見知らぬ屋敷①
「花月院の直系のはずが、なんでお前は異能を持たずに生まれてきたのだ」
十歳のころ、病床にあった母が亡くなった瞬間に父はそう言って私に背を向けた。
古くから異能を持つ血筋と言われ、国の要職についていた花月院家。その直系の父と傍系の母との間に生まれ、さぞ強力な異能を持っているに違いないと期待されていた私は、十歳を超えてなお異能を発現することがなかった。
父はさぞがっかりしたことだろう。いや、実際大層がっかりしていた。
待望の我が子が女となれば、高位の貴族が何を思うかは想像に難くない。娘を天子様やそのお子様方の下へと入内させ権力の座を狙うという出世方法は、この国では古来からの常とう手段である。
娘がなんらかの異能持ちであれば希少価値が高く、寵を得る可能性が跳ね上がる。
と、父は目論んでいたのだろう。
光希のように雨を降らせる異能の他、火を使わずに燭台に炎を灯せる異能、ただの水を甘く感じさせる異能、家に住み着く小さな物の怪を感じることができる異能など、花月院の者は十歳を前にほとんどの者が大小さまざまな異能を発現する。ちなみに父は人の黒い気を感じることができるそうで、朝廷ではうまく立ち回っているらしい。
そのような異能は血が濃いほどに強くなると言われており、花月院家は近親婚を繰り返した。
私の母は花月院家の傍系の出であり、父の従姉妹にあたる。その娘であればどれほど強い異能を持つかと父に期待されていたというのは、まあ今聞けば分からなくもない。しかし私はついにそれを発現することがなかった。
ただそれだけであれば母亡きあと、私が離れに閉じ込められることはなかっただろう。
母の葬儀から幾日もしないうちに、屋敷には母によく似た女性と小さな女の子がやってきた。
その女性が母の結婚とほぼ同時期に父に差し出された母の双子の妹で、女の子の方が腹違いの妹――光希だと知ったのはそれからすぐのことだ。夜、喉が渇いて厨にいった時に女中たちがこそこそと話しているのを聞いてしまったときのことは良く覚えている。
そして私と同じ血の濃さを持った妹の光希は、屋敷に来てすぐの八つの頃に己の涙で雨を降らせる異能を発現した。途端に父は光希の母を後妻に迎え、光希を蝶よ花よとかわいがった。反対に私は用済みとばかりに離れに閉じ込められることになったのだ。
★
お姉様、と初めて屋敷にやってきた光希が私に向かってにっこりと微笑んでいる顔が徐々に遠ざかった。代わりに辺り一面が渦巻く黒い靄に覆われ、その渦の中心にある金色の瞳が近づいてくる。
怖い。
しかし体は金縛りにあったように身じろぎ一つできない。意識はこれほどはっきりしているのに、指一本も動かせないことがもどかしい。
きっとあの黒い奴は人を食らう物の怪なのだろう。私を贄にすると言っていた。
せめて口を開けることができたなら、喉笛に噛みついて刺し違えてやるのに――。
「来るなら来い!」
口をついて出てきた台詞は思いのほか大きく、体を内側から揺らす。その瞬間、私の視界が一気に晴れた。はあはあと自分の荒い息遣いがうるさいほどに響いている。
「……え?」
視界いっぱいに広がっていたのはこげ茶色になった木目が美しい天井だった。はっとして私が跳ね起きると、体にかかっていた軽い上掛けがばさりと音を立ててはだけた。
音に驚いて辺りを見渡すと、どこかの室内らしい。一瞬嫁入りの話や黒い影などが全て夢だったのかと胸をなでおろしかけた。
でも着ている着物はあの時の「手持ちの中ではちょっとマシ」というやつだ。それに気が付いた私はゆっくりとまた辺りを見渡してみた。
殺風景な内装はずっと住んでいた屋敷の離れの小屋を思わせたが違う。置いてあったはずの鏡台や文机がない。雨戸もしまっていて薄暗いけれど、どうやら板の間の部屋の真ん中に敷かれた布団の上で寝かせられていたらしい。
枕元には手荷物をまとめた風呂敷包みと竹刀袋が並べて置いてある。愛刀が近くにあるということが私の気持ちを落ち着けた。
しかしこれがあるということは、あの風や黒い影のような物の怪は夢ではなかったということだろうか。
「……待って、じゃあ、ここ、どこ……?」
上掛けを剥ぎ自分の手足がちゃんと付いていることを確認した私は、そうっと雨戸に近づいてみた。音を立てないようにゆっくりと雨戸をずらし、外を覗いてみる。
うわ、と私は目をすがめた。
薄暗い室内からは分からなかったけれど、外は燦々と太陽が照り付けている。もうかなり日が高く昇っている時間なのだろう。一体何刻眠り続けていたんだ。そう思うと途端にお腹がすいてくる。ぐるる、と腹の虫が鳴りだした。
空腹を覚えながら雨戸をあけて外に出ると、そこは中庭なのか庭園が広がっていた。しかし手入れはされておらず、下草が茫々と生い茂っている。その向こうに小さな祠のようなものが見えたが、それも手入れはされていないようだ。
一歩足を踏み出すと、縁側の床板がところどころ朽ちていることにも気づく。屋根や雨戸の内側にあるふすまはまだ穴などが見当たらないのであばら家とまではいかないが、建物自体は相当古そうだ。
一体どうして私はこんなところにいるんだろう。
辺りに人の気配がしないのをいいことに、私は建物の中を探検してみることにした。現状の把握をしたいというのと、水や食料の有無を確認したかったのだ。
しばらく屋内をうろつくと、厨にたどり着いた。中を覗くと、釜に置かれた籠には葉物野菜や大根、人参、そして米が乗っている。
「古い? いや、古くない。新鮮。ってことは、人が住んでるのかしら」
誰かいるのであればこの状況について尋ねたい。そう思ってまた建物の中をうろうろと歩いてみたけれど、さして広くない建物の中をぐるりと回っても誰にも出会うことがなかった。
ぐるる、と腹の虫の自己主張が激しくなってくる。何かつまませてもらって後で何か仕事をして返そうか、とあまりお行儀の良くない考えも浮かんでくる始末だ。
いやいや良くない。
「どなたか、どなたかおられませんかー?」
僅かばかりの自制心でつまみ食いを我慢しながら、私は建物の内外に聞こえる程度に呼びかけた。しかし帰ってくるのはしんとした静けさだけで、葉擦れの音すら聞こえてこない。
困った。
私は厨の水桶をひしゃくですくいながら、釜の上の食材に目をやった。
お腹は減っている。
が。そこにあるのは米と野菜のみ。
つまり、すぐ食べられるものではない。つまみ食いをさせてもらうにも、調理の必要がある。
しかしだ。私は調理ができない――したことがないのだ。
困った。
私は今までの人生を振り返りつつ肩を落とした。
「お福さんや九朗に、教えてもらえれば良かったんだけど……」
しかしそれは無理だったことだろう。父と光希の母は私を離れに閉じ込めて、そこで暮らすことを強いた。その生活の中、掃除や日用着の繕い物などは幼い頃に実の母が教えてくれたのを思い出しながら一人でできた。
しかし調理だけはしたことがないし、させてもらったことがなかったのだ。
父曰く曰く、離れで調理などして火事を出されては困るからとのことだったけれど、本当のところはどうだろう。蝋燭や行灯に火をともすことは許されていたのだから、火事がどうとかというのは嘘かもしれない。
餓死されては困るとでも思ったのか、ただ朝に晩に、必要な食事は母屋からお福さんが機械的に運んでくれていた。夜の間は時折九朗が差し入れてくれた夜食もあった。
おかげで離れには竈がなく、お湯一つ沸かすことができなかったっけ。
昔読んだものの本に寄れば米は水と一緒に火にかけると書かれていた気がする。やってみるか、と鍋を片手に米とにらめっこをした私はすぐに挑戦を諦めた。
だって火種になるものがない。竈はあるが薪もなければ炭もないのだ。これでは私に調理の経験があっても、煮炊きすることなどできない。
「でも、葉野菜や大根くらいなら生でもかじれるかも……?」
空腹に耐えかねてちらりを見た大根は、みずみずしく皮にも張りがある。うーん、と一瞬悩み、私は大根を両手でつかみ上げた。
ぼきっと中ほどから二つに折り、片方にかじりつく。白く光る大根に歯を当てるとしゃりっと音を立てて水気がほとばしる。途端に強烈な刺激が口内いっぱいに広がった。
「うわ。生って、辛い……」
初めての刺激に私は口をゆがめた。
慌ててひしゃくの水を口に運んでゆすぐが、まだぴりぴりと舌がしびれる。ひいひい言いながら何度か口をゆすぎ、ようやく落ち着いたころ。
背後からちりんという耳慣れた鈴の音が聞こえたような気がした。