うみねこの鳴く運河の街から 9
新千歳空港を出発した電車は、途中の札幌駅を経由して、終着駅である小樽駅へと向かっていた。
車窓から見えるのは、鈍い青色をした石狩湾だ。
私と佐倉はいま、本の持ちぬしに会うために、小沢様の出身地である小樽へと向かっている。
小樽駅からレンタカーに乗り換えて、土地勘のある私が運転を担当した。
観光名所として有名な小樽運河と倉庫街は駅から車ですぐ。
深い青緑の水をたたえた小樽運河は、脇に立ち並ぶ古い石造りの倉庫群との色合いのコントラストが美しい。
ガス灯が設置された御影石の散策路は国内外からの観光客でにぎわい、大正ロマンふうの着物とはかま姿でおめかしをして、人力車に乗っている人も見える。
そこからまた数分、車を走らせてたどり着いたのは、町はずれの防波堤──小樽南防波堤だった。
車を降りると、晴れた空を白いうみねこ達がみゃあみゃあ鳴きながら旋回している。
ここが本の持ちぬしが指定した、待ち合わせの場所。
奥様が『見つけた方の手でお返しするのが一番良いと思うの』と仰って、私と佐倉の二人で出向くことになったのだった。
防波堤を歩いて少し行くと、古いコンクリートの側面の、海面よりももう少し下、海藻が生えているあたりに、黒いいがぐり状の何かが見えいる。
あ、ウニだ、と私は思った。今日はよく晴れて海が凪いでいるから、透明度の高くない北の海でも、水の中が見えやすい。
「待ち合わせは十三時だ」
佐倉が腕時計を確認し、あたりを見まわす。
「もういらしているのかもしれないな」
沖の方まで長く伸びるように造られた防波堤は、横幅は数メートルほどで、釣りを楽しんでいる人が何人もいた。
「──本一冊返すのに二人の社員を寄越すとはな」
声をかけてきたのは、黒いウインドブレーカーの上下に、紐付きのアウトドアハットを被った男性だった。
防波堤にいる人たちの中で、私と佐倉だけがスーツ姿で場違いだったから、すぐにわかったのだろう。
私と佐倉は姿勢を正して頭を下げた。この方が小沢様が返したいと願った「戦史」の持ちぬしの、木田様だ。
「僕たち二人の手でお返しすることが、奥様のご希望でした」
佐倉が丁寧な口調で、「羽振りの良さが理由で二人でここへ来たわけではない」と言外に否定する。
歳の離れた義兄弟と聞いていたとおり、木田様は小沢様よりもずいぶん年齢が下のようだった。
とはいえ太くしっかり生えた眉と気難しそうな目つきは小沢様の姿を思い起こさせるものがあって、二人の間に血のつながりが無いことを意外に感じる。
何も言わず、木田様が傍らの簡易チェアに腰かけた。足元には釣りの道具が置いてある。
「……兄貴が亡くなったとはなぁ。知らなかったな」
楕円の形をした背中の後ろ姿の向こうには、大海原が広がっていて、うみねこが舞っている。
「お兄様の御本はこちらです。お返しいたします」
佐倉がそっと差し出すと、丁寧に包装されたそれを木田様は片手で受け取り、そのまま帆布のトートバッグに押し込んだ。
「はい、確かに受け取りました。わざわざどうも」
「とんでもございません」
これまでの経緯を思えば、こういう態度を取られることは予想がついていた。
でも私と佐倉は今日、本を返すだけではない、もう一つの目的を持っていた。
それは小沢様が「本を返したい」と望んだ先にあったであろうもの──木田様との、仲直りだ。
これについては奥様から正式に依頼を受けた。二人が没交渉になってしまった事情を知りたい。本の持ちぬしには、小沢様となった夫の想いを知って欲しい。
なので、帰ってよろしいという態度を取られて引き下がるわけにはいかない。
「……小沢様が本を返したいと、そう仰ったのは、今際の際、ご家族への感謝を伝えた後に、最後の力を振り絞るようにしてだったそうです」
海に向いている背中へ、私は語りかける。横に立っていた佐倉も、私の後を引き取るようにして口を開いた。
「──そのさい、木田様のお名前を仰らなかったので……どうすべきか、悩むところはありましたが、オザワ製菓の社内誌であいさつ文を拝見しまして、たどり着きました」
あいさつ文、と出たところで、木田様の肩が動いた。
「……あんな、薄っぺらで恥ずかしい」
そう独り言ちてから、釣り竿を持ったままゆっくりとこちらを振り返る。
「あの古臭いあいさつ文にたどり着いて、しかもこんなところにまで来たってことは、理由も、わかってるのかい」
どことなくばつが悪そうな言い方。「理由」というのはきっと、二人が疎遠になった事情のことだ。
「──はい。推測の域を出てはいませんが」
「……今日は駅から運河の横を通ってここへ?」
「はい」
「小樽運河はどうだった」
「事情を知っていてさえ、僕たちの目には美しく映りました」
率直な言葉に木田様が笑い、佐倉は目を伏せた。




