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あやみ、囲われる 8

読んでくださりありがとうございます。

どうかお楽しみいただけますように。

 表通りから少し外れた、古いテナントビルのある一画を、私と佐倉は歩いていた。

 あの時、踊り場で私と鉢合わせた佐倉は、私のところまで降りてきて、耳元にささやいたのだった。


「ちょっとお話しできませんか。ゆっくりできるところがあるので」


 いつもだったら、躊躇していたと思う。

 なのにこうやってついてきたのは、高志君に裏切られて納得がいかず、佐倉には泣き顔を見られて恥ずかしく、もうどうにでもなれという気持ちがあったからだ。

 佐倉には怪しいというか謎の部分はある。けれど、男女間の何かに期待する下心は一切感じないし、何より、しっかりとしたところで働いていることを私は知っている。


 たどり着いたのは、花屋さんの隣にあるガラス張りのカフェだった。

 平成の趣を感じさせる、エメラルドグリーンのガラスの向こうには、いくつもの観葉植物が白いプランターに入って吊るされ、あるいは窓に沿って置かれている。

 温室のようなつくりのそのお店は、「アトリエ エール」というらしい。


 佐倉が外開きの扉を開くと、ベルの音が鳴りひびいた。

 佐倉に続いて、おそるおそるお店の中へと足を踏み入れる。湿度のある優しい空気が顔に当たって、私は顔を上げた。

 額に入った大小の絵画や写真が飾られた店内は、照明が優しく、奥には四人掛けの小さなソファ席があった。

 表には人がたくさんいるのに、お店の中には誰も人がいない。

 キルトのカバーがかかった黒電話が置かれたカウンターの内側で、コーヒーサイフォンの中のお湯がコポコポ音を立てているのが見える。


 カウンターの奥にかかっているのれんは、黒電話とおそろいだ。

 まるで時が止まっているかのような──ドールハウスを覗き込んでいるみたいな不思議な感覚になった時、キルトののれんが揺れた。


「はぁい」


 現れたのは、黒いタートルネックを着た細身のマダムだった。

 ワンレングスのショートボブが印象的なグレーヘアのマダムは、佐倉を一瞥して「あら、佐倉くんじゃないの」と鷹揚につぶやき、それから私の方に気が付いて、わずかに目を瞠った。


「あっら……珍しいこと。佐倉くんのお友達?」

「あ、えーと」

「そんなところです」


 状況的にどう答えたら良いのか迷った私の代わりに、佐倉はサッと答えて、奥のソファ席の方へと進んでいく。

 マダムは佐倉を見送り、私の方へ向き直ると、笑みを深めて「ゆっくりしてらしてね」と首を傾けた。 

 私はマダムに会釈して、佐倉を追う。佐倉はソファ席の前で待っていて、私を見とめると、座るよう促した。

 私が壁側、佐倉は向かい側に座る。

 そして座るなり、佐倉はいきなり口を開いた。


「カフェ。辞めるんですか」

「……!」


 まだ腰が落ち着かないうちから、何の話だと思いかけたけれど、実はそう唐突な話題ではない。

 ある程度の事情を知る佐倉は、さっき階段で泣いていた私を見て何かを察したらしい。

「お話し出来ませんか」と私に耳打ちをした後、続けるようにして「今の状況の椿さんには、そう悪い話ではないと思いますから」と言っていたのだった。


「あ、はい。辞めるつもりです……もう間違いなく、辞めます」


 きっぱりさっぱり答えたつもりが、ちょっとだけ怒りがこもってしまった。

 佐倉は静かに「そうですか」と頷き、いきなりこんなことを言った。


「では、椿さんに紹介したいお仕事があります」

「え? お仕事……ですか?」

「つきましては、僕の上司がこれからここへ来ます」

「えぇっ?」


 いやさすがに、急展開過ぎやしないだろうか。

 混乱しているさなか、トレーを持ったマダムがやってきて、ブラウンのグラスに入ったお水とコースター、あたたかいおしぼりを置いてくれる。

 佐倉はマダムに「ケーキセットを三つ。飲み物はブレンドで」と慣れた様子で注文し、マダムはゆったりとした仕草で伝票を書き……と、のんびりした時間が流れている。


 しかし一方で、私は一人でハラハラしていた。

 仕事の紹介? 上司がここへ? どういう展開なんだろう?

 胸の前で片方のこぶしを握りこんだりして、落ち着かずにいると。

 グラスのお水を飲みながらスマホを確認していた佐倉が、後ろを見やる。 


「着きました。上司」

「えっ」


 佐倉と同じ方向を見て、私はさらに混乱した。

 カーブを描くように枝葉を垂らした観葉植物と、エメラルドグリーンのウインドウの向こうに立っていたのは、昨日もジャルダンドゥティガに来店した、紳士だった。

 ポケットチーフの忘れ物をし、屋形船の手配が大変だったと笑い、手にした正体不明の小箱を、届ける仕事の最中だと明かしてきたこともある、謎の紳士。


 紳士は両手でこちらに手を振ってから、エールの扉を開けて、お店の中へ入ってくる。

 マダムは「ヨッ」と挨拶をするように片手を上げて紳士を迎え、紳士は「どうも」と帽子を上げて返してから、私と佐倉の座る席へと足取り軽くやってきた。


「やぁ。こんにちは」




次回もお楽しみいただけますように!

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