妖異の急襲①
月の灯りもなく、いつもなら九朗が灯してくれている灯りもなく、駆け込んだ部屋は既に真っ暗だった。
手探りで竹刀を手に取ると、私はまた庭へと転がり出た。屋敷を覆う空気は重さを増しており、見上げた空は真っ黒な煙が立ち込めているようだ。先程まで見えていた星もその姿を消し、辺りは闇の色に染まっている。
「九朗! 九朗! いないの? 九朗!」
私は竹刀を中段に構えて叫んだ。今夜は月が出ていない。ということは九朗は小さな犬の姿のままかもしれない。物の怪に取りつかれた男に蹴り上げられたくろすけを思い出すと、胸が痛む。あんなこと、二度とさせない。
しかしその間もずっと私の体はぞわぞわと鳥肌が立ったままだった。怖気が走るというのはこういうことか。丹田に力を籠めようとしても、体の奥から不快感が沸き上がって止まらない。
この間の、迷い込んできた男が発した気配とは明らかに強さが異なっていた。
視覚が頼りにならない暗がりの中、私は必死に耳をそばだて深呼吸を繰り返す。聴覚、嗅覚、そして肌に触れる空気の流れ。異変を逃すまいと全神経を集中する。
その私の耳が、クウという小さな犬の鳴き声を拾った。
「くろすけっ?」
私が鳴き声のする方へ振り返ると、それを見計らったかのように何かが顔にまとわりついた。
「くっ!」
蜘蛛の巣を被った時のような不快感だ。口や鼻を塞ごうとする何かを無我夢中で振り払う。時折腕や竹刀に何かが当たったけど、そんなの気にしていられない。鬱陶しくまとわりついてくるものを払いながら私は薄目を開けて声の主を探した。
「くろすけ! いるの!?」
何度か顔を拭った後だ。またクウと小さな鳴き声が聞こえた。同時にくろすけにぶら下げている鈴がりんと音を立てる。音を頼りに私が一歩進むと、目の前にぼやっとした青い光が浮かんだ。
庭ではいつの間にか黒い靄がいくつかの塊に分かれて人型を成している。その人型の一つ一つの胸にぽっかりと浮かんだ光のおかげで視野が明るくなったのはありがたい。しかし私の目は人型の隣につるし上げられているくろすけに釘付けになった。
もがいたあとだろうか、くろすけの姿はぼろぼろだ。
「くろすけ!」
私は小さな黒犬を吊るしている人型の靄を竹刀で薙ぎ払った。しかし靄は靄で実体がない。ふわりと霧散したかと思うとすぐまた集まってひとつの塊となってしまう。
くそう、と私は竹刀を何度も振り回した。そのたびに靄はふわふわと散り、そしてまた固まる。
まるで嘲笑われているかのようだ。埒が明かない。
ええいままよ、と私は竹刀を大ぶりに一閃させた。風圧で煙が揺らぐように、靄が散り散りになる。その隙に私は体ごとくろすけの元へと飛び込んだ。
両腕を伸ばして黒犬の体を抱きかかえると、そのまま靄の向こう側へと倒れ込む。むき出しの土に頬が擦れたが、腕の中の犬の体温があることにほっとして私はまた竹刀を構えた。
「月の弱い夜を狙ってくるとは、卑怯な物の怪め。私が相手になってやる!」
私がそう啖呵を切ると、背後にかばったくろすけが小さく唸った。応援か、いやこれはきっと抗議だな。九朗が眉を吊り上げて怒っている様子が目に浮かぶが、戦わなければいけない今の状況で戦えるのは私だけなのだ。
でもいくら払っても実体もないような靄である以上、どうやって戦おう。中段に構え、切っ先越しに侵入者を睨みつける私の頭に、作戦など思いつかない。とにかく遮二無二薙ぎ払い続けるか、なんて思った時だった。
くく、と低い含み笑いのような声が聞こえたと思うと、靄が形作る人の姿が一斉にその色を濃くした。それぞれの人型が、辺りを覆っていた靄を飲み込むように、うすぼんやりとした塊の境界線がはっきりとしていく。
みるみるうちに人型は全て実体のような肉厚の塊となった。その数、およそ十。さすがにこの数は竹刀一本で捌けるものではない。
私は背後にくろすけをかばいながらじりじりと後ずさった。
祠の近くまで行けば、ひょっとしたらくろすけが少し回復するかもしれない。最近きちんとお参りしているし、お供えだって欠かしていない。綺麗に整えた祠の近くであれば、月が出ていない夜でも多少は大神様の加護があるかもしれない。
しかし靄の塊たち、いやもうあれは物の怪か。敵の動きは素早かった。ついさっきまで煙のような姿で緩慢な動作をしていたくせに、実体となった途端に両の足で地面を蹴ってこちらに襲い掛かってきたのだ。
「くそ!」
飛びかかってきた人の形をした物の怪を一体、横薙ぎに竹刀を叩きつける。煙を切っていたときのような感触ではなく、確かな手応えがあった。ということはおそらく物理的な攻撃の効果があるはずだ。
私は二体目の物の怪の喉元に突きを繰り出した。ドンっという固い音と衝撃が手に伝わる。よし、と私は心の中で拳を握り三体目に向かって竹刀を構えようと振り向いた。
しかしその瞬間、不意に私の視界に映る景色が高速で横に流れていった。あれ、と思う間もなく、体全体を妙な浮遊感が襲う。がつんという音と衝撃、そして痛みが横っ面に走ったのはその後だった。
殴られたと気が付いたのは自分の体が地面に倒れてからだ。ぐらんぐらんと視界が揺れ、地面に擦れた顔面と倒れ込んだ時に肩を捻った上半身に鋭い痛みが走る。
まずい、と私の手が竹刀の柄を握り直したが、体を起こして構えることはできなかった。よほど派手に吹っ飛ばされたのか、頭がぐらぐらと揺れ焦点もうまく定まらないのだ。
「お嬢さん!」
悲鳴のような九朗の声が庭に響いた。
ああ、人の姿になれたのか。
私は揺れる視界の端に洋装の青年の姿を捉えた。良かった。犬の姿でいるよりマシだ。逃げるか、仲間を呼ぶかして何とか助かって、と言いたいのにうまく口が動かない。
人型の物の怪の一つが、私の首を掴んでつるし上げた。抵抗しようにも竹刀を持つ手に力が入らず、私はだらりと吊るされたままになる。九朗の声が聞こえるはずなのに、それも遠い。
情けない。
世話になるから用心棒をやる、なんて大口を叩いたくせにこのざまだ。この前やってきた物の怪を倒したとき、九朗はあれを中堅どころと言っていなかったか。ということは、もっと大物がいるということに何故あの時に気が付かなかったんだろう。
こんな時、私に何か異能があればと思わずにはいられない。光希のような雨を降らせる異能があれば、豪雨を呼んで隙を作れただろうに。人の気配に敏い異能でもあれば、そもそもの侵入を防げたかもしれないのに。
何故私はこんなに小さく、何もないのだろう。
じわりと視界がにじんだ。悔しくて、情けなくて、声も上げられない。ただ、ひたすらに私の首を掴んで持ち上げている物の怪の顔を睨みつけるしかできない。
そんな私を目のない顔で見上げていた物の怪が、可笑しそうに肩を揺らした。ゆっくりと、しかし確実に私を高く持ち上げる。地面にたたきつけるつもりなのかもしれない。
「お嬢さん! お嬢さん!」
「……く、ろ……」
逃げなさい。
主として、言わなくてはいけない言葉が首を絞められてうまく言葉にならない。息が詰まっていく命の危機に際し、私は思わず九朗に手を伸ばした。
「く……ろう……、たす……」
しかしその命乞いは最後まで声になることはなかった。息が詰まったからか。いや、そうではない。
私が手を伸ばしたその時、それまで悲壮な顔をして私を呼んでいた九朗の姿が大きく膨れ上がったのだ。