あやみ、囲われる 3
読んでくださり、ありがとうございます。
どうかお楽しみいただけますように……!
一日二回、8:00、20:00の更新となります。
清掃を終えた私は、手を洗ってキッチンへ入っていた。
デリのお惣菜をテイクアウトの冷蔵コーナーへ運び出すのは、開店時間に向けての最終段階の作業だ。
「椿さーん! ちょっとこっち、来てもらって良いかな」
と、バックヤードの入り口から、朗らかな呼び声が聞こえる。「はい!」と返事をしながら走って行くと、帆布素材のバスケットを持った、がっしりとした体型に、顎髭を生やした眼鏡の男性が立っている。
彼は、このカフェの店長だ。いま、店長にこのタイミングで呼ばれる心当たりが、私にはあった。
「お客様の、お忘れ物ですね」
「うん。これ、ちょっと見てくれる?」
そう問いかけてくる店長と一緒に、私はお忘れ物用バスケットの中を覗きこんだ。
「スマホ、ハンカチ、ハンドタオル、イヤホン、婦人用の日除け手袋に、折りたたみ傘……まさに、忘れ物のオールスターだよねぇ」
困ったように笑う店長に、「ですねぇ」と私も苦笑した。
「──それで」
本題に入るような、声色と表情。店長は顔を上げて私の顔を見た。
「椿さんの見覚えのあるもので、今日お返しできそうなのはありそう?」
「ええと……」
店長に開店前に呼ばれる心当たりとは、このことだ。
店長は、私がシフトに入っている時に来店されたお客様が身につけていたもので、今日これから来店する見込みがあるお客様の忘れ物はこの中にあるか、ということを私に聞いている。
つまり、その方がこれから来店された時に「こちら、前回いらした際にお忘れではないでしょうか」とお返しするのを、店長と私はやりたい、という話なのだ。
私は変なところでやたらと記憶力が良いのである。あまり興味のないものについてはどんどん忘れてしまうけれど、お客様の容貌や服装などは、一目見ればだいたい覚えてしまう。
その変な記憶力を店長に見込まれ、シフトに入る時にはこうして「お忘れ物お返し担当」の任を任されている。
ちなみに、忘れ物をした人の中には「どの時点でなくなったのかがわからない」という人がとても多いから、「こちらお忘れでは……」と私や店長が忘れ物を差し出すと、ものすごく感激される。
だからお忘れ物のお返しは、小さな仕事ではあるけれど、とてもやりがいがあるのだった。
「あ、これ」
バスケットに入っていた忘れ物の中から、私はとある一つを手に取った。有名なブランドの意匠が総柄になったそれを見ると、ジャケットを着た男性のお客様の姿と、その後ろに見えた空の色やその時オーダーした飲み物が、パズルのピースのように頭に浮かぶ。
「ハンカチか。紳士ものだよね?」
店長の言葉に、私は小さく首を傾げた。
「ハンカチ……お忘れになったお客様は、これをジャケットの胸ポケットに入れて……えーと。なんでしたっけ、そういうの」
「あー。ポケットチーフってやつね。てことはおしゃれ上級者なお客様だね?」
おしゃれ上級者。店長の表現に、こくこくと首を縦に振る。
「ですです。見たらすぐにわかると思います。グレーヘアの、もう、いかにも素敵な紳士って感じの方で、良さそうな生地のジャケットをいつもお召しです。眼鏡はしていなくて、カフェオレの砂糖なしを毎回オーダーされます。きっともうすぐご来店するはず──」
と、言っているそばから、サロンの中へと一番客で案内されて、一人の紳士が入って来た。いつの間にか、開店時間となっていたらしい。
私は店長にアイコンタクトで、「あの方です」と伝えた。
既にお仕事モードになり、穏やかな笑みを口もとに浮かべた店長は、私にだけ見えるよう、腰の位置でピースサインを作り、ふりふりする。
「合点承知。行っておいで」ということらしい。
紳士がこちらに気が付いて、中折れ帽を軽く挙げながら会釈をしてくれた。私も小さく口角を上げて、会釈を返す。
紳士とは、何度か会話をしたことがある。何のお仕事をしているのかはわからないけれど、とってもユーモアのある方だ。
ある日は、「今日の僕は配達人です」と言いながら謎の黒い小さな箱を悪戯っぽく掲げて見せてくれたり、またある日は「今日は屋形船の手配と縁日の準備でてんてこまいだったよ」とため息をついたり。
ユーモアがあるというか、なかなかに──いや、かなり謎めいていて、けれどとても楽しい雰囲気のお客様だった。
ささやかなやり取りの思い出を反芻しながら、紳士が前回忘れて行ったポケットチーフを、私はそっと手に取った。
これからオーダーを取るタイミングでお返しすれば、きっと、とても喜ばれるはずだ。
渡したい。ポケットチーフを返したい。
でも。
次回もお楽しみいただけますように!