月夜に紛れた闖入者②
やあ目出度い。
なんて嘘くさい笑顔で父が告げると、屋敷の正門が仰々しく開けられた。
侯爵家の娘の嫁入りだというのに、見送りは父と妹、そして私を呼びに来たお福という女中のみ。父の後妻は玄関近くの応接室の窓からこちらを見下ろしているし、他の使用人達は少し少し離れたところから戦々恐々といった風に伺っている気配がある。
ちらと見えた後妻の指には、大きな宝石が付いた指輪が光っていた。この婚儀、いや光希の入内に間に合わせて作ったのだろうか。安間菱家からの援助額が相当大きかったということかもしれない。
まじまじと見ていては腹立たしさが増しかねず、私はさっと目を伏せて屋敷に向かってお時期をした。
表に出ている父もいつの間にか紋付を新調している。真新しく折り目がついた袴を着て、父はいつものように偉そうにあごひげを撫でつけた。
「安間菱のご当主はお前の到着を大変楽しみにしていらっしゃるそうだ。侯爵家の名に恥じぬよう、安間菱家の妻となったら存分にお仕えしていくように」
「……承知いたしました」
「婚儀を済ませた後は我が家の敷居をまたぐことはさせぬ。出戻りなど、花月院の家名に泥を塗るようなことは――」
「決してそのようなことは致しません」
身売り同然の結婚だということは分かっている。見える範囲で安間菱家からの援助の大きさを知った私が、帰ってくることなどできるはずもない。私は奥歯を食いしばって腹に力を込めた。
正門の向こうに見える一台の馬車は安間菱家の迎えだろうか。満月に照らされた金色の車体は仰々しく、そしてけばけばしく光っているように見える。その馬車の扉を、格式ばった洋装に身を包んだ執事らしき男性が開けた。
――あそこに乗り込めば、私はこの家から出ていける。
苛烈ないじめを受けたわけでもない。しかし侯爵家の娘としての扱いを受けず、ひっそりと離れの小屋に閉じ込められていた日々を思えば、この婚儀は家から解放される喜ばしいことのはずだ。
でも、行先は財閥家とはいえ年寄りの後妻。聞くところによれば夫になる当主には、私より年上の娘や息子が数人いるという。金で買われたような年若い後妻など、ひょっとしたら召使扱いかもしれない。
しかしもう決まったことである。
私は父の隣で唇を噛みながら必死に涙を堪えている光希を振り返った。
あの子をつつがなく入内させるためにはこうするしかない。異能を求められての婚姻だろうけれど、きっとあの子の容姿や優しい性格は皇子様に深く愛されるだろう。幸せになってくれればそれでいい。
「それでは、お世話になりました……」
仁王立ちになった父に頭を下げ、手荷物を抱え直す。すると紐をつけてて肩から斜めに下げた竹刀袋に気が付いたのか、父が手を伸ばしてきた。
「こんなもの」
持っていくなというのだろう。しかし嫁入り道具もなく手荷物も極少なのだから許してほしい。私は父の手から逃げるように一歩後ずさった。
「これは杖代わりでございます。あちらについて、駄目だと言われるまではお許しください」
「竹刀など物騒な」
「安間菱様に駄目と言われたら諦めます。せめて向こうのお屋敷につくまでは持たせてください」
父の手から竹刀を庇うように身をよじっていると、伸ばした父の手を光希がそっと制した。
「おやめになってください、お父様。お姉様から、大切なものをこれ以上……」
父を見上げ懇願した光希は、そのまま私へと目を向けた。潤み切った瞳はもはや決壊寸前だ。良い月夜だというのに、空にはうっすらと雲が湧き遠雷の音が聞こえ始めている。
泣かせてしまってはいけない。私は無理やり笑顔を作った。
「お姉様……」
「ありがとう、光希。貴女もどうか、幸せになってね」
「お姉様! お姉様、行かないで! 私、私……!」
感極まったように光希が叫ぶと、その両目から大粒の涙がひとつこぼれた。
ごろっという雷の音が近くなる。突如、北から強い風が吹いた。
まずい。私は光希に駆け寄って頬を伝う涙を拭う。そしてそうっと愛しい妹の肩を抱いた。
しかし北風はおさまらず、ますます強くなっていくではないか。これはおかしい、と私は北の空を見上げた。
初夏になるというのに、季節外れもいいところだ。光希の心が乱れているせいだろうか。強い風に髪を煽られながら、私は光希の肩に回した腕に力を込めた。
「泣かないでね、光希。今までありがとう。大丈夫、私はどこにいてもかわいい妹の幸せを願っています」
「お姉様……」
そっと私が光希から体を離すと、彼女も合わせて身を引いた。こちらに向けている顔は、泣くのを一生懸命堪えているようで鼻も、目元も真っ赤になっている。
まるで子供のようなこの妹の顔。きっと見納めになるだろう。
私は静かに礼をすると、門の向こう待ち構えている馬車へと足を踏み出した。すると、吹いていた北風がさらに強くなった。
ごう、と音を立てて風が吹くと、庭木が激しく枝を揺らす。荒れすぎだ。
光希の涙のせいかと思えば、彼女もこの状況に驚いたように目を丸くして空を見上げているではないか。そういえば、さっき湧いていた薄雲はすっかり晴れており、月光は燦々と降り注いだままだ。
しかし雷の音はどんどん大きくなっていく。そして雨を降らす分厚い雲もなくただひたすらに吹く強い風は、光希の母が覗いていた窓の硝子を叩き、木々から若葉を散らしていった。
やっぱりおかしい、と私は強風の中で足を踏ん張った。光希は雨呼びの異能があるけれど、いつもの彼女の能力であれば大雨にはなってもここまでの強風はない。
ではこれはいったい、と思った瞬間、待てという低い男の声が頭上から聞こえた気がした。その声に、私と父が辺りを見渡したその時だった。
すさまじい轟音とともに稲光が走った。
地響きと同時にびりびりと振動する空気が肌を刺す。私は立っていられず、咄嗟に耳を塞いでその場にしゃがみこんだ。
近いところに雷が落ちたのだろうか、恐怖で膝ががくがくする。建物の近くで「きゃあ」と女中の悲鳴が上がった。
「お福……!」
聞き覚えのある年増の女中の声に、私は顔を上げた。するとだ。
屋敷の前、しゃがみこんだ父の背後に、小山のように大きな黒い影が現れたのだ。
小山のようにというのは比喩ではない。人を招く際に威厳が保たれるようにと建てられた、屋敷の半分はあるような大きさだ。
その影の中心に、金色に光るものがある。それが生き物の瞳に似ていると気が付いたのは、ぎょろりとこちらに向いたからだ。目が合ったと思った瞬間、私の体はその瞳に射すくめられたように動かなくなる。
物の怪だ、という誰かの声が遠くに聞こえた。
しかし屋敷の誰もが強風と雷鳴に恐れをなし地面に這いつくばっている。そして動けなくなった私の体はふわりと宙に浮き、黒い影に引き寄せられた。
「な……なに……」
かろうじて絞り出した声は掠れていた。じいっとこちらを凝視する金色の瞳に、今まで感じたことのない恐怖が喉の奥からせり上がる。
お姉様、と光希の声が聞こえた。駄目だ、来ちゃいけないと必死に首を振ったつもりだけれど通じたかどうか。いや、動けていたかも怪しい。
宙に吊り上げられた私の体が十分に黒い影に近づくと、影は大きな獣の形へと姿を変えた。
立ち上がった耳、つんと尖った鼻、そして地面に大きく広げた四肢と宙を揺らぐ尾。背の一部から赤い帯のようなものがたなびいている。
閉じていた獣の口が開くと、そこからは真っ赤な舌と唾液が滴る白い牙が覗いた。
ひ、と私の喉が鳴る。
『久しく訪れた良い月夜に嫁入りとは好都合。この娘、我が贄とする』
頭に響くそんな声を残し、獣は地面を蹴って飛び上がった。もちろん私の体もそれに合わせて宙を舞う。お姉様と呼ぶ光希の声がどんどん遠ざかっていくのに、返事をすることも、悲鳴で応えることもできなかった。強い風に嬲られ、呼吸もままならない。
そしてじろりと金の眼に睨まれた私は、空高く吊り上げられた瞬間に気を失ってしまったのだった。