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混乱と、再会と①

 くろすけはちらりともこちらを見ようとはせず、祠を背にして男の前に仁王立ちになった。

 激しく背中の毛を逆立てて唸り、今までに見たことがないほど険しい表情をしている。鼻の上にしわを寄せ、吊り上げた唇の下からは鋭い牙が覗いでいるではないか。


「く、くろすけ……?」


 あまりの様相の違いに、本当にあれがくろすけだろうかと恐ろしくなる。でもあの鈴の音と首に付けた赤い紐は間違いなくあの子のものだ。それに、私がくろすけを見間違えることなんてありえない。

 くろすけの奇襲に驚いて身をかがめていた男は、それが小柄な犬だと気が付いたのだろう。すぐに立ち直り、ゆらりとその身を起こした。


「なんだ。仮宿が慄くゆえ何事かと思えばお前か……」


 男がくつくつと可笑しそうに肩を揺らすと、くろすけはますます低く唸りだす。鼻の上のしわが深くなり、いつも楽しそうに振っていた尾は威嚇するように高く上げたままだ。

 しかし男は意に介した様子もなく、笑顔を浮かべたまままた足を振り上げた。


「しかし、小さいの。今のその姿であれば何の脅威にもならん」


 そう言って男が勢いよく足を振り子のようにぶん回すのと、ぎゃんっというくろすけの悲鳴はほぼ同時であった。蹴り飛ばされた黒い小さな体は、大きく弧を描いて下草が生い茂る地面へと落ちていく。


「くろすけ!」

「あ?」


 私が叫び声をあげて地面に倒れ込んだくろすけに駆け寄ると、そこで男は初めて私を認識したように振り返った。ぎらぎらして見えた目はいつの間にか光を一切反射していないかのように真っ黒に染まっている。


「なんだ。人の娘……? どうしてこんなところに人の子がいる?」

「なんだって、そんなことどうだっていいでしょう! 一体どうしてこんなひどいことを!」

「ん?」

「私のくろすけになんてことをするんですか!」


 くろすけ、くろすけと呼び続けると、閉じて居た瞼がぴくぴくと動きだした。息はあるけれど、腹から蹴り上げられてどこか骨を折ったりしていなければいいが、いずれにせよ早くお医者に見せなければいけない。でも犬など診てくれるお医者がいるだろうか。

 いっそ人間のお医者でも、と私がくろすけを抱き上げて立ち上がろうとすると、それを阻むように男が立ち塞がった。


「我を怒鳴りつけるとは、度胸のある人の子よ。しかしそいつを連れて行かせることはできん。置いていくなら、命は助けてやろう」


 血の底から響くような、低い声が鼓膜を揺さぶる。

 これは人じゃない。本能的にそう思った。人ではない、恐ろしい何かだ。しかし足元からひたひたと這い上ってくる恐怖もあるが、ただそれ以上に私の中で許せないという気持ちが膨らんできた。

 意識が戻ったのか、腕の中でグルグルとくろすけが唸りだした。しかしやっぱりどこか怪我でもしたのか、四肢に力が入っていない。それでも必死に顔を上げて唸ろうとしているのは、何か理由があるのだろう。

 犬の言葉は分からないけれど、くろすけがあの祠を守ろうとしていることはなんとなく伝わった。ここが一体どこなのか、どうしてくろすけがやってきたのか、あの男が何なのか全く分からないけれど、きっとこの子にとってあの祠は大切なものなのだろう。

 それをいきなり蹴り飛ばすなんて、こんな小さな犬に対してなんてひどいことを。

 ぐっと私は唇を噛んだ。ふつふつと怒りが湧いてくる。


 ――絶対、許さない。


 私はゆっくりとくろすけの体を地面に下した。


「物分かりがいいと長生きするぞ」

「……生憎、ここは私の家ではありませんので、父母を前にしたときのような分別が付いているフリをする必要もございません」


 男に対してそう告げると、私は背負った竹刀袋の紐を解いた。そして革が巻かれた柄を握りしめ、一気に引き抜く。

 男の目が驚きに見開かれた。意表を突いたのだろう。男が一歩後ずさるが、その喉元をめがけて正眼に構える。


「な? 何をする気……」

「問答無用です。お覚悟を」


 私はそう言うが早いか、一気に踏み込んだ。

 男がのけ反って躱そうとする瞬間、両手で持っていた柄を片手持ちに切り替える。九朗と相対していたときより深く、強く竹刀を繰り出した。

 男の側から見れば、ぐんっと切っ先が伸びたように感じただろう。そしてそのまま私は、顎を上げた男の咽仏を思い切り突きあげた。柄を握った手元に負荷がかかるが、構わず腕をねじるように旋回させると切っ先が男の喉の下にめり込んだ感触が伝わる。

 かはっ、と男の口から乾いた呼気が漏れた。それと同時にまるでぼろきれが風に吹かれたかのように、男の体が祠の近くまで吹っ飛ぶ。

 人体の急所を強打したのだ。しばらくは起き上がれまい。いや、ひょっとすると呼吸もできなくなっているかもしれない。でもそんなこと知ったこっちゃないと思った。


「くろすけ!」


 私は竹刀を下ろすと、一目散にくろすけのもとへと駆け戻った。

 さっき地面に横たえて置いたはずのくろすけは、ぷるぷると四肢を踏ん張ってどうにか立ち上がっているではないか。小さな体がさらに小さく見えて痛々しい。


「くろすけ、くろすけ。大丈夫? どこか怪我はない? 立てるの?」


 幾分ほっとしながらも私はくろすけを抱き上げようと手を伸ばした。歩こうという素振りを見せているけれど、痛かったり苦しかったりするに違いない。一刻も早くお医者に、と思ったのだ。

 しかしくろすけは私の手をひとなめすると、よろよろと祠の前に倒れている男の方へと歩き出してしまった。一歩一歩、脚を引き摺るようにしながら祠の前までたどり着くと、くろすけはそこに倒れたまま動きもしない男に鼻を近寄せた。


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