式だのと喧しい世にあって、通い庭師風情にも普段から気安い。気安過ぎてこうしてやたらと話し掛けては彼の庭木の剪定という仕事を度々遮る。十月に入り松は成長が止まった時期を狙って、枝抜きというものをしなければならない。随分とこの館には松が多く、ただでさえ亮一人の手には余るのだ。愚図愚図していると次の段階に移る前に冬が来てしまう。
長引かせればその分手間賃を貰えるにしても、真面目に稼ぎたいのが彼の性分なので正直辟易もする。だがそれはさておいて、この画は曰く言い難い迫力があるとわかった。同時に何やら空恐ろしい気分になる。
素人でさえこうなのだから、趣味人で知られる子爵などが、惚れ込むのも無理はない。
一礼をして彼は扉からではなく、子爵の応接間に大きく光を取り込む露台窓から中庭に戻って行った。呼ばれた時と同じ様に。
本来用事があった黒松の元に戻ろうと足を踏み出した時、木陰に人の姿を認めておや、と思った。
女学生風の結髪に濃色の袴。凛と引き結んだ紅唇は形良く白皙に涼しい眼差し。
歳の頃は十六、七に見えた。梅の花が綻ぶにも似た、気高い顔が印象に残る。険しく眉をひそめていなければ、もっと美しかっただろう。
──もしかすると、あれが嘉久子様だろうか。
使用人にしては育ちが良さそうだし、着ている着物も上等に見える。内心首を傾げていると、娘は子爵の部屋を睨んだまま、微かに唇を開けて呟いた。すぐ傍に亮がいるとも知らずに。
「……あんな、駄作を飾ってしまわれるなんて」
屈辱に打ち震える声音で吐き捨てる。
亮が呆気に取られている内に、彼女は袴を翻して何処かへと駆け去って行ってしまった。
「何だ、今の……」
──これが、田安亮が目にした先坂嘉久子の絵画にまつわる、何とも奇妙な「事件」の始まりであった。
※※※※
昭和の初頭と言えば主だったものとして、軍部の上海進出及び政党政治の終焉、隣国満州への干渉、共産主義への弾圧などが語られる。
一方で国内では恐慌と呼ばれる不景気の内にそれなり近代化も進み、また文化も様々に隆盛を誇った。帝展もその一つだ。
広く一般から来歴の如何、男女年齢の別を問わず作品を募ったという開放的な公募で、毎年世に名作家を輩出して来たとして知られる。上野の東京府美術館を会場とし、現在は日本画・西洋画・彫刻の三部門にて、ちょうどこの十月辺りに開催されていた。
「三歳の頃より絵筆を持つた神童と名高く、大人になつた今も天稟は開花するばかり。日本画家・先坂康堂の孫娘としても是非とも此処は、サラブレツドの面目を施して貰ひたきものである……」
「何だよ、それは」
何度来ても馴染めないカフェーの雰囲気に首をすくめる様にして、亮は目の前の煎茶を啜った。小柄痩躯にして余り女性に惚れられる事などない彼は、この店の女給ヤエ子にすっかり気に入られて困惑していた。
「文化欄に載せる記事としては上々だ。亮さんは知らないかもしれないが、帝展っていうのは中々ごたついた経歴があってな」
そもそも帝展は前身を「文展」と謂った。当初の美術界の巨頭、日本美術協会「旧派」と仏蘭西帰り留学画家を中心とする「新派」との対立が深まり、二派の調停の為に作られた展覧会が文展である。
しかし結局対立はそのままに、多数の美術団体が更に乱立し審査にも影響を及ぼした為、中立として帝国美術院が政府に拠って結成された。此処に初期文展時代は終わりを告げ、帝展時代の幕開けが到来し現在に至る。
「祖父さんの康堂は『無鑑査』枠で出品する程の大物だ。孫娘ともなれば、同様まで行かずとも選外という事にはならんだろう。史上最年少の受賞、取り上げれば注目記事になる事は間違いない」
「俺はそういう事情には全くの不案内だが、先坂のお嬢様は何派なんだ」
「特に何処に属しているというわけではないらしい。康堂は『あの』横山大観と同門で、狩野芳崖の流れを組んでいる。尤も、康堂の作風も大観とは似ていないがね」
「『あの』?」
「文展の審査員を外された経歴があるのさ」
「やっさんが食いつくのは其処か。しかしお嬢様で画家なら、祖父さんから学んでも良さそうじゃないか」
横山何某の作風を亮は知らない。ただ嘉久子の細かな描写、柔らかい主線や透明感が瞼に蘇る。
「よくぞ聞いてくれた」
煙草をくわえたままで伊村が息巻くものだから、吐かれた煙にむせてその夢想はさっさと消し飛んでしまった。
「ああ、すまんすまん。その辺の事情はよくわからん。公にされていないが、子細があるらしいんだ。──つまり此処で亮さんの出番というわけさ」
「真逆仕事を頼もうなんて料簡じゃあないだろうね」
「そりゃあ決まっているだろう。仕事さ」
湯呑みを置きがてら彼はちらりと傍らを見て思い切り渋面を作った。理由は伊村の話か或いは傍らにある、破壊的な腕前を持つヤエ子お手製の草餅か判別しがたい。
「厭だよ。あのお嬢様は明らかに何か立ち入っては不可ない様子だったんだぜ。酷く思い詰めたってえ顔色でさ」
仕事先で以前偶々とある事件に巻き込まれ、居合わせたこの男に協力してからというもの、本業の合間に亮は調査員の真似事を頼まれる様になった。通い庭師という仕事は案外お屋敷の内情を見てしまうもので、其処を買われたらしい。
とは言っても、いつも引き受けるわけではない。むしろ大抵の依頼は断っている。
都民日報という地方新聞社の記者である伊村は、早い話がゴシップ専門だ。一流の美学があるらしく、記事にするものは選んでいると本人は言う。それでも他人が抱えている事情を好んでほじくり返すほど、亮は悪趣味でも暇でもない。
なのにどういうわけか、行く先々で事件に巻き込まれてしまう。博識で豪胆なこの男に頼る結果、体のいい情報提供者になってしまっている感があった。
「イヤイヤ、難しい事は何もない。ただその嬢様の悩める胸の裏を聞いてあげさえすればいいんだよ。打ち明けてあちらはすっきりする、こちらは飯の種に有り付ける。一石二鳥というものだ」
「そんな訳あるかい!」
「とまあそれは冗談としても、画の謎は気になるねえ。見事な画だったんだろう? なのにどうして嘉久子嬢は『駄作だ』などと言ったのだろうね?」
「知らねえが、大方芸術家などという人種はそんなものじゃないのか。己が矜恃の為せる業、凡人にはわからん理由があるんだろう。兎に角、今回『も』断るよ」
「何だいやけに意固地だな。臆病風にでも吹かれたか」
「挑発になぞ乗るものか。本当にあれは厭な感じがしたんだって」
強引に振り切って、奢りだという勘定分の銭をテエブルに置いたというのに伊村は機嫌を損ねなかった。
「お前さんはその内、きっと自分から俺に協力する様になるよ。……根っからのお人よしだからな」
「執拗いな」
「まア何かあったら遠慮なく相談してくれ。いつでも歓迎するよ」
何せ先坂の画は曰く付きだからさ──
くゆらせた紫煙の隙間から伸びた手が置いてあった小銭を掴み、そっと亮の袖に落とし込んだ。
※※※※
曰く付きだという言葉の意味も知りたかったし、自分が『厭な感じだ』と言ったにも拘らず理由を追及されなかった点で、伊村が情報を出し惜しみしているのはわかっていた。
どうせ協力しなければ教えては貰えないだろうから、敢えて聞かずにいるもまた分別。
と強気をかこっていた亮だったが、三日と待たずにそれは間違いなのだとわかった。
毎日来るのだ。嘉久子嬢が庭先に。
「あんなもの、早く燃やしてしまわなければ」
「次の画を完成させたら、すぐに裂いて」
「代わりにあの人の画を置けるものを」
まるきりの他人ならば遠慮もあろうが、夫人の姪ならば血縁者だ。
「屋敷に上がって、子爵ご本人に直接仰っては如何ですか」
余りに毎日様子を伺いに来るものだから、気味が悪くてついに話し掛けてしまった。
嘉久子は周りに人がいるとはよもや思わなかったらしく、びくりと跳ねてから金縛りにあった様に固まった。
「……何方?」
「あ、すいません。俺は庭師の田安といいます」
木々を掻き分けて娘の視界に入る場所まで歩いていった。
「別に立ち聞きするつもりはなかったんですが、毎日来られているご様子なので」
「……見ていたのですか」
「はあ、聞いてしまっていたと言いますか」
白き面を紅く上気させて乙女はやや暫く俯いてはいたものの、やがて思い切ったのか昂然と眼差しを上げた。
「今は未だ、出来ませんの。あの人の画が完成するまでは」
「あの人?」
「林太郎伯父様の肖像画ですわ。画を差し上げる約束を致しましたの」
「はあ……」
今描いている画とあの魚の画が、何の関係があるというのだろう。
「画がなければ標を見失ってしまうのですわ。ですから駄作と雖も、伯父様に持っていて頂かなくてはならない。でも、飾ってはいけないと申し上げましたのに」
物憂げな双眸は理知の光を湛えていて、狂気を思わせるわけではない。
だからこそ亮は怖気を感じて、「さ、然様ですか」と早々持ち場に逃げ帰ろうとした。
「あら、貴方」
お待ちなさい、と呼び止められて今度は亮の方が恐る恐る振り返る。
「あの木を剪定しているのね。だから私に気付いたのかしら」
不可思議な言葉の数々に唖然と続きを待ったがそれ以上の説明はない。
「田安さんと仰った?」
「はい」
「お願いがありますの。伯父様に私の事は内緒にしておいてもらえるかしら? 展覧会に没頭していないのが知れたらお叱りを受けてしまうわ」
ぼんやりと頷く亮に「くれぐれも」と念を押して、娘は優雅な足取りで静かに去って行った。
「嘉久子は家内と仲が良くてね。私の知己の影響で油絵を始めた家内から、技法を教わったのがきっかけで洋画家への道を進んだのだ」
子爵から姪御の自慢話を引き出すのは、天気の話をするより簡単だった。
五十路目前にしては整った張り艶のある外見をしている西村子爵だが、半年前に一人息子を戦争で亡くしており、今は少数の使用人と共にひっそりと暮らしている。
夫人には早くに先立たれ、優秀な令息の成長が生きる糧だった氏にとってはこの上ない悲劇だった。事実、一時期は幽鬼のごとくやつれ酷く衰弱していたものである。
庭師として数年来の付き合いの亮も当時は、もう死相が出ていると心を痛めた。しかし姪の事を誇らしげに語る今の様子に、何処にもかつての悲嘆は見られない。
立ち直るには些か早いと驚きつつも、氏なりに姪の嘉久子の成長を見守る事で張り合いを取り戻したのかもしれない──そんな風に思った。
ともあれ、此処まで嬉しげに語られるものを「駄作だから隠しておけ」と言うのは酷であろう。
「帝展が終わったら、私の画を描いてくれると約束していてね……」
嬉しそうな子爵の言葉に、つまり彼女は順序を逆にしてしまっているのだと納得する。
適当な頃合いを見計らって居間を辞去し、仕事に戻ろうとすると背後で水音がした。
器の中身を零す様なものではなく、叩きつけ波を立てる音が。
──この庭に、今も池などあったろうか。
件の錦鯉はもういないと、聞いたばかりだ。
不思議に思って振り返り、愕然とする。
窓越しに見た室内の、こちらに背を向けて佇む、未だ画に魅入る子爵の肩口。
巨きな、鯉が。
──そんな、莫迦な。
水面の如く透けた身を躍らせて、魚が弧を描き周りを廻っていた。
※※※※
「だから曰く付きだと言っただろう」
明くる日の夜、またも同じカフェーに呼び付け己が見た怪奇をまくしたてると、伊村はしたり顔をして頷いた。
先坂康堂は掛軸をよく描いたが、花を描けば日を経て散り、猛虎を描けば唸り声を聞くと、まことしやかに噂をされて来た。
死人が出た呪われたとまではいかなくとも、数寄者は喜びその価値は鰻昇り、と同時に世間は「呪われた才能」と騒ぎ立てたのだという。
噂は尾鰭がつくのが世の習い、その内に政財界の大物が不審死を遂げ、遺体の傍に彼の作品があったとも。
手にすれば必ず不幸になる、或いは巨万の富を得られるなどと、いつの間にやら伝説の域に達していた。
そのせいもあって、不審のかどで警察に呼ばれる事も一再ではなかったらしい。
「最後に騒動が起きたのは大正中頃の話だ。康堂は元々己の異能を疎んでいたらしく、この騒ぎを機に隠退を考えた。実際、翌八年の第一回帝展に公表された『鬼焔』を最後に、作品は出されていない」
「そういや子爵は嘉久子嬢が祖父ではなく、伯母君に画を学んだと言っていたよ」
「康堂の娘か。令息の幸宣は製鉄会社に務めるごく普通の男だそうだから、そうかもしれないな。一代置いて血はまた蘇りぬ、か」
頷きつつ亮は、どういうわけか自分の話に釈然としないものを感じた。何かを見逃している様な記憶のむず痒さを。
考えてふと、幻だと嗤うでもなく、さも当り前の様に受け入れる伊村をねめつけた。
「やけにあっさり言うんだな。化生幽霊の類は信じないんじゃなかったかい?」
「勿論信じちゃいないさ。巷でそう『曰く』が付いているだけの話だ。だがこの際、亮さんが白昼夢を見ようが見まいがそれは大した重要じゃない」
嘉久子嬢の画から魚が飛び出していた、という証言が大事なのさ──太い笑みを見せて伊村は、手にしていた麦酒を口に運んだ。
「冗談じゃあない。俺に狂言の片棒を担がせる気か」
「人聞きが悪いな。錦鯉が空を翔んでいるのを見たのは事実だろ」
「莫迦莫迦しい。今や鉄の函が地下に走る時代だぜ。俺は信じないし、口が裂けても『見た』なんて言うもんか」
「言っているじゃないか、此処で。大体が幻幻とお前さんは言うが、気のせいだと証明もしきれまい?」
「煩いな。兎に角、あれは単なる見間違いに間違いないさ」
「俺は何かある方に賭けるね。違うというのなら一杯、いや汁粉でも奢ろうじゃないか」
酒も煙草もやらない亮は甘味には目がなく、伊村もよくそれを承知していた。
「本当だな」
「ああいいさ。その代わり、俺が勝ったら酒を振舞ってもらうぜ」
「わかった、証明してやるよ。結果、飯の種がなくなっても文句は言わないな?」
持っていたガラスコップを掲げて禿頭の記者は笑う。
「つまりは契約成立だ」
「は──い、いや。ちょっと待った」
「江戸っ子に二言はない、だろ?」
気付いた時はもう後には引けず、言葉を飲み込んだ。
勿論三代前まで東京住まい、根っからの下町育ちである。
大抵の場合、単純な亮はこんな風にして伊村の口先三寸に、あっさりと丸め込まれて仕事を手伝う羽目になるのだった。
※※※※
嘉久子は明くる日もやって来た。
今日で見掛けるのは一週間毎日、の割には子爵に会わずに帰っていく。
「あら、また貴方なの」
それはこちらの台詞だと、喉元まで出掛かった言葉を亮はしまった。
「そんなにお気になさるなら、どうしてあの画をお渡しになったんです?」
秋半ばの清々しい朝、冴え渡る晴天に木漏れ日の中佇む嘉久子は相変わらず苦虫を噛み潰した様な顔をしていた。
瀟洒な子爵の館には、大きさに似合わず常に人が少ない。偶に顔を見せてやったら喜ぶだろうに、どうしてこの娘は相も変わらず屋敷に入らないのか。
「私は、伯父様にはとても可愛がって頂いたわ。伯父様が心から愛された伯母様と、晋一郎兄様にも。……望みを叶えてやってくれと、頼まれては断れません」
「子爵の望み、ですか?」
「伯父様はお寂しいのです。愛するご家族を亡くされたがゆえに、私の画に拘っていらっしゃる。本当に、良いのかどうか判断がつきかねてしまって」
溜め息混じりに嘆く。
「へえ、何処が悪いのか俺には今一つわかりませんねえ。生きる張り合いが出来たのならいい事じゃないんですか」
梯子の上で鋏を動かし、松の葉を落としながら亮は笑って言った。
「いつまでも子爵が悲しまれていては、奥様も息子さんも草葉の陰でお嘆きになるでしょう。お嬢さんは頑張って画を完成させて差し上げれば良いんじゃないですかね。俺も、是非とも賞を取って頂きたいです」
嘉久子は日に焼けて溌剌とした亮の顔を、目を見開いて暫く凝視していた。
ややあってにっこりと微笑む。
「田安さんって、いい人ね」
「イヤでも、本当の事でしょう」
木々が騒めき、笑みをはいたままの嘉久子の顔が陰りを帯びた。
「こんな話をご存じかしら」
背筋を何かが這い上る様な感覚に、知らず亮は生唾を飲む。
「え……」
「明治のご一新を迎えて文明は開花し、昭和の現在に至っては街に常夜明かりが灯る様になった。江戸の昔にはもっと深かった闇は駆逐され、其処に棲む者達も消えてしまったかに見えるわ。でも、それは人間達の大きな勘違いに過ぎないの」
ふと気づけば、周囲は夕方の様に暗い。確かに今は、午を過ぎてはいないはずなのに。
傍らにある黒松の木だけが、やけに明るく光を放っている。
「お、お嬢さん……?」
「人が境界を引いているだけで、何処にでも入口はあるのよ。私の画が完成するという事は、つまり」
言いさして、彼女はふと笑った。
「……なんてね」
縛り付けられている様に動けずにいた、亮の身体はいきなり圧迫感から解放された。
「御免なさい。怖い思いをさせてしまったかしら」
いつの間にか周囲は明るい、元通りの庭に戻っていた。
「からかい甲斐のある人が来てくれて嬉しいわ。でも貴方、『好かれやすい』みたいだからお気を付けなさいね」
とても少女とは思えない口調で告げると、彼女は子爵の部屋に一瞥をくれて踵を返した。
「す、好かれるって……何に」
恐る恐るの亮の問いに答える事もなく、やけに古めかしい縹色の着物の袖を靡かせて。
※※※※
明くる日は朝から雨だった。その次の日も、時折小止みになりこそすれ、鬱々と長雨は続いた。
「今日も休みか……」
一人暮らしの六畳半、敷かれた布団から起き上がって、亮は雨戸をほんの少し開けて外を見る。
元来起き抜けから身体を動かして一日を過ごすのが始まりの彼にとって、雨ほど退屈なものはない。しかも余りに続けば大地は潤うものの、彼自身は飯が食えず干上がってしまう。
──今日で止めばいいんだが。
それでも実は、ある一点において安堵せざるを得ない。画の引渡しが遅れるからだ。
こんな湿気の高い日に絵を描きはしないだろう。出来ていたとしても、濡れては困るから渡せない。
嘉久子の言葉を真に受けたつもりはないが、やはり引っかかりを感じるのは彼自身が目にした光景のせいだろう。あの『幻』を機に何やら色んなものが曖昧にそこらに浮かんでいる様な、至極落ち着かない心持にさせられた。
──そう言えば。
布団を片付け、茶でも飲もうと土間に下りて鉄瓶に水を汲んでガスコンロに載せた。火を点ける。
──嘉久子お嬢さんについてやっさんと話していた時、一体何が引っかかっていたんだろう。
土間の壁をぼんやりと眺めてながら会話を反芻するものの、一向に思い出せない。やがて隣の世話好きなおかみさんがやって来たので、応対しているうちにすっかり忘れてしまっていた。
家の中の事を細々と片付け、何となくだらりと過ごしてあっという間に半日を終えた。雨がまた少し小降りになった夕方頃、本日二回目の隣家の訪問を受ける。
「亮さん、鰊の麹漬け好きだったでしょう。沢山作ったからどうかと思ってねえ」
清畠の細君は基本的にはいい人だ。
と同時に、迂闊な事を話せば数時間で周囲八町辺りまで広げ回る、という噂話の達人でもある。ちなみに旦那の方は寡黙で、亮は彼の方が好きだった。
「そう言えば、お向かいのほら、三上さん。息子さんが召集されてから一年になるんだったっけ? 随分と寂しそうでお気の毒だよ。亮さんもあの子とは仲良くしていたと思うけど。元気でやっているんだろうかね」
「はあ……大丈夫ですよ、きっと」
時折、こうして親切にするのも単に情報を拾いたいだけなのかもしれないとさえ思える。
「上の息子さんは息災らしいけど、何せ遠いもの。三男は随分と前に病気で亡くなっているし。これで昭次郎さんに何かあったら──」
昭次郎、とは三上の次男坊の名だ。一年前に兵役動員の赤紙が来て訓練に赴いた。現役終了まであと半分ある。朗らかな好青年で、少し身体が弱いのに何故喚ばれたのか今以て謎だ。
「何もありませんよ。縁起でもない事を言わない方がいいんじゃありませんか」
ぴしゃりと言い放つと、清畠の細君はうろたえたらしかった。
「ま、まあそうよね。ちょっと心配だったものだから、つい」
「鰊漬け、ありがとうございます」
精一杯の愛想笑いをして戸を閉める。溜息を付いて部屋に戻った。
不愉快は不愉快だが、あの老女自身の子供達は皆、家を出て久しい。寂しいのはどちらだろう。
尤も、嫁を貰うでもなくこうして男やもめに三十路を迎える自分に、他人の事はとやかく言えないが。
やっさんも俺じゃなく、清畠のおかみさんに協力してもらえば仕事が巧くいくだろうに──貰った鰊に罪はないと飯に載せ、沸かした茶を注いで掻き込みつつ彼は独り苦笑した。
ふと、箸が止まる。
──早くに。
思わず米粒を戻してむせた。
嘉久子についての話、違和感の正体がわかったのだ。
──子爵の夫人は、いつ亡くなったと言った?
早くに……そう、年数までは聞かなかった。
だが、知る限り亮がお屋敷に入る様になった頃には、もう夫人は亡くなっていなかったか。つまり、最長でも嘉久子が十歳辺りまでしか、学べなかった事になる。
──三歳から七年前後。
それであの様な画が描けるものだろうか。まるで、大人が描いた様な画が。
雨はすっかり止んで、夜空が顔を覗かせている。だが、暗い。
今日が新月であると、初めて亮は知った。
嫌な予感に矢も盾も堪らず外に出ようと、出かける支度をしていると扉を叩く音がした。
また清畠のおかみさんか、と苛立たしげにドアを開ける。
「何ですか、俺はこれから急用なんです! 明日にしてもらえませんか──」
「そういうわけにはいかないぜ、亮さん」
外に立っているのは伊村だった。
「……やっさんか。なら一声掛けてくれれば……」
言いながらも、予感が当たった様な気がして声が上の空になる。
「ああ、済まん。兎に角話は後だ。車に乗ってくれ」
「お、おい。だから俺はこれから」
「西村邸に行くんだろ? 連れて行ってやるよ」
親指で示した先に、道路に横付けした彼のフォードがあった。
「実は先坂の屋敷をこっそり張らせていた。……さっき、嘉久子嬢が完成した画を持っていったそうだぜ」
※※※※
「莫迦な──こんな日に」
慌しく彼が後部座席に乗り込むと、伊村はすぐさま車を発進させた。
今日ばかりは腸の位置がずれそうな乱雑な運転も、敬遠している場合ではない。
「さあな。もしかしたら何か、今日納める事に意味があるのかもしれん」
ガタガタと砂利道を跳ねる勢いで飛ばして、屋敷のある内藤町までの一時間余りが恐ろしく長く感じられた。
──闇はいつもよりも身近で、潜む者達が跋扈しそうな。
考えすぎだ、と亮は頭に浮かんだ考えを振り払った。
「西村卿!」
屋敷の表門は開いていた。中に駆け入り勝手口に回ると、扉を叩いた。
「済みません、田安です!」
夜というにはまだ宵の口なのに応答がない。
「仕方ない、入ろう」
伊村は素早かった。ドアノブに手を掛け回すとこれもまた鍵は掛かっておらず、即座に中に入り込む。
「誰か! 誰かいませんか?」
普段でも人少なな屋敷ではあるが、一階の廊下を進んでも誰にも会わないとはどういう事だろう。
「もしかすると、これは拙いぞ……」
流石に伊村の顔からすらも余裕の笑みが消えている。
「──子爵の部屋に行こう」
凍りついた表情で亮は走り出した。
「あ、ちょっと待て!」
炊事場、玄関ホール、談話室と通り過ぎる内に彼はある事に気づいていた。
この屋敷は人がいないのではない。
『現実の気配がない』のだ。
その証拠に、あちこち走り回っても音は聞こえず、灯火の一つも上がっていない。まるで生活そのものが何処かへ行ってしまったみたいに──
正面から入ると一番奥に位置する子爵の部屋に近づくと、嫌な予感は愈愈確信へと変わった。
また、水音が聞こえる。扉の中から。
「西村卿……!」
扉を開けた亮達に向かって、津波の様な大量の水が襲い掛かって来た。
「うわああああああぁぁぁ──!!」
二人の絶叫が響き渡る。
──呑まれる!
迫り来る奔流に為すすべもなく、死すら覚悟して亮は目を閉じた。
その時。
「……駄目ですわ。その様におからかいになっては」
部屋の内部からひどく静かな声がして、二人共にきつく閉じていた瞼を開けた。
「貴方は……」
満ちていたはずの水は何処にもない。数日前入ったばかりの子爵の部屋だ。何の変哲もない。
──否、変哲はあった。
部屋の中央にイーゼルが立てかけてあり、カンバスが載っている。
「画が、完成したそうですね」
口に出したが、聞かずともわかった。
これが彼女の言った『完成』なのだと。
理屈も常識も全く通用しない、厳然たる“事実”が其処にあった。
「はい。おかげを持ちまして、この様に伯父様がたも喜んでおられます」
娘というには幼い、やや高めの声が答えた。
カンバス自体には川も海も水面もなく、以前見た時の魚も描かれていない。
代わりに少女の周りを赤と白、黒の斑紋が巡り泳いでいた。
さながら幻燈のごとく、淡く光を纏い、飛沫を上げて。
三匹の、錦鯉が。
「それで貴方は、今更ですがやはり──嘉久子様なのですね」
何を仰いますやら、と画の傍らに立つあどけない顔の娘は笑った。梅というよりは野菊の様な、可愛らしい容貌をしている。
「一週間、毎日お会いしていたではありませんか? 可笑しな田安さん」
「……なるほど。よく、わかりました」
「亮さん、一体何を言っているんだ?」
「つまりこの間まで、俺が会話していたのは、嘉久子お嬢様の様でいて、そうじゃなかったのさ。──ですよね?」
問われた本人は少しだけ目を見開いて頷いた。
「矢張りおわかりになりましたか。伯母様は田安さんが気に入ったそうですの」
「画を完成させた所を見ると、貴方は独り立ちをする覚悟をなさったのですか」
「伯父様がたはこの館を守って欲しいと仰いました。此処にいれば、いつでも助言は頂けますもの──勿論田安さん、貴方にも引き続きお仕事をお願いしますね」
にっこりと笑う、見知らぬ少女に向かって頷くと、亮は暇を告げ背中を向けた。
望みを叶えると、嘉久子は言った。あの時、指していたのは──子爵だけでなく──
「あんな事を、言わなければ良かったですよ」
振り返らずに呻いた。
「いえいえ。伯父様は貴方に感謝しておられますわ」
お気になさらずと柔らかく言われれば、確かに選んだのは子爵自身で。
元々是非を問う資格は亮にはない。
少なくとも、人の世界しか知らぬ身には。
「田安さん。庭の黒松は、私が描いたものなのよ。本物そっくりでしょう?」
悪戯めいて笑う彼女の、嘘か本当かもわからない言葉には答えず──何故だかやりきれない思いで、唖然とする伊村の腕を掴んでさっさと屋敷を後にした。
※※※※
「……つまり亮さんが一週間毎日会っていた娘は、嘉久子嬢ではなく西村夫人の姿だったっていうのか?」
車に戻っても、伊村はすぐにエンジンをかけようとはせずに呟いた。呆然としている。
ああ、とぶっきらぼうに亮は答えた。
「少なくとも俺は、あのお嬢さんを今日初めて見た。夫人がどうして女学生姿をしていたのか、まではわからないけど」
「全く要領を得ないな。うちの若いのから聞いた限りじゃあ、お嬢様に特に変わった様子はなかったぜ。あの通りだ」
「もういいだろ。どうせやっさんは存在するものしか信じないんだ。酒でも飲んで寝ちまえよ」
「おいおい、何をそんなに怒っているんだ。ただでさえ俺だって混乱してるっていうのに──」
鼻白む友人に兎に角車を出させて、亮は一人己の考えに沈みこんだ。
憂き世を紡ぐは人間の理。
垣根を越えれば幸せか。
どうにも悔しく腹立たしい。
「……見ちまったからには、『存在するもの』として認めなきゃならないかも知らんな……」
ややあってぽつり、と漏らした伊村の弱音を、彼は車のエンジン音に紛れて聞こえない振りをした。
月も見えない静かな町に、二人以外に今は往来もなく。
他にその言葉を聞けるとすれば、恐らく埒外の者ばかり。
─了─
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