破談請負人ですが、辺境伯様からの求婚はお断りしたくありません
「結婚はおやめになって、商売を続けてはいかがでしょう」
そう提案してから六週間。メルタ・カディスは今日、開業以来十件目の破談をまとめようとしていた。
辺境伯邸の会議室。王都から出張してきたメルタが長机に置いたのは、縁談を解消する覚書と、新しい事業契約書。
向かいに座るニーナは辺境の倉庫を離れたくない。その隣のフェリクスは、王都で家業を継がなければならない。離れて暮らす結婚は、二人とも望んでいなかった。
困るのは、両家の食糧輸送の提携まで、縁談と一緒に白紙になりかけていたことだ。
「保証金が必要になります。それでも、この条件でよろしいですね」
両家の書記が練り直した契約を、二人はもう一度確かめた。婚姻を頼みにした信用を、別の形で用意する。費用は増えるが、どちらかが仕事を捨てるよりいいと、両家も合意している。
「はい。私は、倉庫に残りたいです」
ニーナが答えた。フェリクスも頷く。
「彼女を連れていくことを、事業の条件にはしません」
見届けに来ていた辺境伯ローデリク・ハルデンが、許可書を差し出した。倉庫用地と街道の利用は担当官の審査を終えている。縁談が解消しても、許可の条件は変わらない。
二人の署名が、別々の紙に並んだ。
「破談請負人って、もっと恐ろしい方かと思っていました」
フェリクスが笑った。
「縁組調整人です。結婚のお手伝いもいたします」
「そちらも、お得意で?」
「ええ。なぜか誰も噂にしてくださらないのですが」
ニーナまで笑ったので、メルタも肩の力を抜いた。
書類を収め、両家を送り出したところで、ローデリクに呼び止められた。
「少し、私の縁談の話をしてもよいだろうか」
かつて二度、彼の縁談の解消を手伝ったことがある。どちらも双方の意向を確かめ、合意のうえで終えたものだ。メルタはいつものように帳面を開いた。
「お相手は、どちらのご令嬢ですか」
「あなたです」
筆先が、紙を引っかいた。
◆
「申し訳ありません。いま、お相手の名を聞き落としました」
「メルタ・カディス殿。あなたに、結婚を前提とした交際を申し込みたい」
聞き間違いにする余地まで、丁寧に塞がれた。
メルタは帳面を閉じた。背表紙が思いのほか大きな音を立てた。
「あの、私、破談のご相談で呼ばれることのほうが多いのですが」
「結婚のお手伝いも得意だと、いま聞いた」
たしかに言った。自分の売り込みが、こんなところで効くとは思わなかった。
ローデリクは笑っていたが、机の端に添えた指は動かなかった。返事を待っている。いつもの会議なら、相手の考えがまとまるまで、平然と茶を飲んでいる人なのに。
まさか、緊張しているのだろうか。
「……なぜ、私なのですか」
「仕事が終わっても、あなたに会いたいから」
返事が早すぎて、メルタの用意した礼儀正しい言葉が、全部どこかへ行った。
「次に会えるのはいつかと考えるたび、案件の予定を確かめるのが、嫌になった」
開いた扉の向こうで、役人たちが帰り支度をしていた。夕刻の鐘が鳴る。聞き慣れた音なのに、ずいぶん遠かった。
ローデリクは一歩、机から離れた。
「今日の返事は要らない。困らせたなら、断ってほしい。仕事で顔を合わせることを、気にする必要もない」
メルタは彼を見た。
二十八歳の子爵家次女と、三十四歳の辺境伯。身分だけでも釣り合う縁談とは言い難い。そのうえ彼女は王都に事務所を構え、他家の事情を預かる仕事をしている。
彼の妻になれば、今の暮らしをそのまま続けられないことくらい、分かっていた。
「仕事を、辞めるつもりはありません」
「辞めてほしいとは思っていない」
「それだけで済む話ではないのです」
きつく聞こえただろうか。そう思ったが、彼は遮らなかった。
「では、済まない部分を聞かせてほしい。あなたが話してもいいと思うなら」
メルタは鞄の留め金に触れた。断るなら今だ。丁重に礼を言って、一礼して帰ればよい。
角の立たない断り方を、相談者に何度も教えてきた。
「……まず、辺境伯夫人が何をするのか、知りたいです」
口にしたのは、別の言葉だった。
「明日の午前、家令殿にお話を伺えますか」
「都合を確かめて、宿へ知らせる」
「お聞きするだけです。まだ、お返事ではありません」
「分かっている」
そう答えた彼の表情が少し緩んだ。
その変化を見て、メルタまでほっとした。
ますます、困ったことになった。
◆
宿へ戻ると、メルタはまず仕事の帳面を片づけた。
十件というのは、数年間でまとめた縁談解消の数だ。正式な婚約を解いたものが二件、婚約前の縁談が八件。結婚へ進んだ相談は、別にある。
報酬は調整の仕事に対する定額で、結婚に至っても破談になっても変わらない。破談にすれば余計に稼げる仕組みでは、安心して相談してもらえない。
そして、今日の申し出は十一件目に数えられない。
自分の縁談を、自分が第三者として調整するわけにはいかないからだ。
白い紙を一枚取り出す。
いつも相談者に用意するのと同じく、二つの欄を作った。
左には、困ること。
右には、自分が望むこと。
左の欄は、たちまち埋まった。
王都の事務所。辺境での暮らし。夫人の役目。家の意向。
そして何より、縁組調整人としての信用。
辺境伯に言えないことがある人は、その妻に相談するだろうか。
秘密を守ると約束したところで、話す側のためらいまで消せはしない。
メルタは筆を止めた。
他人にとって断る理由になることは、自分にとっても同じだ。地位のある人から望まれたからといって、捨てられる仕事ではない。
右の欄を見た。
白い。
おかしい。こちらを先に聞くよう、相談者には勧めているのに。
宿の女将が茶を運んできた。添えられた小さな焼き菓子を見て、メルタは先月のことを思い出した。
仕事が長引いた日、話し合いのあとの茶の席に、同じ菓子が出たのだ。彼女が市場で見つけて褒めたものだった。
皿に二つ。ローデリクの前にも、二つ。
『これが例のものですか』
『ああ。特産品の報告ということで』
真面目な顔をしているので、メルタも真面目に頷いた。
それから、一口食べて気づいた。前より少し、焦げ目が濃かった。
『今日は端のほうを選びましたね』
『店主に、どこが美味しいか聞いた』
『それで?』
『端だそうだ』
『真ん中を薦める日もありますよ。先に売れたほうとは逆を』
彼は手元の菓子を見下ろしたあと、声を立てて笑った。
会議で見せる微笑とは違った。メルタも笑った。結局どちらの皿も空になった。
あの日、会議の結論より先に、あの顔を思い出しながら宿へ帰った。
メルタは菓子を半分に割った。
今日のは、真ん中だ。
誰にでも話せる程度のことなのに、伝えたい相手は一人しか浮かばなかった。
右の欄に、ようやく書く。
――もう一度、仕事でない話をしたい。
その下は、まだ書けなかった。茶が冷めるまで、その一行を見ていた。
◆
「こちらが、来年までの公式行事の予定です。昨年の記録も添えてございます」
翌朝、家令ハルトマンは、求めた資料を机に広げてくれた。
冬の領都滞在。賓客の接遇。祭日の式典。王都への往復。
紙の上の予定だけでも、気軽に両立できますとは言えない量だった。
「家計や使用人の管理も、夫人が?」
「実務は私どもの職分です。奥様がおいでになったからと、私の仕事を差し上げるつもりはございません」
淡々とした声だったので、メルタは一拍遅れて笑った。
「ただ、家を代表するお役目は残ります。領主夫妻への招待に、私一人で参るわけにもいきませんので」
「準備も含めると、この日数では足りませんね」
「ええ。そのため、こちらも」
予定表がもう一枚増えた。
笑うのが少し早かった。
メルタは王都の仕事の予定を思い浮かべた。定期的な面談。急な相談。結婚の日取りに合わせて動く依頼人もいる。
冬の三か月に自分がいなければ、困る人がいる。手紙で済む用件ばかりではない。
「全部、奥様がお一人で担うのですか」
「夫婦でお受けになるもの、旦那様だけで足りるもの、家臣で代われるものがございます。どこまでお二人で分けられるかは、これからのご相談です」
できない、とも、心配ない、とも言われなかった。
メルタは余白に印をつけた。移動をまとめられる月。王都にいる必要のある時期。人に任せられるよう、今から準備する仕事。
気がつくと、断る材料を探す手つきではなくなっていた。
「……まだ、お受けしたわけではないのです」
「承知しております」
ハルトマンは、それ以上のことを言わなかった。その気遣いがありがたかった。
窓の下では、荷馬車が門を出ていくところだった。
冬は、あの道にも雪が積もるのだろう。王都の事務所ではいつも、仕事を終えたあと、一人で灯りを消して帰る。
ここで暮らせば、帰った先にローデリクがいるのかもしれない。
その日の面白かったことを、夕食の席で話せるのかもしれない。
そこまで想像して、メルタは資料に目を戻した。
夕食のために仕事を失ってもよい、という話ではない。
けれど、夕食を一緒にしたいという気持ちまで、なかったことにする必要もない。
「この予定表、写しを頂けますか」
「ご用意しております」
差し出された紙を、メルタは両手で受け取った。
◆
午後の約束に、ローデリクは小さな盆を持って現れた。
茶と、二枚の皿。菓子は一つずつ。
「家令から、ずいぶん予定が多いと聞いただろう」
「二枚目が出てきたときには、帰ろうかと思いました」
彼の手が止まった。
「……冗談です。半分ほど」
「半分は残るのか」
向かいに座ったローデリクが、小さく息をつく。
彼を安心させたくなったが、そこで話を濁しては意味がない。メルタは写しを広げた。
「行事に出る時間は、調整できるかもしれません。ですが、時間があっても受けられなくなる仕事があります」
「私の家に関わる相談だね」
「ええ。たとえば、あなたの家と争っている家の縁談です。私が公平でいようとしても、相手の方は安心して話せません」
彼が頷いたので、続けた。
「夫人になってから、とは限りません。交際が知られれば、その時点でお断りすべき相談も出ます」
ローデリクは茶に伸ばしかけた手を戻した。
「そこまで早いとは、考えていなかった」
「結婚式の日から、突然お互いを大切に思うわけではありませんから」
言ってから、メルタは少し顔が熱くなった。説明としては間違っていない。いないが、彼の目がまっすぐこちらを向いた。
急いで予定表を指さす。
「ですから、事務所を残すだけでは足りません」
しばらく、紙を押さえる指の音だけがした。
「私は、行事を分担して、人を増やせば、あなたの仕事を続けられると思っていた。失う仕事のことは、十分に考えていなかった」
言い訳は続かなかった。
「すまない」
「いま、知っていただければ」
メルタの肩から、少し力が抜けた。
彼は、金銭を補えばよいとは言わなかった。働かずに暮らせると慰めもしなかった。
「私の家が関わる事業について、公開できる範囲を文官に整理させる。それを見て、受けられる仕事かどうか、あなたが判断するのはどうだろう」
「助かります。ただし、こちらの相談者の名前はお伝えできません」
「聞かない。私に相談内容が渡らない形も、必要だね」
守れるものが、一つ具体的になった。
受けられない相談は、事情に応じて別の調整人を紹介する。その人を探すのも、紹介してよいか依頼人に確かめるのも、メルタの仕事だ。
「信用できる同業者が、王都におります。ご本人の都合もありますから、引き受けていただけるかは、まだ分かりません」
「では、今ここで解決したことにはしない」
「はい」
即答した自分に、メルタは少し笑った。
解決していない、と同じ認識でいられるだけで、こんなにも話しやすい。
続いて、彼女は予定表の一つの日付を指した。
「この時期は王都を離れられません。すでに面談のお約束がいくつもあります」
「私は、その前後なら王都へ行ける。訪ねてよいだろうか」
「私がこちらへ来るのではなく?」
「あなたに移動してもらうことばかり考えていた」
ローデリクが予定表を自分の側へ引き寄せた。今度は、彼の予定を変えられる場所を探していた。
メルタはその手元を見ていた。
自分が彼の暮らしに入るかどうか。それだけを決める話だと思っていたのだ。
彼のほうも、こちらへ来てくれる。
「ご実家には、何とお話しになるのですか」
メルタは尋ねた。
「もっと、家のためになる縁談をと言われませんか」
「言われるだろうね。結婚によらず保たなければならない縁もある。私から説明する」
「私が、何かのお役に立つと?」
「あなたを選んだ理由まで、事業の話にするつもりはない」
彼はメルタに紙を返した。
「あなたのご家族にお会いするのも、あなたが望んでからにしたい。先に家同士の話にされては、困るだろう」
「大変、困ります」
今度の即答には、二人とも笑った。
◆
話の切れ目に、茶を飲んだ。すっかりぬるくなっていた。
メルタは菓子を見たまま、聞き残したことを口にした。
「私が仕事を辞めても、同じことをおっしゃいますか」
ローデリクが顔を上げた。
「辞めるつもりはありません。ただ、仕事をする私しか、ご存じないでしょう」
彼に褒められるのは嬉しい。
けれど、難しい話を片づけるたびに喜んでもらえることと、何もしない夕方を一緒に過ごせることは、違う。
「優秀な調整人がお入り用なら、ご紹介できます」
「その方は、私が買った菓子の焦げ目を、笑ってくれるだろうか」
思いがけず、顔がほころんだ。
「それは、頼み方によるかと」
「頼んで笑ってもらいたいわけではない」
彼も笑った。それから、声を少し落とした。
「あの日は、もう仕事の話は終わっていた。あなたが帰れば、私も残りの書類を片づけるつもりだった。それなのに、店主の話を聞いていたら、もっと聞きたくなった」
メルタは黙っていた。
「あなたが何を面白がるのか、何を食べたいのか。仕事と関係のないことを、もっと知りたい。役に立つ話をしてくれなくていい」
ローデリクの指が、茶碗の縁から離れた。
「私も、あなたの前でなら、何かの決裁をしていなくてもいい気がする」
その言葉が、一番深いところに届いた。
メルタは彼の仕事ぶりを知っている。自分に不都合な話も最後まで聞くこと。過ちに気づけば、自分の名で訂正すること。
以前、彼が申請の締切を早めようとした際、遠い土地の家ほど不利になると指摘したことがある。彼は日数を数え直し、その場で案を引っ込めた。
また一緒に仕事をしたい人だと思った。
いつから、それだけではなくなったのだろう。
「……いつから、そうお考えだったのですか」
「四か月ほど前。初夏にあなたから届いた手紙を、二度読んだときかな」
「手紙?」
「追伸に、王都の菓子屋が閉まっていたとあった」
覚えていた。
用件の返答に添えて、よく行く店が三日休むので残念だと書いた。それだけのことだ。
「返事を書くのに、いつもより時間がかかった。三日なら待てばいい、と書きかけて、そういう返事がしたいのではないと気づいた」
「結局、何とお書きになりました?」
「こちらの店は、雨の日に休む。空を見てから行くといい、と」
署名の後に続いた、少し小さな字まで覚えている。
手紙を読み終えて、その日まだ見てもいない辺境の空を思ったことも。
「それから、返事が届くのを楽しみにするようになった」
メルタは茶碗を置いた。持ったままでは、指に力が入りすぎる。
「どうして、今までおっしゃらなかったのですか」
「会うのは今回の案件の打ち合わせがほとんどだった。こちらが許可を出す立場で、あなたに私的な返事まで求めたくなかった」
今回の合意と許可は、昨日すべて確定している。
待っていた理由が、やっと分かった。
「あなたに以前お願いした二件の縁談は、そのずっと前に終わっている。それ以降、進めている縁談もない」
「存じています。二件目の最後のご返書は、私がお預かりしましたから」
一年以上前のことだ。あのころの彼の手紙には、必要な事実だけが並んでいた。
いつしか、最後に二、三行の余白ができた。
メルタはそこを、真っ先に読むようになっていた。
「私もです」
声が小さくなってしまった。
ローデリクが、聞き返す代わりに待ってくれた。
「お手紙が来ると、先に追伸を読んでいました。仕事の返事は、そのあとに」
彼の唇が少し開いた。
「それは……期待しても?」
メルタは頷きかけ、けれど、そこで止まった。
いつも人に尋ねることを、自分にも聞いてからにしたかった。
「少しだけ、考えさせてください。今度は、予定表を見ないで」
ローデリクは頷いた。
「庭を歩いてくるといい。私は、ここにいる」
◆
回廊へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
庭木の葉は色づき始めている。メルタは欄干に手を置いた。
仕事は減るかもしれない。王都と辺境を行き来する暮らしが、思うようにならないかもしれない。彼の家族が、すぐに喜んでくれるとも限らない。
好きになれば片づく問題ではなかった。
昨日、ニーナに最後の意思を確かめたときのことを思い出す。
ニーナは、倉庫に残りたいと言った。フェリクスも、自分の仕事を選んだ。
二人に、もう少し相手を好きになれば解決すると言うつもりはなかった。大切にしたい生活は、人によって違う。
ならば、自分は。
メルタは振り向いた。
開いた窓の向こうに、ローデリクの横顔が見えた。彼は椅子に座ったまま、庭のほうを見ている。目が合うと、姿勢を正した。
昨夜、右の欄に一行だけ書いて止まった。その続きを、今なら言える。
あの人と、食事をしたい。
今日のような話し合いを、面倒がらずに重ねていきたい。
仕事で疲れた日には、役立つ話など一つもしないで、茶を飲みたい。
難しいことは残っている。それでも彼との暮らしを考える時間が、もう少し欲しかった。
戻ると、ローデリクが立ち上がった。
メルタは彼の前に立った。今度は、鞄から紙を出さなかった。
「お返事をします」
彼が頷く。
「仕事は続けます。お受けできない相談が増えることも、暮らし方を変える必要があることも、まだ怖いです」
「うん」
「ですから、結婚のお約束は、今日できません」
ローデリクは、静かに聞いていた。
この先を、相手に察してもらうわけにはいかない。
「でも、あなたとお付き合いしたいです。結婚を考える相手として」
一息に言うと、彼の顔が変わった。
あの菓子を食べて笑ったときより、少し頼りない笑顔だった。
「……よかった」
それだけ言って、彼は息を吐いた。
「そんなに、ご心配でしたか」
「あなたは、相手を傷つけずに断る言葉を、私よりずっとよく知っている」
メルタは笑い、笑ったまま少し目が熱くなった。
「今日は、使いません」
「ありがとう」
ローデリクが手を差し出した。
メルタはその手を見てから、自分の手を重ねた。書類を受け渡すときには知らなかった温かさだった。
「私も、あなたが好きです」
ようやく、それだけを言えた。
条件も、但し書きもつけなかった。
彼の指が、そっと握り返してくる。
「まず、王都へ訪ねていってもいいだろうか」
「はい。日取りは、相談させてください」
「もちろん」
まだ決まっていないことを、二人で決める。
その最初が、次に会う日でいいのだと、メルタは思った。
◆
翌日の夕刻、メルタは宿で仕事の帳面を閉じた。
十件目の縁談解消について、返却する書類も残っていない。明日は王都へ帰り、待っている仕事に取りかかる。
代わりに私物の手帳を開いた。
――今夜、ローデリク様と食事。
案件番号を書きかけて、やめる。
ついでに、訪問先を書く欄の横に「好きな人」と小さく添えて、すぐ手帳を閉じた。
誰に見せるものでもないのに、落ち着かない。
外套を着てから、いったん脱いだ。鏡の前で髪を結び直す。普段は衣装箱にしまったままの青いリボンを、鞄から探し出した。
仕事の道具は、今日は置いていく。
宿の玄関へ下りると、ローデリクが待っていた。見慣れた紋章入りの上着ではなく、濃い灰色の外套を着ている。
護衛は少し離れた戸口にいた。領主の身分まで置いてこられるわけではない。それでも、こちらを見た顔は、会議のときとは違った。
「似合っている」
視線がリボンに向いたので、メルタは触れかけた手を下ろした。
「仕事には、少し華やかすぎるかと」
「今日は、仕事ではないから」
そうだった。
自分で決めたことなのに、彼に言われると、なおさら嬉しかった。
「店は、どちらへ?」
「市場の近くに。煮込みが美味しい。ただ、一つ困ったことがある」
メルタは思わず顔を上げた。
ローデリクは、真顔で続けた。
「仕事の話をしないで誘うのが初めてで、何を話すか、朝から考えていた」
そんな準備をしていたのか。
いつもは人を安心させる側にいる彼が、今日は彼女の答えを待っている。
「では、私から話しても?」
「ぜひ」
「宿で出たお菓子、真ん中でした」
彼は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「端と、どちらが美味しかった?」
「端です」
「店主は正しかったな」
メルタは、差し出された腕に手を添えた。
「でも、一緒に食べた方のせいかもしれません」
ローデリクが、足を止めた。
今度はメルタが待つ番だった。返事の言葉を探している彼の顔を、少しだけ得意な気持ちで見上げる。
「……それは、今夜も頑張らなければ」
「何もなさらなくて結構です。一緒に召し上がってくだされば」
二人で歩き出した。市場の灯りが、通りの先にともっている。
仕事なら、条件が整えばそこで終わりだった。
今夜は、食事のあとにも別の店の話をしよう。王都へ戻ったら手紙を書こう。返事をもらったら、追伸から読もう。
他人の縁談を十件、円満に終わらせてきた。
十一件目は、仕事の帳面には載せない。
終わらせ方ではなく、続きを考えたい縁談なのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
破談をまとめるのが得意なメルタですが、自分の縁談だけは、終わらせたくなかったようです。
今回は短編として完結していますが、反応がよければ、メルタとローデリクが仕事と恋愛を両立しながら、さまざまな縁談や領地の問題に向き合う連載版も考えています。
二人のその後を読んでみたいと思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
今後の執筆の参考にさせていただきます。




