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月夜に紛れた闖入者①

 私が縁談を受け入れたことで、輿入れの日はそれからすぐの満月の夜に決定した。座敷で話を聞いてからわずか五日後のことだ。どうせ私達に話をする前に示し合わせていたのだろう。初めから拒否権などなかったということか。

 そして今夜はいよいよ輿入れだ。日中の行事にならなかったのは、お相手である安間菱のご当主がご多忙だったからという一方的な理由だったが、父も快諾したということは私をこっそり家から出したかったのだろう。

 日も暮れ始めてもうじき出立と聞き、私は風呂敷の上に持っていくための手荷物を重ねながら部屋の中を見渡した。

 最低限の箪笥と文机、そして小さな鏡台しかない部屋でも十年過ごせば愛着がある。しかし持っていくことを禁じられてしまった以上は残していくほかない。

 それでも風呂敷包み一つ分は良しと言われたので、私は箪笥の中にしまってあった一番マシな木綿の着物と母の形見の帯留め、そして櫛を持っていくことにした。


「あとは、と……竹刀は持って行っていいかなぁ」


 誰に聞くともなく口にした言葉は、がらんとした室内に思いのほか大きく響いた。日暮れ以降、普段であればそれに対して九朗が何らかの返事をくれたところだろう。

 しかしあの日以来、九朗は私付きから外されてしまったようで姿を見せなくなっていた。それと同時に日中は庭にいることが多かったくろすけも見かけない。持っていくものの相談や荷造りなどを手伝ってくれる人もおらず、私はしょんぼりと手元に転がる竹刀に目を落とす。

 柄と剣先を覆う革は薄汚れており、刀身部分もすっかり日に焼けているが愛用していて手に馴染んでいるものだ。手放してしまうには心の準備期間が足りなすぎる。

 私は柄を握り竹刀を持ち上げた。馴染み切った重さを感じると、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。九朗と打ち合った景色が遠い記憶のように脳裏をよぎった。

 思えば母を亡くしこの離れに閉じ込められていて辛いと思ったことがあまりなかったのは、九朗がいろいろ世話を焼いていてくれたからかもしれない。食事を運んでくれたり、身の回りの世話をしてくれるほかに、寝る前に絵本を読んでくれたり剣を教えてくれたりといったすべての思い出が懐かしい。

 決して高価なものではないが、竹刀さえあれば少なくとも稽古の日々を忘れることなくいられるだろうか。

 駄目と言われるのを覚悟して私は竹刀袋に長い刀身をしまった。安間菱のご当主だって、身一つで嫁ぐ妻の大切なものを取り上げるほど業腹ではないと信じたい。


「最後にひと稽古、しておきたかったな」


 竹刀袋を抱きしめると、九朗のざんばら頭が目に浮かんで鼻の奥が痛む。

 軽口ばかり叩く男だったけれど、一人で寝起きするこの離れで私が心細くなることなく過ごせたのは彼のおかげでもある。

 長年世話になった礼くらい言わせてもらいたかったのに、どうして九朗は来てくれないんだろう。もしかしたら父に辞めさせられたのだろうか。だとしたら、もう彼には一生会うことはできないだろう。

 目頭が熱くなる前に辞めなければと天井を仰ぐと、ひんという犬が鼻を鳴らす音がした。


「くろすけ?」


 ここ数日姿を消していたというのにどうしたことだろう。私が慌てて縁側に出ると、そこにはうっすらと埃や蜘蛛の巣を被った黒犬が座っていた。つぶらな黒い目がじっとこちらを見上げている。どこかで遊んででもいたのだろうか。

 くろすけは私と目が合うと、ぱたぱたとせわしなく尻尾を振り始める。私は縁台から庭へ降り、くろすけの前にしゃがみこんで頭や背についた埃と蜘蛛の巣を払った。


「こんなに汚れて、お前どこへ行ってたの? おなかは減ってない?」


 何か食べもの、と部屋を振り返るがもちろんそこには何もない。今夜はお福さんも夕餉を運んでくれるわけではないので、くろすけに分けてやれるものがないのだ。

 それに今この犬に食べるものを与えたとしても、明日以降は私がここにいられない。私がいなければお福さんも九朗もこの離れへは足を踏み入れないだろうから、くろすけは飢えてしまうかもしれない。まさか犬を連れて輿入れするわけにもいかない。

 うーんと一瞬考え、私はくろすけを抱きかかえた。庭を抜け、屋敷をぐるりと囲んだ塀に沿って裏木戸まで向かう。

 抱いたくろすけの体は温かく、軽い。そのぬくもりに、この数年間の思い出があふれてきそうになり私は無理やり思考を切り替えた。決意が揺らぎそうになるのが怖かったのだ。

 裏木戸まで行くと、私はくろすけを下し髪を結っていた紐をほどいた。そしてその赤い紐をくろすけの首に巻く。蝶結びではすぐに取れてしまうかもしれないけれど、なんとなく最後の贈り物をしたかった。

 くろすけを抱き寄せ、紐の結び目に額を押し当てこれまでの感謝と今後の幸せを念じる。


「さ、お行き、くろすけ。よそのお家でかわいがってもらうのよ」


 最後にくろすけの丸っこい頭をひと撫でして立とうとすると、つんっと袂が何かに引っかかったようだ。見ればくろすけが着物の端をくわえている。そのまま木戸の外へと私を連れ出そうとしているように引っ張り始めた。


「駄目よ、行けないわ。私、今夜お嫁に行かなければいけないの。私がいなくなったら、みんなに迷惑が掛かってしまう」


 私はくろすけの口元に手を当てた。引っ張ってしまって着物に穴で開いていたらと一瞬心配もしたけれど、くろすけは歯を立てないようにくわえていてくれたらしい。ちょっとだけ抵抗するように口を閉じていたけれど、私がお願いと繰り返すとくろすけはそうっと口を開けた。

 上目遣いでじっと見つめられれば、鼻の奥がつんと痛くなってきた。

 ぐずぐずしていては未練が残ってしまう。

 じゃあね、と半ば押し出すようにくろすけを外へやった私は涙が出てこないうちに木戸を閉めた。袖や帯揚にくろすけの細い毛がくっついてしまっているのに気づくと、ぎゅっと胸が痛くなった。棘のように刺さっているそれらを払い落とさずにいられるわけはないのに名残惜しい。

 あの子はかわいい子だし、数日姿を現さないこともあったくらいだ。きっとどこかほかのお家にもお邪魔して、かわいがられていたに違いない。そう自分に言い聞かせ、足早に離れの庭に戻る。

 でも、いくらそう思うようにしたって寂しいものは寂しい。離れに閉じ込められた暮らしは不自由ではあったけれど、十年も暮らした情がある。それらと離れなければいけないことがこんなにつらいものだとは思わなかった。

 庭に戻る頃には両目から涙があふれてくるのが止められなくなっていた。拭っても拭ってもぽろぽろと涙がこぼれる。縁台に座った私は、擦りすぎてはいけないとは思いながらも何度も着物のたもとで目元を拭い続けた。

 しかし名残を惜しむ時間は長く残されてはいなかった。

 まだ涙も乾かないうちに渡り廊下を閉ざしていたふすまが開き、そこからこちらへ入ってくることもなく女中のお福さんが「お時間です」と告げたのだった。

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