新しい生活②
「……おいし。なに、これ」
「でしょう。昨日より時間もあったし、ちょっと凝ってみたんです」
風呂から上がりさっぱりして部屋に戻ると、まるで時間を見計らったかのように九朗が夕餉の膳を並べていた。
きのこと根菜と大根菜が入った味噌汁と白飯のほか、里芋を飴色に煮たものと小さめの鮭を焼いたもの、そして胡瓜の漬物だろうか。箱膳の上に乗せられた料理の色合いは鮮やかで食欲をそそるいい匂いがした。
手を合わせた私はすぐにそれらに箸をつけ、思わず漏らした感想がそれだ。
「庭の草むしりでお疲れでしょうしね。しっかり食べて、ゆっくり休んでください」
傍らのお櫃から私の飯椀にお代わりの白飯を盛り付けながら、九朗はにっこりと笑った。
いままでだったら女中のお福さんが持ってきてくれる膳は盛り切りで、食べきってしまえばそれまでだったのにお代わりまで入れてくれるなんて、と大盛に盛られた飯椀に感動する。しかも盛られているのはぴかぴかの白米である。
料理の出来栄えに慄きながら箸を進めていた私は、改めて九朗に尋ねた。
「こんなご飯、いつの間に作ったの? お風呂もそうだし、お前ひとりでこんな準備をするのは大変でしょうに。一宿一飯、いえこれからこちらでお世話になるのだから、水汲みや掃除なんかは私にも言いつけて頂戴」
すると九朗は苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「お嬢さんに用事を言いつけるなんてできるわけがないだろ。いいんだよ、お嬢さんは大神に嫁入りするために来たんだから。お嬢さんのお世話は俺の仕事。本当は草むしりだって俺が――」
「大神様に嫁入りするって、でもその肝心の大神様はまだ眠っていらっしゃるんでしょう? 生贄として私が連れてこられたっていうのは分かったけれど、一体いつまでお休みを?」
「ん-、まあね。そこらへんは気にせずに、今まで花月院で窮屈な暮らししてたんだしさ。のんびりしててくださいよ」
でも、と言い募ろうとするけれどそれは九朗の掌に遮られた。
「これは大神のお言いつけでもあるんですよ。生贄にささげられている花嫁に不自由はさせるなってね。お嬢さんに用事を言いつけたりなんかしたら、俺が叱られちまう」
「……それは、困るわね」
確か彼は大神の眷属と言ったっけ。主の言いつけに背いたら、それは面倒なことになるのだろう。ここは彼のためにも世話を焼かれておかなければいけないらしい。
でしょう、と笑った九朗の顔は花月院の屋敷では見たことがないほどに柔和な、優しい笑みだった。しかしまだどことなく顔色が良くないように見える。
風呂も食事もどうやって用意したのか、この屋敷の中の理はまだ分からないけれど、きっと九朗が無理をしているのだろうということだけは分かってしまった。
私は箸を置き、中庭を眺めた。月の灯りに照らされた庭の中ほどには、まだ下草が生い茂る部分が残っている。その向こうにあるはずの古びた祠は、ここからでは庭木と下草が影を落としていて良く見えない。
昨日はたまたま私が一口頂戴した大根をお供えしたから、九朗は人の形になれたと言っていた。でもまだ本調子ではないとも言っていたような気がする。そんな人に何から何まで世話になるのは、どうにもこうにも心苦しい。
せめて少しでも彼の回復につながることをと考えて、私は九朗を振り返った。
「明日は祠の周りをきれいにしようと思うの。そうしたら剣術の稽古もできるし、お参りもしやすくなると思うわ」
「そんなの、俺がやりますってば」
「ううん、私がやりたいの。何もしないでいるのは体が鈍ってしまうでしょう? 祠にお参りしやすくなれば、お供え物の管理もしやすくなるでしょうし」
そう言うと、九朗ははっと何かに気づいた顔をした。短い黒髪の中に指を突っ込み、ぼりぼりと頭を掻きそしてばつが悪そうに肩を竦めた。
宣言通り、私は翌日もそのまた翌日も庭の草むしりに精を出した。
さすがに初日のような無理はせず、一刻ほど作業をしたら休憩をしたり室内の片づけをしたりしながらではあったけれど。
十日もすると茫々に生えていた草は随分と少なくなり、部屋の縁側から中庭の果てまで見通せるようになった。毎日月が出ると姿を現す九朗は、日に日に整えられていく庭を見ると呆れながらも、風呂や食事の支度をしてくれた。私達は毎日その日の作業について話しながら夕餉を摂るのが習慣になっていったのだ。
庭の草むしりを進める中、もちろん祠の周りもきれいに下草をむしった。あらわになった祠と小さな鳥居は水拭きをして土埃や蜘蛛の巣を取り払い、お供えができるように小ぶりの台も設置した。
あらかた作業を終えた私はそこに小皿に乗せた白飯と、厨から拝借した徳利に入れたお水をお供えして手を合わせて目を閉じた。
ふう、と顔を上げると空はすっかり群青色に染まっている。いくつか明るい星は見えるが、月の姿はない。
「……今夜は新月だったかしら」
こちらの屋敷に来てからというもの、暦がないので日付も分からなくなっていたのを思い出す。連れてこられた夜は満月だったから、と指折り数えるとそろそろかもしれない。
「九朗? いえ、くろすけ、いる?」
私は縁側から部屋に向かって座布団で眠っているはずの黒犬を呼んだ。
いつもであれば夕方ごろにはむくりと起き上がって、縁側や厨の近くをうろうろしているはずだ。しかし今夜は犬の軽い足音が聞こえない。厨で食事の支度でもしているのかとそちらへ行ってみるも、九朗の姿もない。
「どこ行っちゃったのかしら。でもこうも暗いと……」
黒い犬の姿など、と思った時だった。
ごおんという重く腹に響く音が屋敷を包む空気を震わせたのだ。それと同時に足元からざわりとした悪寒が走り、うなじが総毛立つ。
この気配には覚えがあった。最初にここで倒した物の怪だ。
しかしあの時よりもずっと空気が重い。鳥肌が治まることなく立ちっぱなしだ。まさか、という思いがよぎる。
私はごくりと生唾を飲み込むと、竹刀を取りに大急ぎで部屋へ駆け戻った。