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見知らぬ屋敷②

 小さな鈴の音に私の胸は大きく高鳴った。後ろ髪を引かれながら置いてきたあの黒犬の姿を思い出す。


「くろすけ?」


 私は大根を手にしたまま振り返った。

 あの子がいるなら、ここは花月院の屋敷からそう遠くないところなのかもしれない。そんな期待もあったのだ。

 しかしそれと同時に背筋がぞわりと寒くなった。

 あの夜、私は安間菱家のご当主と結婚するために家を出るはずだった。それがこんなところにいるということは、花月院と安間菱との約束が果たされなかったということになる。

 であれば、だ。

 光希の入内に関する援助はどうなる?

 花月院と安間菱の関係は?

 既に援助を期待して、あるいは援助を受けて父や光希の母は着物や装飾品を新調していたけれど、それはどうなる?

 不意に襲ってきた不安にのどがカラカラに乾いていく。憤怒の表情で顔を赤く染める父と光希の母の姿が脳裏を掠めた。

 これはもしかしたらとんでもないことになるのではないだろうか。こんなところを探検している場合ではない。一刻も早く花月院の屋敷に帰らなくてはいけない。


「は、履物……荷物も……」


 慌てて私はさっき自分が寝かされていた部屋へと駆け戻った。震える手で風呂敷包みと竹刀袋を掻き抱き、縁台の下に並べてある履物の鼻緒に足の指を引っ掛ける。なぜこんなところに丁寧に履物が置いてあるのかなんて考える余裕もない。

 何故かここまで握りしめて持ってきてしまった大根は、庭にある祠の前に立て駆けるように供えた。持って帰るのも泥棒のようだし、辛すぎたので食べられないけれど、ただ食材を無駄にするのも悪いと思ったのだ。

 食べかけでごめんなさい、と心の中で謝罪する。

 しかし、玄関はどこだと顔を上げるとまた、ちりんという鈴の音がした。今度は気のせいや空耳ではない。ちりちりと音が近づいてくる。


「く、くろすけ? 近くにいるの?」


 私は茫々に下草が茂った庭に向かって声をかけた。今までのくろすけなら声をかければ尾を振りながらいそいそと近づいてくるはずだ。

 でも庭の下草の葉は微動だにせず、犬の足音や尾が何かを叩くも聞こえない。鈴の音だけがやけに近いところから聞こえているだけだ。

 一体どういうことなんだろう。くろすけではないのだろうか。

 いや、それどころではなかった。早く帰らなくては。とりあえず屋敷をぐるりと取り囲んでいるであろう塀でも乗り越えてみれば、ここがどこか分かるかもしれない。

 よいしょと風呂敷包みと竹刀袋を背に担ぎ庭を横切った時だ。建物の向こう側から、ちょいとごめんなさいよ、という男の声が聞こえてきたのだ。

 静まり返った屋敷内で初めて聞こえた人間の声に、私の肩が一瞬びくりと跳ねた。

 返事をして良いか、どうしたらよいかも分からず声のする方を見やると、それまでは気が付かなかったけれど建物の庇に向こうに瓦屋根が乗った棟門らしき影がある。

 おそらく声の主もそちらにいるのだろう。判断を迷っているうちに、ざっざっと砂利を踏みしめる音が近づいてきた。聞き覚えがある声ではないが、足音が近づいてくるにつれて私の胸に言いようもない焦りが湧いてくる。

 花月院か、あるいは安間菱のお使いだったらどうしよう。

 あの夜からどのくらい寝ていたのか分からないけれど、とにかく一回帰って状況を確認したい。可愛い妹、光希の入内の障害になってはいけない。怒られてもなんでもいいから今からでも安間菱家に行くべきか。いやそもそもここはいったい何処なんだ。

 まごまごしているうちに足音がすぐ近くまでやってきて、ついには建物をぐるりと囲む縁側の隅からひょいと男が顔をのぞかせた。向こうさんも庭に風呂敷包みを担いだ女がいるとは思っていなかったのだろう。目が合った瞬間、お互いにはっとした表情のまま固まってしまった。

 不安とは裏腹に、やってきた男には面識がない。木綿の小袖を着ているけれど裾はたくし上げて帯に挟んでいるのかかなり短く、伸ばしっぱなしの髪は後ろで無造作にくくっている。あまり身なりが良いとは言えない、年の頃は三十を過ぎているだろうゴマ髭の男だ。

 少なくとも花月院の使いではないだろう。であれば、安間菱か、あるいはこの屋敷の人か。どちらかなのだろうか。

 何か聞かれたらどうしよう。私はこの家の者ではないし、ここがどこかも分からないのに。この屋敷にゆかりのある人で、勝手に入ったとか言って怒られたら。

 しかし焦った私が口を開こうとすると、先手を打つように男がほうと声を漏らした。そしてきょろきょろとあたりを見渡し、一人納得したようにうなずき始める。顎を撫でながらにやりと唇を吊り上げた顔に、私は一瞬ぎくりとした。

 にやけた表情を浮かべてはいるけれど、目がやけにぎらぎらとしている。


「これはこれは……結界が弛んでいるようだからと仮宿を使って様子を見に来てみれば、こんなところまで入れるとは。よほど力が弱まっていると見える。好都合好都合」


 男は舌なめずりをしながら庭へと足を踏み入れてきた。そして固まっている私を無視して庭を横断し、さっき私が大根を置きっぱなし、いやお供えした祠へと近づいていく。


「あ、あの……申し訳ございません、どちら様でございましょうか。ここは――」


 私は勇気を振り絞って男に声をかけた。しかし男はこちらには全く興味がないらしく、振り返りもしない。

 ずかずかと下草を踏んづけて祠に近づくと、小さな木の箱のような社に対しおもむろに足を振り上げた。


「ちょっと!」


 思わず私が大きな声をあげて腰を浮かすのと、耳もとでちりんという大きな鈴の音がしたのはどちらが先だったろう。

 突如、目の端を黒いものが掠めた。その黒いものは、良く弾む手毬のように一度地面に落ちるとすぐさま男に向かって飛んで行く。


「うわ!」


 自分に向かって突っ込んでくる黒い影に驚いたのだろう。男は振り上げた足を下し、両手で頭を覆った。影はそのまま男にぶち当たると、ガウっという声を上げて祠と男の間に落ちていく。

 そして地面にすっくと立ちあがったその黒い影を見て、私は息を飲んだ。ピンと立った三角の耳、ふさふさの尾、黒いくりくりの眼、そして首元に赤い紐。

 じわっと目頭が熱くなる。


「くろすけ!」


 そこにいたのはあの夜、どこかでかわいがってもらいなさいと念じ木戸から外へ出した黒犬、くろすけだったのだ。

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