第1話:日常の崩壊と、新しい「師匠」
ニクソンは目を開けた。
最初に感じたのは、上質なリネンのシーツの柔らかな肌触りだった。頭はひどく痛んだが、体には痛むような傷はない。
空気中にはほのかなコーヒーの香りが漂っており、彼は戸惑った表情でその香りの源を見つめた。
天井は白く、一点の欠点も見当たらなかった。
(しかし、本部の天井は白ではなく、青のはずだ……)
彼は背中に冷や汗が滲むのを感じながら、勢いよく体を起こした。
「うわっ!」
片手を頭に当てた。耳をつんざくような鳴り響く音が、まるで強烈な一撃のように頭蓋骨を貫いた。
彼は恐怖に駆られ、今朝起きた出来事を思い出した。あの混乱、血の海、そして今この瞬間、殴り飛ばしたくなるあの男の出現。
(そうだ……俺……誘拐されたんだ)
あの忌々しい殺人鬼に誘拐されたのだ。
彼は歯を食いしばり、手の下のシーツをぎゅっと握りしめた。
(くそっ……!)
怒りで肌が焼けるように熱くなった。それは、事件を知った際に抱いた最も根源的な恐怖を、心の奥底に押し込めていたものだ。
(アクレイン様、ミラー、サラ……)
ここから、今すぐ出なければならない。
◇
数時間前。
他の見習いたちが眠っている間、ニックは午前5時に一日の仕事を始めた。
隊長が最初に口にするコーヒーに、水が溜まったままの苦味が残らないよう、コーヒーメーカーのスケール除去を念入りに済ませた。コーヒー豆はちょうど中間の粗さに挽き、カップの取っ手が右を向くように並べていく。
シャワータオルは3等分に折り、まるで大理石のブロックのような完璧な白い列を作り上げた。
年下の見習いから年上の見習いまで、皆のマントや衣装の縫い目を一つひとつ点検した。また、師匠のトロフィーや表彰状が錆びて輝きを失わないよう、酢と蒸留水を混ぜた液で丁寧に磨いた。
彼はアクレインの肖像画に目をやった。どんな心配も和らげてくれるような微笑みを浮かべた顔だ。続いて、壁掛けの時計に視線を移すと、7時を指していた。皆が目を覚まし始める時間だ。
(ただ、彼らは僕ほど几帳面ではないだけだ)
早朝から彼らが引き起こす散らかりぶりは、彼を狂わせそうになるほどだった。
最初に起きたのは、彼より背の高い青年、クリスだった。大多数とは異なり、彼は有名ヒーローの息子であり、アクレインの弟子になるためにここへやって来た。見習いたちの中で最も才能に恵まれていた。
赤毛の若者は、アクレインのトロフィーや肖像画のそばにニックが立っているのに気づいた。
「何だよ? まだやってるのか? 週に一度やれば十分だろ、バカ」
「いつもきれいにしておきたいんだ」
彼はそう答え、雑巾を片付けた。クリスは鼻を鳴らした。
「今日はサラとミラーとの任務があるんだろ。何も壊すなよ、いいか?」
ニックは顔に嫌悪感を表さないように努めた。あの失敗をいつになったら忘れられるのだろうか。
「もう……ずいぶん壊してないよ。もう子供じゃないんだ」
相手は彼の頭からつま先までじろじろと見つめ、歩き出す前に彼の頭をポンと叩いた。
「っ!?」
「俺には、お前は相変わらずに見えるよ。全然成長してないな」
クリスは、他の見習いたちにカリスマ的な笑顔で手を振って去っていった。自分に対する扱いとは、まったく違うものだった。
ニックは髪を揉みながら、あの男の歯にバットを叩きつけてやりたいと願った。
(いや、感情に流されてはいけない……)
怒りでは解決しない。料理をしに行かなければ、何も残らないだろう。
本部の食堂は、男らしさと笑い声で溢れかえっていた。ニックは、山盛りのトレイを手にテーブルの端に座った。トレイには、サーモンの切り身2枚、山盛りの玄米、そしてゆで卵3個が載っていた。
「ニクソン、塩をくれ」
彼は塩入れをテーブルの向こう側に滑らせた。それは先輩であるミラーの手に捕まり、ミラーは大声で礼を言った。
ニックは人で溢れかえっているテーブルを見渡した。見習いは全部で50人いた。アクレイン氏には、ペントハウスのような快適さを備えた本部を運営するための従業員たちがいた。
彼らの目標は、独立したヒーローになることだった。そのため、彼らは休むことなく訓練に励み、見習いを卒業するためにアクレインの承認を得ようとしていた。この過程は3つの段階に分かれていた。
まず、他の見習いたちとの基礎訓練とチームでの任務。この分野で認められれば、アクレインに同行して様々な重要な任務に就くことが許される。最後に、良い成果を上げれば、単独で任務を遂行できるようになり、独立できる。
(とはいえ、僕にとってはまだ遠い話だけどな……)
と彼は考えながら、朝食の残りを平らげた。彼は依然として基礎見習いの一人に過ぎない。彼らのほとんどは子供の頃、中には赤ん坊の頃からここに来ていた。彼は6歳の時に、孤児としてここへやって来た。
彼は、新しく来た子供の一人が食べやすいように、その子の食事を切り分けるのを手伝った。その子が「ありがとう」と言ってくれたとき、彼は微笑んだ。
トレイを厨房に返すために立ち上がった。彼が一番最初に食事を終えたのだ。
しかし、本部の職員であるアレクサが、ある言葉を口にしたことで現場は一変した。
「アクレイン様からお電話です!」
「――本当ですか!?」
「――会いに行かなきゃ!」
大騒ぎになった。ニックはトレイをどこかに置き、他の見習いたちと一緒に制御室へと駆け出した。
彼は他の者たちと同じように胸を躍らせながら、巨大なスクリーンの前に押し寄せた。
クラレンスが通話に応じると、すぐに一人の顔が映し出された。行く当てもなかった彼ら全員を温かく迎え入れてくれたヒーローの顔だ。ニックの胸が高鳴った。
「アクレインさん!」
『やあ、みんな!』
堂々とした肩幅の男はピースサインを送り、彼らに微笑みかけた。
「先生!」
「本当に会いたかったですよ! どうしてもっと早く電話してくれなかったんですか!?」
「何ヶ月も連絡をくれなかったじゃないですか!」
画面の中の男は申し訳なさそうに謝った。
『す、すまないよ、みんな。ナイルの助けがあっても、仕事がかなり忙しくてね』
画面の片隅からピースサインが浮かび上がった。第2段階の修行中でアクレインに同行している見習いのナイルだろう。
『さて、どうだったみんな? 訓練がどれだけ進んだか知りたいんだ!』
「今なら片腕で20キロ持ち上げられるよ!」
「もっと速く走れるようになった!」
「装備を改良したんだ。撃つ時に詰まらなくなったよ!」
ニックの声は、ヒーローの注意を引こうと必死に声を張り上げる50人の若者たちの声に埋もれてしまった。
「あ、僕……僕は――」
「先生、お出しいただいた課題はもう終わりました」
クリスの声が、声の嵐を切り裂いた。アクレインは目を見開き、うなずいた。
『おや、20件もの任務を良好な成績でこなせるなんて予想外だったな』
「後で報告書を送りますから、確認してください」
『君の言葉を疑っているわけではないよ。近いうちに手助けが得られることになりそうだ』
「光栄です、アクレイン様」
背後で、ニックの肩が落ちた。
(いや、そんな風に考えないでおこう。クリスが次の段階に進むのは良いことだ。そうすれば、アクレインさんの負担も減る)
とはいえ、自分もその一員になりたかったのは事実だった。
数分が過ぎ、彼は話す機会を伺っていた。しかし、いつも誰かが先に口を挟んでしまい、割り込むこともできなかった。こうして1時間が過ぎ、彼はただの傍観者で終わった。
「さようなら」
アクレインは手を振り、通信を切った。
ニックはため息をつき、背筋を伸ばした。
(落ち込まないで。いつか僕も次の段階に進んで、アクレインさんとたくさん話せるようになるはずだ!)
今日はミラーとサラとの任務がある。全力を尽くして記録に良い成績を残すつもりだった。
◇
工業地区は金属的な静寂に包まれていた。ミラーとサラが正面入口から進んでいく間、ニックは外部の換気ダクトへと進路を変えた。
「一体どこにいるんだ、ニクソン? 3人で同時に侵入することになってたはずだぞ」
通信機から声が聞こえた。
「罠がないか確認中だ」
「またか? 私の体なら、ほぼ何でも耐えられるって知ってるでしょ?」
「『ほぼ何でも』だろ。用心するに越したことはない」
ミラーは自分の体を鋼のように強靭にすることはできたが、それでも弱点はあった。
「慎重すぎるよ。ただの男だ、カーネイジみたいな超大悪党じゃないんだから」
「普通じゃない。妻と娘を殺した男だ」
もはや彼は「普通の男」ではなく、殺人者だった。
ダクトの外へ降り立つと、通信機からミラーの溜め息が聞こえた。
「ああ、犯罪組織に遭遇したようだ。抑え込むのは君に任せる。壊さないでくれよ!」
「分かった」
ニックは指をポキポキと鳴らし、体を温めた。
彼は痕跡を辿り、タール塗りのシートに隠された倉庫へとたどり着いた。中に入ると、強烈な鉄の臭いが鼻を突いた。
入り口で足を止め、前方を一瞥した途端、全身が凍りついた。
(な……んだ、これは……?)
部屋の中央で、探していた犯人がコンクリートの床に横たわっていた。
ただ、その頭部は原形を留めないほど押しつぶされた肉の塊と化していた。
「うっ……」
胃がむかむかとした。彼は、服の裾に赤い血の滴を付け、血の池から歩み出てくる男へと視線を上げた。
その怪物の視線がニックに注がれた。
「おや……客が来るなんて思わなかったよ。偶然ここに来たのかい、坊や?」
男は白と黒の仮面を被っており、その目の隙間からは冷たさが覗いていた。
「その青い服を見る限り、お前はアクレインの無能な見習いの一人か? まだガキだな」
ニックは拳を握りしめた。
「なぜ彼を殺したんだ?」
「……? それは明らかだろう。あいつは犯罪者だ。犯罪者は死ぬべきだ」
「お前にも同じことが言えるのか?」
男の目に、一瞬の輝きがよぎった。
「確かに俺にも当てはまるな……だが、それを成し遂げられるのは、私より強い者だけだ」
男はニックに向かって歩み寄った。
「そういうことか!」
ニックの足が爆発的な勢いで前へ踏み出した。男は片腕を上げてブロックするのがやっとだった。ドスッという鈍い音が響き、男の腕が歪んだ。
「痛いな……ヒーローにしては、まったく容赦がない」
男はニヤリと笑った。相手が「悪」であれば血を流させることも厭わないニックの姿勢に、興奮を覚えていた。
二発目のパンチを、男はもう片方の腕で受け止めた。その腕もまた骨が砕け、肉が引き裂かれた。
「普通の人なら躊躇する。私を殺すのが怖くないのか?」
「君を病院に送るつもりだ!」
「その蹴りは弱かったな。もっと力を入れろ」
男の腕から、パキパキという吐き気を催す音が響いた。再生したばかりの骨の上で血が収縮し、一瞬で元通りの腕が再生した。
「……!?」
男はその腕でニックの肩を掴み、肋骨に強烈な膝蹴りを食らわせた。
「ぐはっ……!」
ニックは体を捻って距離を取ろうとしたが、男は素早く背後に回り込み、ニックの腕を極めて拘束した。
「動くな、骨が折れるぞ。俺のように再生できるなら別だがね」
男はニックの耳元で嘲笑した。
「君には大きな可能性があるが、まだ磨くべき点は山ほどある。あの馬鹿な師匠は、ちゃんと教えてくれなかったのか? ああ、そうだったな……いつも旅に出ているんだったな?」
「……口を閉じろ!」
男はニックの髪を強く引っ張り、露出した首筋に手を当てた。
「才能の無駄遣いだ。気に入らないな……これは俺が貰っていく」
視界が急速に暗転し、ニックの意識は途絶えた。
◇
(あのクソ野郎……俺を拉致しやがった!)
ニックはベッドから降りようとしたが、足音が聞こえて立ち止まった。
ドアが開き、シンプルな黒いシャツを着た男がトレイを持って入ってきた。トーストの香りが部屋に広がる。
「ちょうどいいタイミングで目が覚めたね、ニック。朝食だよ」
「お前……! サラとミラーはどうした!?」
「あの子供たちか? 安心しろ、手は出してしていない。興味のないものには触らないんでね」
「なぜ俺をここへ連れた!?」
男は口角を上げた。
「簡単に言えば、これからは俺が君の師匠になる。所有権の移転さ」
ニックは蹴りを放ったが、男はそれを空中で簡単に受け止めた。
「ぐっ……!?」
そのまま壁際に叩きつけられた。男の靴がニックの胸を踏みつけ、身動きを封じる。
「先生への挨拶としては感心しないな、ニック」
「先生……? ふざけるな! 俺の師匠はアクレイン・スタークだ!」
男は白髪交じりの髪を揺らし、冷ややかに微笑んだ。
「残念だが、今日から俺がお前の師匠だ。君が望もうと望まざろうとね」




