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望月に祈るは誰がため

 挿絵(By みてみん)

 勢いよく振り下ろした竹刀が、しゅっと音を立てる。満天の星空の下、古びた屋敷の裏庭にある社の前で私は一人黙々と愛刀を振っていた。

 動くたび、頭の高いところで束ねている黒髪が揺れるのが分かる。足さばきに合わせて聞こえる、折り目がしっかりついた袴が規則正しく衣擦れの音が心地よい。

 侍たちが剣技を磨いて戦いに興じていた時代が終わり、天子様による太平の世になって十数年。市中では剣術道場の廃業が進み、人々は海の向こうからやってくる文化に夢中だという。

 時代に逆らうようだが、夜な夜なこうして素振りをすることが日課になってどのくらい経つだろう。幼いころから続けていたせいで左手の指の付け根には竹刀だこができているが、それは私の誇りでもある。

 少し乱れた息を整えるために空を見上げると、そこには煌々と輝く満月があった。白銀の光に照らされた境内は昼のように明るいが色はなく、その植木や建物の影は濃い。

 以前であればその闇から物の怪でも出てくるのではないかと身構えたものだがもう慣れた。古びているとはいえ屋敷を含む社の周辺は神域。そして今夜は満月である。物の怪や悪鬼など、おいそれと入って来られる場所ではない。

 額を伝う汗を手の甲で拭い、私はまた竹刀を正眼に構えた。呼吸を静め、上段に振り上げる。


「お嬢さん、朔乃お嬢さん、夜食ができたぞ」


 突如、低い男の声が夜のしじまを破った。

 振り上げた竹刀を下ろすことなく肩越しに声のする方を見れば、母屋の縁側から一人の大柄な男が手招きをしている。

 切れ長だけれどやや垂れた目を細めている美丈夫だ。烏の濡れ羽のごとく艶のある長い黒髪を無造作に垂らし、浴衣の前を大きくはだけさせた男の姿は多少見慣れたとはいえ目のやり場に困る。

 しかし男が人外であることは明らかである。長い髪で覆われた頭の上に、ひょっこりと生える獣の立ち耳がその証拠だ。

 私は視線を戻し竹刀を振り切った。すると男は縁側から降りてきたらしい。ざりざりと砂を踏みしめる音が近づいてきた。


「冷める前に食べないか?」


 声は随分近いところから聞こえる。振り返ればもう二人の距離は竹刀一本分もない。仕方なく私は手に持った愛刀を下ろした。

 この男が傍にいることは私にとって当たり前のことだけれど、こうして世話を焼かれすぎるのにはまだ慣れない。どうにも居心地が悪くて、私は深々と頭を下げた。


「お気遣いは不要ですと申し上げたはずです、旦那様」

「旦那様はよしてくれよ、お嬢さん」

「経緯はどうあれ、今のあなたは私の旦那様ですから。あと夕餉はとうにいただきました。夜食は不要と申し上げたと思いますが」

「俺がお嬢さん食わせたくて作ってるんだ。気にせず食え。それ以上痩せたら倒れるぞ。頬に肉がなくて、目の大きさだけが目立ってるじゃないか」

「旦那様が想像するほど痩せてはおりませんし、ご存知の通り物心ついてからずっとこんななので、本当にお気になさらなくて結構ですのに」

「このにおいを嗅いでもそう言えるかな」


 そう言うと男は手に持った椀をもう片方の手で扇いだ。ふわりとした風に乗り、味噌の良い香りが私の鼻をくすぐる。

 ぐるる……と腹が大きな音を立てた。


「そらみろ。体は正直だ」


 可笑しそうに男が唇の端を吊り上げる。かあっと私の頬が熱くなったのが分かった。

 恥ずかしい。腹が鳴ったこともそうだけれど、わざとらしくそれを指摘する男のセリフにどきりとしている自分に驚いた。きっと顔も耳も赤くなっているに違いない。それを悟られたくなくて私は慌てて男から顔をそむけた。くつくつと小さく笑う男の声が腹立たしい。


「誤解されるような言い方しないで」

「誤解も何も、本当のことじゃないか」

「人に聞かれでもしたら、有らぬ想像をされかねないって言ってるの!」

「誰が聞いてるっていうんだよ。この屋敷には俺と、お嬢さんしかいないってのに」


 食わんのか、と男は椀から立ちのぼる湯気をまた扇いだ。

 日暮れと変わらぬ頃に摂った夕餉はとっくに消化されている。体を動かした深夜に芳醇な味噌汁の香りを嗅がされては抵抗できるはずもない。

 きゅう……と私の腹が甲高い鳴き声を上げる。


「そうら、どうする?」


 男がこれ見よがしに椀を私の顔の前から遠ざけた。

 だめだ、我慢、無理。


「食べる! もう、食べるに決まってるでしょ! 片付けて汗を拭いてくるので待ってて!」


 空腹には逆らえない。観念した私が叫ぶと、男は満足げに微笑んだ。

 いつもこうだ。

 私がこの家に来てからというもの、新月の夜以外の朝晩はもちろんのこと、事あるごとにこの男は食事を作りそれを私に食べさせようとするのだ。

 しかも美味い。

 きっと今夜の味噌汁も夜食という割には肉や野菜がしっかり入っているに違いない。言うなりに食べ続けていたら丸々太ってしまうのではないだろうか。あまり太るのは困る。体が重くなると、思うように剣が振れなくなるから。

 いざという時に戦えなくなってはいけない。そんなことになったらここにいられなくなる。


 ――だって、私は神様の用心棒としてここにいるんだから。


 そんな危機感を覚えながら私が竹刀を片付けようと男の脇をすり抜けようとしたときだ。ふわりと風が動いた。

 あれ、と思ったときには足が浮いていた。私の体は背後から何か温かいものにすっぽりと包まれていたのだ。それが男による抱擁だと気づくのに一瞬遅れたのは、空腹のせいかそれともぼんやりと抱いた未来への危機感のせいか。

 はっとして身をよじろうとしたが、視界に男の持つ味噌汁の椀が写る。

 ――こぼしたらもったいない。

 貧乏性の性質が憎い。しかしそんな「もったいない」精神が私の体を硬直させた。離してという言葉を発して体が揺れるのも怖い。

 すると、好都合とばかりに男が首元に鼻を近づけてきた。すんすんと小刻みな呼吸音が耳朶を擽ってくる。

 瞬時に私の頭は真っ白になった。


「だ、旦那様、お戯れは……!」

「あくまで旦那様呼びするんだったら夫婦ってことで戯れたっていいじゃないか。今宵はちょうど満月だし」

「ダメ! わ、私、今汗かいて……!」

「別に俺は気にしない」


 そうじゃなくて、と私がもがこうとすると、鼻先に味噌汁の椀が近づけられた。ぎょっとしてまた体を硬直させると、耳元ではまた男が笑う声がする。


「は、離し……」

「暴れるとこぼれるぞ?」

「ずるい、ってば、それ……」


 私が昔から食べ物を粗末にすることができないことを知っているくせに。

 私は男の袖の中で拳を握った。可笑しそうに笑っている男の吐息が耳たぶに触れるたび、気恥ずかしいやらくすぐったいやらたまらない。


「だ、旦那様、お願い……離して……」


 消え入りそうな声しか出てこない自分に戸惑いながらも懇願すると、男は大きなため息を吐いた。それは腹の奥から息を吐き切るように、深く、長い。男に額を押し当てられている肩が、じんわりと熱くなっていく。

 どうしたんだろう。男の顔を覗き込もうと振り返ると、私の体に回された腕にほんの少し力が入ったのが分かった。


「旦那様……」

「いい加減慣れてくれよ。そして以前みたいに名を呼んでくれないか?」


 わずかに甘えた気配を含ませた声音に鼓膜を撫でられ、私の肩は小さく震えた。付き合いは長くなるがこんな声、聞いたことがない。

 そう思うとどきりと胸が跳ねた。しかし名前を呼ぶなど恐れ多い。以前のようにと言われても、気軽に呼べるわけがない。私はふるふると首を横に振った。

 自分はまだこの男の妻となって日が浅い、ということも理由の一つではあるが私の中で最も大きな理由は他にある。

 しかし男は納得せず、駄々をこねるように私の肩に顔をこすりつけた。赤子や子犬が母親に甘えるような仕草である。大きな図体に似合わぬ素振りは、私の心臓をまた大きく跳ねさせた。可愛い、とついつい思ってしまう。

 でもだめだ。

 そんな気持ちを知られてはいけない。

 ――だってこれは契約結婚なのだから。そしていずれ私はここから出ていかなくてはいけない日がくるのだから。


「旦那様……」


 抱きしめ返したい衝動を押さえながら振り返ると、上目遣いでこちらを伺う黒い瞳と目が合った。

 濡れたような深い色合いをした瞳は、見ているうちに吸い込まれていきそうだった。月光に照らされて輝く瞳には、眉を下げた私の顔が映りこんでいる。

 徐々に近づいてくるその瞳から目を逸らすことができないのは、男が持つ力かそれともこの神域に定められた掟か。低い声が朔乃、と私の名を呼んだ。


「呼んでくれよ、朔。お前の声で呼ばれたい」

「だ、だめ、そんなの……」

「どうして」


 呼べません、という私の声は男の口に飲み込まれた。目をあげれば視界いっぱいに男の顔がある。

 柔らかく唇全体を包んでいるのが男の唇だと気づいたがもう遅かった。はっとした瞬間、わずかに唇が開いたのだろう。その隙間から火照るほどに熱い舌がねじ込まれる。

 口内に侵入した男の舌は意思を持った生き物のように動き回り、瞬くまに私の舌をからめとった。くちゅり、という水音が頭の中から鼓膜をくすぐる。


「ん……!」


 羞恥と困惑で頭が沸騰する。私は両腕を突き出し身をよじった。

 しかし私に絡みついた腕の力は緩むことはない。唇を強く吸われると、腰から下に甘い痺れが走る。


「お嬢さん……」


 口内でささやかれる男の声が頭の内側から私の脳を揺らした。その切なげな声音はまるで懇願しているようだ。


「だ、だん……な、さま……、く……う……」


 目の前が真っ白になり何も考えられなくなった私は、思わず男の名を口にした。しかし朦朧と発したその声はかすかであり、唇を合わせていた男に全て飲み込まれ外に聞こえることはなかったのだった。

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