姉の嫁入り、妹の婚約①
まだ空に溶け切っていない白い月が西に見える早朝。ぱしん、と竹の打ち合う音が離れの庭に響いた。
帝都の中心地に構えられた花月院侯爵家の屋敷は広く、敷地の隅に建てられた離れの小部屋はたくさんの庭木に囲まれている。
侯爵家長女である私、花月院朔乃が住んでいるのは母屋から隔離されているこの離れだった。
家族が住む母屋との渡り廊下は細く、長い。
客どころか親が訪ねてくることすら稀な離れで、私は一人の青年に向かって竹刀を構えていた。
「手打ちになってるぞ、お嬢さん」
「くっ……!」
振り下ろした切っ先の向こうでは、ざんばら髪に質素な洋装を着た青年が、へらへらと笑いながら手を振っている。小憎らしいこいつは九朗という私の護衛兼下男だ。
「こんの……、ちょこまかと!」
「おっと、あぶね。だから手打ちになってるって言ってるだろ? 興奮するとすぐそれだ。もっと腰入れろ」
「うるっさい!」
ぱちっと切っ先が弾き返され、私は大きくのけ反った。でも下げた片足にうまく体重が乗る。袴を翻して着地した私は竹刀を中段に下し、すぐさまそれを突き出した。
「はっ!」
「甘い」
思い切り踏み込んで繰り出した突きを躱した九朗は、体捌きだけで私の側面に回り込んだ。あ、と思う間に首元に九朗の竹刀が這わされる。冷やりと背筋に汗が伝った。
眼前に迫った九朗が色素の薄い瞳を細めてにやりと笑う。とんとんと首に当てられた竹刀から振動が伝わり、私は構えを解いた。終わりの合図である。
「お嬢さん、今日死んだの十回目ね」
勝ち誇ったように竹刀を下ろした九朗の顔は汗一つかいていない。悔しい。私は地団太を踏みながら指で九を作った。
「九回目!」
「変わらんだろ。頭に血が上りすぎてて動きが雑になってる」
「変わる! 十回も負けてない!」
「あー、もう、わかったわかった。九回な。お嬢さんは今日九回あの世に行った、と」
「行ってない!」
本当に悔しい。揶揄うような九朗の言葉にいちいち怒鳴り返す自分も子どものようで恥ずかしい。はあはあと私は肩で荒い息を吐いた。
十歳の頃に母が亡くなり、この離れで過ごすようになって早十年。使用人達が寝ている夜中だけという契約で護衛兼下男兼見張り役として付けられた九朗から、月に数回ではあるけれど運動がてらに剣術を教わり始めてもう九年になる。
構えや振り方から始まった稽古は今では実戦さながらの打ち合いになっているが、師弟の壁とやらは厚くて高いらしい。今日も一本すら取れずに終わってしまった。
歳なんてほとんど変わらないのに、どうしてこんなに差があるんだろう。性別による筋力の差か、それとも他の才能の差か。
私はたすき掛けをして袖から露になった二の腕をつまんでみる。
ぷにっとつまめた肉は薄く、やわらかい。対する九朗の二の腕は、シャツの袖に隠れてしまっているがそれほど太くなく見える。身長だってそんなに変わらないというのに。
解せない。そのうちこの家を出て、剣術道場を開くかどこかの奥方やご令嬢の用心棒件女中でもやろうかと思っているのに、このままでは実力不足だと言われてしまいかねない。
「九朗に勝てなければ剣術で身を立てることなんてできないわね」
「いくらお嬢さんが筋がいいとはいっても、女が剣で身を立てられるわけないだろう? そこいらの子どもと変わらないくらいの背丈のくせに。お嬢さんはいいところに嫁に行ければいいんだよ」
「身長なんてこれからきっと伸びるわよ。それにお父様が私の縁談でいいところなんて探すわけないわ。どうせ持参金もないんだから、一人で生活できるようになっておかないと」
「じゃあせめて俺には勝てるくらいじゃないと。ま、もうしばらく無理だろうけど」
「く……」
悔しすぎて頬を膨らませていると、はははと笑いながら縁側に竹刀を置いた九朗はすぐさま湯飲みに水を汲んで私に差し出してきた。
礼を告げて口を付けると、気が利くことに湯飲みの中は冷茶だった。途端に喉の渇きを自覚し、煽るように一気に飲み干す。
ひんやりした感覚が喉から胸、腹に広がった。清々しい気持ちになると同時に、すうっと汗が引いていくようですっきりする。
私は湯飲みを九朗に返し、大きく伸びをした。
「少し時期が早いようだけれど、冷たいものはいいわね」
見上げた空では東側に見える山際から太陽がすっかり顔を出している。庭木の若葉が少しずつ色を濃くする季節が近づいてきているせいか、早朝だというのに肌を撫でていく風がほんのりと温かい。
気持ちいいなあと私がもう一度伸びをすると、お嬢さんと言って九朗が手ぬぐいを渡してきた。
「いくら季節がいいからと言っても汗が冷える前に着替えたほうがいい。朝餉のあとは旦那様たちに呼ばれているだろう?」
「え? ああ……」
程よい、いやちょっと激しい運動をして気分が上がっていたというのに、九朗のその一言で気持ちが一気にしぼむ。
昨晩、普段は滅多に顔を合せようとしない父とその後妻である母から、女中を通して一筆箋で言伝があったのを思い出したのだ。
「わざわざ呼び出しなんて珍しい。一体何の用なのかなぁ」
「さあね、俺に分かるわけないさ」
独り言のような私の問いに、九朗は肩をすくめた。湯飲みを盆に戻すと、それを持ってくるりと背を向ける。
「とりあえず汗かいたままで旦那様のところには顔出せないだろう? 俺は今日、これで帰るけど、稽古前に一通り着物は出しておいたから」
「はいはい」
「髪もちゃんと櫛を通しておけよ? うまくできなかったらお福さんにやってもらえるといいんだけど」
「お福さんは私と口も利かないの。そもそもそんなことのためにこっちに入ってきやしないわ。」
女中たちをはじめとする使用人達は、私が住む離れへは近づかない。目も合わせないし、口も利かない。私をまるでいない者、見えない者として扱っているようだった。――九朗以外は。
手を振って世話焼き下男をしっしと追い払うと、私は縁台に飛び乗った。背後では九朗が「こら」と声を上げたけれど構わず部屋へと向かう。
無視され続けている私が母屋へ行くのは久しぶりだ。
部屋へ向かう途中、たすきをほどいて髪も下すと、それまで露になって風を感じていた肌に蓋がされたように暑くなった。閉じ込められたこの離れの中では気ままに暮らせているものの、ここから外に出ていくとなるとそうもいかない。
面倒くさいけれど遅れたら父とその妻に何を言われるか分からない。理不尽なことには慣れたつもりだったけれど、それでもやはり気が滅入る。ただ、妹に会えるかもと思うと少しは気がまぎれた。
稽古着にしている簡素な着物から手持ちのなかでももう少しマシなものに着替えていると、縁側の外でちりんと鈴の音がする。
数年前に迷い込んで以来住み着いた黒犬が、朝ごはんの気配を察して出てきたのだろう。日中は暇になると部屋へやってきて、私の膝に乗って昼寝をするかわいい犬だ。
「くろすけ来た? ちょっと待っててね。もうじきお福さんが朝餉持ってきてくれるから、その後分けてあげる」
私は縁側に向かってそう声をかけると、大急ぎで帯を締めたのだった。