第1話:名前のないもふもふ
もふもふ森の静かな谷間に、
名前を忘れた小さなもふもふが落ちてきました。
初めての出会いと、初めての“なまえ”のお話です。
もふもふの森の奥、切り立った崖の下に広がる静かな谷間。
陽の届きにくいその場所には、折れた枝や湿った落ち葉が厚く積もり、ひんやりとした空気が漂っていた。
「あ……あれ、ここはどこだろう?」
ひどく頭が痛い……。
草の香りと土の匂いに包まれる中、小さなもふもふが、うつぶせで身を横たえていた。
「たしか……空が見えて、それで地面がなくなって……」
絡みつく葉や泥に覆われ、どこから来たのかも分からないその姿は、風景の一部のようにひっそりとしている。
「見て見て、ここだよ」
「あっ、本当だ。誰か倒れてるよ」
「あれはなに? タヌキ? イヌ? 泥だらけでわからないや」
ときおり、風が上の枝葉を揺らし、かさかさと音を立てる。
そのたびに木漏れ日が揺らぎ、差し込んだ光が毛並みにそっと触れては消えていく。
「……誰かの声が聞こえる……。いたた……」
やがて、小さなまぶたがわずかに震え、ゆっくりと開いた。
けれどその瞳には、名前も場所も思い出せない、ただ不安だけが静かに浮かんでいた。
「ここはどこ……? 森? 私は……だれ?」
遠くのほうから、かすかに草を踏む音が近づいてくる。
「君、大丈夫……?」
枝が揺れ、葉がざわつき、空気にほんの少しだけあわただしさが混じった。
「え……?」
上の方で「わっ」と羽ばたく音がして、小さな影がふわりと舞い降りる。
「大丈夫か? お前、あそこから落ちてきたんだぞ? 大声が聞こえて、みんな心配してやって来たんだ!」
それに続いて、土の上を駆ける複数の足音が、どたばたと響きながら崖の下に集まってきた。
「君は誰?」「どこから来たの?」「見かけない顔だなあ」
ひときわ明るい毛並みが風に揺れ、ぽてんと跳ねるような音を立てて、誰かが飛び降りる。
「みんな、彼はいま困惑してる! 離れて離れて! ほら、ゴンザも手伝って!」
「ポムの言う通りだ。みんなが集まって、彼が怯えている。ここは数人に任せて、あとでまた話をしよう」
そう言って、もう一人は重たそうな足取りで慎重に段差を下りながら、倒れていたもふもふへと近づいてくる。
「おいらの名前はゴンザ。……とりあえず、ポムのカフェまで君を運ぶけど、いいね?」
その後ろからも、いくつもの足音が続き、木々のすき間から顔をのぞかせる森の仲間たちの姿が見えた。
みんな心配そうに息をのんで、ただじっとこちらを見つめている。
「心配しなくて大丈夫。僕たちは、みんな家族みたいなものだから。……じゃあ、ゴンザ、頼んだよ」
誰かが声をかけた。けれど、それが誰なのか、どこから聞こえたのかは、ぼんやりとして分からなかった。
目の前には見知らぬ顔がいくつも並び、それぞれが心配そうなまなざしでこちらを見つめていた。
ふわふわの羽根、小さな耳、丸いしっぽ、大きな手――
たくさんの色と形が重なり合って、まるで夢の中にいるような、不思議な光景だった。
けれど、そのどれもに見覚えはなく、彼の言う通り、自分の名前さえ思い出せなかった。
胸の奥がぽっかりと空いたような感覚が、静かに広がっていく。
そんな中、誰かが軽い足取りで近づき、ひょいっと前に出てくる。
「んじゃ、おいらは、こいつの名前でも考えておいてやるかな! なんだか自分が誰なのか、よくわからないみたいだし!」
そう言って、鳥はもふもふの周囲を飛び回っている。
きらきらした羽根を光に揺らしながら、まるで何かを思いついたように口を開いた――その瞬間。
「もう思いついたぞ! 風のように現れたから、ルーファだ!」
「ルーファ、ルーファ、ルーファ!」
まわりの空気がふわっとやわらぎ、どこかあたたかな気配に包まれていく。
それは、名前のない小さなもふもふが、はじめて“呼ばれる”瞬間だった。
名前のないもふもふに、はじめて与えられた“ルーファ”という名前。
フワリの軽やかさと、みんなの優しさが、彼の新しい始まりを包み込んでくれました。