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破談請負人ですが、辺境伯様からの求婚はお断りしたくありません

作者: 他力本願寺
掲載日:2026/11/02

「結婚はおやめになって、商売を続けてはいかがでしょう」


 そう提案してから六週間。メルタ・カディスは今日、開業以来十件目の破談をまとめようとしていた。


 辺境伯邸の会議室。王都から出張してきたメルタが長机に置いたのは、縁談を解消する覚書と、新しい事業契約書。

 向かいに座るニーナは辺境の倉庫を離れたくない。その隣のフェリクスは、王都で家業を継がなければならない。離れて暮らす結婚は、二人とも望んでいなかった。

 困るのは、両家の食糧輸送の提携まで、縁談と一緒に白紙になりかけていたことだ。


「保証金が必要になります。それでも、この条件でよろしいですね」


 両家の書記が練り直した契約を、二人はもう一度確かめた。婚姻を頼みにした信用を、別の形で用意する。費用は増えるが、どちらかが仕事を捨てるよりいいと、両家も合意している。


「はい。私は、倉庫に残りたいです」


 ニーナが答えた。フェリクスも頷く。


「彼女を連れていくことを、事業の条件にはしません」


 見届けに来ていた辺境伯ローデリク・ハルデンが、許可書を差し出した。倉庫用地と街道の利用は担当官の審査を終えている。縁談が解消しても、許可の条件は変わらない。

 二人の署名が、別々の紙に並んだ。


「破談請負人って、もっと恐ろしい方かと思っていました」


 フェリクスが笑った。


「縁組調整人です。結婚のお手伝いもいたします」

「そちらも、お得意で?」

「ええ。なぜか誰も噂にしてくださらないのですが」


 ニーナまで笑ったので、メルタも肩の力を抜いた。


 書類を収め、両家を送り出したところで、ローデリクに呼び止められた。


「少し、私の縁談の話をしてもよいだろうか」


 かつて二度、彼の縁談の解消を手伝ったことがある。どちらも双方の意向を確かめ、合意のうえで終えたものだ。メルタはいつものように帳面を開いた。


「お相手は、どちらのご令嬢ですか」

「あなたです」


 筆先が、紙を引っかいた。


     ◆


「申し訳ありません。いま、お相手の名を聞き落としました」

「メルタ・カディス殿。あなたに、結婚を前提とした交際を申し込みたい」


 聞き間違いにする余地まで、丁寧に塞がれた。

 メルタは帳面を閉じた。背表紙が思いのほか大きな音を立てた。


「あの、私、破談のご相談で呼ばれることのほうが多いのですが」

「結婚のお手伝いも得意だと、いま聞いた」


 たしかに言った。自分の売り込みが、こんなところで効くとは思わなかった。


 ローデリクは笑っていたが、机の端に添えた指は動かなかった。返事を待っている。いつもの会議なら、相手の考えがまとまるまで、平然と茶を飲んでいる人なのに。


 まさか、緊張しているのだろうか。


「……なぜ、私なのですか」

「仕事が終わっても、あなたに会いたいから」


 返事が早すぎて、メルタの用意した礼儀正しい言葉が、全部どこかへ行った。


「次に会えるのはいつかと考えるたび、案件の予定を確かめるのが、嫌になった」


 開いた扉の向こうで、役人たちが帰り支度をしていた。夕刻の鐘が鳴る。聞き慣れた音なのに、ずいぶん遠かった。


 ローデリクは一歩、机から離れた。


「今日の返事は要らない。困らせたなら、断ってほしい。仕事で顔を合わせることを、気にする必要もない」


 メルタは彼を見た。

 二十八歳の子爵家次女と、三十四歳の辺境伯。身分だけでも釣り合う縁談とは言い難い。そのうえ彼女は王都に事務所を構え、他家の事情を預かる仕事をしている。

 彼の妻になれば、今の暮らしをそのまま続けられないことくらい、分かっていた。


「仕事を、辞めるつもりはありません」

「辞めてほしいとは思っていない」

「それだけで済む話ではないのです」


 きつく聞こえただろうか。そう思ったが、彼は遮らなかった。


「では、済まない部分を聞かせてほしい。あなたが話してもいいと思うなら」


 メルタは鞄の留め金に触れた。断るなら今だ。丁重に礼を言って、一礼して帰ればよい。

 角の立たない断り方を、相談者に何度も教えてきた。


「……まず、辺境伯夫人が何をするのか、知りたいです」


 口にしたのは、別の言葉だった。


「明日の午前、家令殿にお話を伺えますか」

「都合を確かめて、宿へ知らせる」

「お聞きするだけです。まだ、お返事ではありません」

「分かっている」


 そう答えた彼の表情が少し緩んだ。

 その変化を見て、メルタまでほっとした。

 ますます、困ったことになった。


     ◆


 宿へ戻ると、メルタはまず仕事の帳面を片づけた。

 十件というのは、数年間でまとめた縁談解消の数だ。正式な婚約を解いたものが二件、婚約前の縁談が八件。結婚へ進んだ相談は、別にある。

 報酬は調整の仕事に対する定額で、結婚に至っても破談になっても変わらない。破談にすれば余計に稼げる仕組みでは、安心して相談してもらえない。


 そして、今日の申し出は十一件目に数えられない。

 自分の縁談を、自分が第三者として調整するわけにはいかないからだ。


 白い紙を一枚取り出す。

 いつも相談者に用意するのと同じく、二つの欄を作った。


 左には、困ること。

 右には、自分が望むこと。


 左の欄は、たちまち埋まった。

 王都の事務所。辺境での暮らし。夫人の役目。家の意向。

 そして何より、縁組調整人としての信用。


 辺境伯に言えないことがある人は、その妻に相談するだろうか。

 秘密を守ると約束したところで、話す側のためらいまで消せはしない。


 メルタは筆を止めた。

 他人にとって断る理由になることは、自分にとっても同じだ。地位のある人から望まれたからといって、捨てられる仕事ではない。


 右の欄を見た。


 白い。


 おかしい。こちらを先に聞くよう、相談者には勧めているのに。


 宿の女将が茶を運んできた。添えられた小さな焼き菓子を見て、メルタは先月のことを思い出した。


 仕事が長引いた日、話し合いのあとの茶の席に、同じ菓子が出たのだ。彼女が市場で見つけて褒めたものだった。

 皿に二つ。ローデリクの前にも、二つ。


『これが例のものですか』

『ああ。特産品の報告ということで』


 真面目な顔をしているので、メルタも真面目に頷いた。

 それから、一口食べて気づいた。前より少し、焦げ目が濃かった。


『今日は端のほうを選びましたね』

『店主に、どこが美味しいか聞いた』

『それで?』

『端だそうだ』

『真ん中を薦める日もありますよ。先に売れたほうとは逆を』


 彼は手元の菓子を見下ろしたあと、声を立てて笑った。

 会議で見せる微笑とは違った。メルタも笑った。結局どちらの皿も空になった。


 あの日、会議の結論より先に、あの顔を思い出しながら宿へ帰った。


 メルタは菓子を半分に割った。

 今日のは、真ん中だ。

 誰にでも話せる程度のことなのに、伝えたい相手は一人しか浮かばなかった。


 右の欄に、ようやく書く。


 ――もう一度、仕事でない話をしたい。


 その下は、まだ書けなかった。茶が冷めるまで、その一行を見ていた。


     ◆


「こちらが、来年までの公式行事の予定です。昨年の記録も添えてございます」


 翌朝、家令ハルトマンは、求めた資料を机に広げてくれた。

 冬の領都滞在。賓客の接遇。祭日の式典。王都への往復。

 紙の上の予定だけでも、気軽に両立できますとは言えない量だった。


「家計や使用人の管理も、夫人が?」

「実務は私どもの職分です。奥様がおいでになったからと、私の仕事を差し上げるつもりはございません」


 淡々とした声だったので、メルタは一拍遅れて笑った。


「ただ、家を代表するお役目は残ります。領主夫妻への招待に、私一人で参るわけにもいきませんので」

「準備も含めると、この日数では足りませんね」

「ええ。そのため、こちらも」


 予定表がもう一枚増えた。

 笑うのが少し早かった。


 メルタは王都の仕事の予定を思い浮かべた。定期的な面談。急な相談。結婚の日取りに合わせて動く依頼人もいる。

 冬の三か月に自分がいなければ、困る人がいる。手紙で済む用件ばかりではない。


「全部、奥様がお一人で担うのですか」

「夫婦でお受けになるもの、旦那様だけで足りるもの、家臣で代われるものがございます。どこまでお二人で分けられるかは、これからのご相談です」


 できない、とも、心配ない、とも言われなかった。

 メルタは余白に印をつけた。移動をまとめられる月。王都にいる必要のある時期。人に任せられるよう、今から準備する仕事。

 気がつくと、断る材料を探す手つきではなくなっていた。


「……まだ、お受けしたわけではないのです」

「承知しております」


 ハルトマンは、それ以上のことを言わなかった。その気遣いがありがたかった。


 窓の下では、荷馬車が門を出ていくところだった。

 冬は、あの道にも雪が積もるのだろう。王都の事務所ではいつも、仕事を終えたあと、一人で灯りを消して帰る。

 ここで暮らせば、帰った先にローデリクがいるのかもしれない。

 その日の面白かったことを、夕食の席で話せるのかもしれない。


 そこまで想像して、メルタは資料に目を戻した。


 夕食のために仕事を失ってもよい、という話ではない。

 けれど、夕食を一緒にしたいという気持ちまで、なかったことにする必要もない。


「この予定表、写しを頂けますか」

「ご用意しております」


 差し出された紙を、メルタは両手で受け取った。


     ◆


 午後の約束に、ローデリクは小さな盆を持って現れた。

 茶と、二枚の皿。菓子は一つずつ。


「家令から、ずいぶん予定が多いと聞いただろう」

「二枚目が出てきたときには、帰ろうかと思いました」


 彼の手が止まった。


「……冗談です。半分ほど」

「半分は残るのか」


 向かいに座ったローデリクが、小さく息をつく。

 彼を安心させたくなったが、そこで話を濁しては意味がない。メルタは写しを広げた。


「行事に出る時間は、調整できるかもしれません。ですが、時間があっても受けられなくなる仕事があります」

「私の家に関わる相談だね」

「ええ。たとえば、あなたの家と争っている家の縁談です。私が公平でいようとしても、相手の方は安心して話せません」


 彼が頷いたので、続けた。


「夫人になってから、とは限りません。交際が知られれば、その時点でお断りすべき相談も出ます」


 ローデリクは茶に伸ばしかけた手を戻した。


「そこまで早いとは、考えていなかった」

「結婚式の日から、突然お互いを大切に思うわけではありませんから」


 言ってから、メルタは少し顔が熱くなった。説明としては間違っていない。いないが、彼の目がまっすぐこちらを向いた。

 急いで予定表を指さす。


「ですから、事務所を残すだけでは足りません」


 しばらく、紙を押さえる指の音だけがした。


「私は、行事を分担して、人を増やせば、あなたの仕事を続けられると思っていた。失う仕事のことは、十分に考えていなかった」


 言い訳は続かなかった。


「すまない」

「いま、知っていただければ」


 メルタの肩から、少し力が抜けた。

 彼は、金銭を補えばよいとは言わなかった。働かずに暮らせると慰めもしなかった。


「私の家が関わる事業について、公開できる範囲を文官に整理させる。それを見て、受けられる仕事かどうか、あなたが判断するのはどうだろう」

「助かります。ただし、こちらの相談者の名前はお伝えできません」

「聞かない。私に相談内容が渡らない形も、必要だね」


 守れるものが、一つ具体的になった。

 受けられない相談は、事情に応じて別の調整人を紹介する。その人を探すのも、紹介してよいか依頼人に確かめるのも、メルタの仕事だ。


「信用できる同業者が、王都におります。ご本人の都合もありますから、引き受けていただけるかは、まだ分かりません」

「では、今ここで解決したことにはしない」

「はい」


 即答した自分に、メルタは少し笑った。

 解決していない、と同じ認識でいられるだけで、こんなにも話しやすい。


 続いて、彼女は予定表の一つの日付を指した。


「この時期は王都を離れられません。すでに面談のお約束がいくつもあります」

「私は、その前後なら王都へ行ける。訪ねてよいだろうか」

「私がこちらへ来るのではなく?」

「あなたに移動してもらうことばかり考えていた」


 ローデリクが予定表を自分の側へ引き寄せた。今度は、彼の予定を変えられる場所を探していた。

 メルタはその手元を見ていた。

 自分が彼の暮らしに入るかどうか。それだけを決める話だと思っていたのだ。


 彼のほうも、こちらへ来てくれる。


「ご実家には、何とお話しになるのですか」


 メルタは尋ねた。


「もっと、家のためになる縁談をと言われませんか」

「言われるだろうね。結婚によらず保たなければならない縁もある。私から説明する」

「私が、何かのお役に立つと?」

「あなたを選んだ理由まで、事業の話にするつもりはない」


 彼はメルタに紙を返した。


「あなたのご家族にお会いするのも、あなたが望んでからにしたい。先に家同士の話にされては、困るだろう」

「大変、困ります」


 今度の即答には、二人とも笑った。


     ◆


 話の切れ目に、茶を飲んだ。すっかりぬるくなっていた。

 メルタは菓子を見たまま、聞き残したことを口にした。


「私が仕事を辞めても、同じことをおっしゃいますか」


 ローデリクが顔を上げた。


「辞めるつもりはありません。ただ、仕事をする私しか、ご存じないでしょう」


 彼に褒められるのは嬉しい。

 けれど、難しい話を片づけるたびに喜んでもらえることと、何もしない夕方を一緒に過ごせることは、違う。


「優秀な調整人がお入り用なら、ご紹介できます」

「その方は、私が買った菓子の焦げ目を、笑ってくれるだろうか」


 思いがけず、顔がほころんだ。


「それは、頼み方によるかと」

「頼んで笑ってもらいたいわけではない」


 彼も笑った。それから、声を少し落とした。


「あの日は、もう仕事の話は終わっていた。あなたが帰れば、私も残りの書類を片づけるつもりだった。それなのに、店主の話を聞いていたら、もっと聞きたくなった」


 メルタは黙っていた。


「あなたが何を面白がるのか、何を食べたいのか。仕事と関係のないことを、もっと知りたい。役に立つ話をしてくれなくていい」


 ローデリクの指が、茶碗の縁から離れた。


「私も、あなたの前でなら、何かの決裁をしていなくてもいい気がする」


 その言葉が、一番深いところに届いた。


 メルタは彼の仕事ぶりを知っている。自分に不都合な話も最後まで聞くこと。過ちに気づけば、自分の名で訂正すること。

 以前、彼が申請の締切を早めようとした際、遠い土地の家ほど不利になると指摘したことがある。彼は日数を数え直し、その場で案を引っ込めた。

 また一緒に仕事をしたい人だと思った。


 いつから、それだけではなくなったのだろう。


「……いつから、そうお考えだったのですか」

「四か月ほど前。初夏にあなたから届いた手紙を、二度読んだときかな」

「手紙?」

「追伸に、王都の菓子屋が閉まっていたとあった」


 覚えていた。

 用件の返答に添えて、よく行く店が三日休むので残念だと書いた。それだけのことだ。


「返事を書くのに、いつもより時間がかかった。三日なら待てばいい、と書きかけて、そういう返事がしたいのではないと気づいた」

「結局、何とお書きになりました?」

「こちらの店は、雨の日に休む。空を見てから行くといい、と」


 署名の後に続いた、少し小さな字まで覚えている。

 手紙を読み終えて、その日まだ見てもいない辺境の空を思ったことも。


「それから、返事が届くのを楽しみにするようになった」


 メルタは茶碗を置いた。持ったままでは、指に力が入りすぎる。


「どうして、今までおっしゃらなかったのですか」

「会うのは今回の案件の打ち合わせがほとんどだった。こちらが許可を出す立場で、あなたに私的な返事まで求めたくなかった」


 今回の合意と許可は、昨日すべて確定している。

 待っていた理由が、やっと分かった。


「あなたに以前お願いした二件の縁談は、そのずっと前に終わっている。それ以降、進めている縁談もない」

「存じています。二件目の最後のご返書は、私がお預かりしましたから」


 一年以上前のことだ。あのころの彼の手紙には、必要な事実だけが並んでいた。

 いつしか、最後に二、三行の余白ができた。

 メルタはそこを、真っ先に読むようになっていた。


「私もです」


 声が小さくなってしまった。

 ローデリクが、聞き返す代わりに待ってくれた。


「お手紙が来ると、先に追伸を読んでいました。仕事の返事は、そのあとに」


 彼の唇が少し開いた。


「それは……期待しても?」


 メルタは頷きかけ、けれど、そこで止まった。

 いつも人に尋ねることを、自分にも聞いてからにしたかった。


「少しだけ、考えさせてください。今度は、予定表を見ないで」


 ローデリクは頷いた。


「庭を歩いてくるといい。私は、ここにいる」


     ◆


 回廊へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 庭木の葉は色づき始めている。メルタは欄干に手を置いた。


 仕事は減るかもしれない。王都と辺境を行き来する暮らしが、思うようにならないかもしれない。彼の家族が、すぐに喜んでくれるとも限らない。

 好きになれば片づく問題ではなかった。


 昨日、ニーナに最後の意思を確かめたときのことを思い出す。

 ニーナは、倉庫に残りたいと言った。フェリクスも、自分の仕事を選んだ。

 二人に、もう少し相手を好きになれば解決すると言うつもりはなかった。大切にしたい生活は、人によって違う。


 ならば、自分は。


 メルタは振り向いた。

 開いた窓の向こうに、ローデリクの横顔が見えた。彼は椅子に座ったまま、庭のほうを見ている。目が合うと、姿勢を正した。


 昨夜、右の欄に一行だけ書いて止まった。その続きを、今なら言える。


 あの人と、食事をしたい。

 今日のような話し合いを、面倒がらずに重ねていきたい。

 仕事で疲れた日には、役立つ話など一つもしないで、茶を飲みたい。


 難しいことは残っている。それでも彼との暮らしを考える時間が、もう少し欲しかった。


 戻ると、ローデリクが立ち上がった。

 メルタは彼の前に立った。今度は、鞄から紙を出さなかった。


「お返事をします」


 彼が頷く。


「仕事は続けます。お受けできない相談が増えることも、暮らし方を変える必要があることも、まだ怖いです」

「うん」

「ですから、結婚のお約束は、今日できません」


 ローデリクは、静かに聞いていた。

 この先を、相手に察してもらうわけにはいかない。


「でも、あなたとお付き合いしたいです。結婚を考える相手として」


 一息に言うと、彼の顔が変わった。

 あの菓子を食べて笑ったときより、少し頼りない笑顔だった。


「……よかった」


 それだけ言って、彼は息を吐いた。


「そんなに、ご心配でしたか」

「あなたは、相手を傷つけずに断る言葉を、私よりずっとよく知っている」


 メルタは笑い、笑ったまま少し目が熱くなった。


「今日は、使いません」

「ありがとう」


 ローデリクが手を差し出した。

 メルタはその手を見てから、自分の手を重ねた。書類を受け渡すときには知らなかった温かさだった。


「私も、あなたが好きです」


 ようやく、それだけを言えた。

 条件も、但し書きもつけなかった。


 彼の指が、そっと握り返してくる。


「まず、王都へ訪ねていってもいいだろうか」

「はい。日取りは、相談させてください」

「もちろん」


 まだ決まっていないことを、二人で決める。

 その最初が、次に会う日でいいのだと、メルタは思った。


     ◆


 翌日の夕刻、メルタは宿で仕事の帳面を閉じた。

 十件目の縁談解消について、返却する書類も残っていない。明日は王都へ帰り、待っている仕事に取りかかる。


 代わりに私物の手帳を開いた。


 ――今夜、ローデリク様と食事。


 案件番号を書きかけて、やめる。

 ついでに、訪問先を書く欄の横に「好きな人」と小さく添えて、すぐ手帳を閉じた。


 誰に見せるものでもないのに、落ち着かない。


 外套を着てから、いったん脱いだ。鏡の前で髪を結び直す。普段は衣装箱にしまったままの青いリボンを、鞄から探し出した。

 仕事の道具は、今日は置いていく。


 宿の玄関へ下りると、ローデリクが待っていた。見慣れた紋章入りの上着ではなく、濃い灰色の外套を着ている。

 護衛は少し離れた戸口にいた。領主の身分まで置いてこられるわけではない。それでも、こちらを見た顔は、会議のときとは違った。


「似合っている」


 視線がリボンに向いたので、メルタは触れかけた手を下ろした。


「仕事には、少し華やかすぎるかと」

「今日は、仕事ではないから」


 そうだった。

 自分で決めたことなのに、彼に言われると、なおさら嬉しかった。


「店は、どちらへ?」

「市場の近くに。煮込みが美味しい。ただ、一つ困ったことがある」


 メルタは思わず顔を上げた。

 ローデリクは、真顔で続けた。


「仕事の話をしないで誘うのが初めてで、何を話すか、朝から考えていた」


 そんな準備をしていたのか。

 いつもは人を安心させる側にいる彼が、今日は彼女の答えを待っている。


「では、私から話しても?」

「ぜひ」

「宿で出たお菓子、真ん中でした」


 彼は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「端と、どちらが美味しかった?」

「端です」

「店主は正しかったな」


 メルタは、差し出された腕に手を添えた。


「でも、一緒に食べた方のせいかもしれません」


 ローデリクが、足を止めた。

 今度はメルタが待つ番だった。返事の言葉を探している彼の顔を、少しだけ得意な気持ちで見上げる。


「……それは、今夜も頑張らなければ」

「何もなさらなくて結構です。一緒に召し上がってくだされば」


 二人で歩き出した。市場の灯りが、通りの先にともっている。

 仕事なら、条件が整えばそこで終わりだった。

 今夜は、食事のあとにも別の店の話をしよう。王都へ戻ったら手紙を書こう。返事をもらったら、追伸から読もう。


 他人の縁談を十件、円満に終わらせてきた。

 十一件目は、仕事の帳面には載せない。


 終わらせ方ではなく、続きを考えたい縁談なのだから。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


破談をまとめるのが得意なメルタですが、自分の縁談だけは、終わらせたくなかったようです。


今回は短編として完結していますが、反応がよければ、メルタとローデリクが仕事と恋愛を両立しながら、さまざまな縁談や領地の問題に向き合う連載版も考えています。


二人のその後を読んでみたいと思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


今後の執筆の参考にさせていただきます。

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