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うみねこの鳴く運河の街から 6 ※佐倉視点

 先輩方に頭を下げ、俺は事務室を後にした。

──とはいえ、どうしたものか。

 自宅に戻り、シャワーを浴びてから自室に戻ると、デスクの上に積まれたトゥーキュディデースの戦史、上中下巻が目に入った。


 この本がどういう経緯で小沢様の手元に渡り、なぜ今際の際にまで「返したい」と強く願ったのか。答えが出るまで、考え続けなければならない。

 小沢様ご本人の人となりや経歴については、依頼を知った時に確認してはいたが、改めて調べてみるべきか。


 それで何か結びつくものがあればと思うものの、正直自信はなかった。

 これは俺の能力の無さゆえなのだろうか。悶々としていると、ドアをノックする音が響いた。


「伶くーん、入りますよぉ」


 返事をするより先に入ってきたのは、父の秘書の一人、鴻池だった。


「もう何度言ったかわからないが、俺が返事をしてから開けた方が良いと思う」

「あらすみません」


 俺より少し上背があるくらいの身長に、ゆるくパーマのかかった髪を横に流した鴻池は、永田町の議員秘書界隈で「佐倉外相のところのチャラ眼鏡」と呼ばれている。

 こんな時間でもスーツを着込んで、いつ父に呼び出されても対応出来るようにしているらしい鴻池が何をしに来たのかというと、


「もう少し色んな界隈のパーティーに顔を出すべきです、こんな招待状が来ています」

「有力議員のご夫人の集まりも意外と楽しいですよ、実は伶君ご指名で首相夫人からお誘いがあって」


 だのと、俺が乗り気になれない誘いについて、熱心に参加を促すためだった。


「人脈づくりの大事さは重々承知の上で、気乗りがしない」


 頭を拭きながら答える。鴻池は「そう言うと思いました」と、白い歯を見せて笑った。


「顔を出しちゃうと、ご夫人方や御令嬢からお誘いがたくさん来ちゃいますしね。そうなるとまた麦さんがやきもちを焼いてしまうかもしれないですし」


「……、」


 ため息が出そうになったのを、何とか堪える。どうやら本命はこっちの話題であったらしい。

 鴻池の言う「麦さん」とは、親がとり決めた俺の婚約者のことだ。

 わざわざ名前を出したということは、もっと連絡を取れだとか一緒に出歩けだとか、そういうことを言いたいのに違いない。

 が、触れられたくない話だったので、引き続き無言をつらぬくことにした。


「──まったくモテる男はつらいですよね~。俺もこの前ご縁を広げたくてマッチングアプリを使ったら、キャバで仲良くしてた娘が怒っちゃって」


 俺のことを長年そばで見ていた鴻池は、俺について察するのも早い。

 ごくさりげない方向転換で空気が重たくなるのを防いでみせたその手腕には感心したが、


「でもね表参道のダコタンさんのパンを差し入れしたら無事、ご機嫌になってました! 並んだ甲斐があったなぁ~」などと、変えた先の話題があまりにどうでも良かったのには、閉口する。

 そんな調子でペラペラしゃべった後、鴻池は反応しなくなった俺に首を傾げた。


「聞いてます? ていうかお疲れですよね。お仕事、の後ですし」


「お仕事」という語句に込められた明らかな皮肉の響きに、こめかみがうずいた。

 目を上げ、不快感を込めた視線を向けても、鴻池は今度は引かなかった。


「外商の仕事をしながらお兄さんを──宗介さんを探す、とはよく考えたものです」

「……」

「富裕層の方々の横のつながりと情報網はとんでもないですからね~。ご縁をつないでいけばいずれは宗介さんにたどりつくやも……という気持ちは理解できますよ」


 兄の話はいま、一番して欲しくない話だった。さっきとは違い、察していながらわざわざ話題にあげる鴻池のサディスティックぶりに、辟易する。


「もう寝るから。出て行ってくれ」

「でも──」


 追い払おうしたのに、鴻池はにこりと笑ってそう前置きし、話を続けた。


「宗介さんは帰ってこないと思いますけどね。日本にいるかどうかもわかりませんよ」

「──、」


 鴻池はにっこり微笑んで首を傾けていた。 

 何か言ってやろうと思って、やめる。余計に疲れるだけだ。目を閉じてため息をつくと、素っ頓な声が耳に響いた。


「あ、トゥーキュディデースじゃないですか! これはまた、良い本をチョイスしましたね」


 良い本をチョイス──鴻池がこんな言い方をするのは、代々政治家を輩出してきた佐倉家の教育方針になぞらえてのことだ。

 政界へ行って上を目指すには、言わずもがな人脈づくりが不可欠で、多種多様な話題に難なくついていける教養が求められる。その教養を身につけるには読書が必要、という話である。


 俺が本を読むようになったのはそれがきっかけで、十代の初めごろからの習慣になっており──多少は、であるが、どんな相手でも、どんな話題でも、難なく会話が出来るようになった。

 同じ歳の椿などは俺のこういう部分について関して感心しているようだが、これは俺がすごいのではない。本を書き、本を作り、読者の手元に届けた人たちがすごいのだ。


 それにしても──鴻池の反応は気になるところだった。


「その本について「これはまた良い本を」とコメントする理由が知りたい」


 部屋着に着替えながら問いかけると、鴻池は何かのスイッチが入ったように語り始めた。


「そうですね──いつの世も変わらぬ人間の心理と権力者の上昇志向、それによって物事の因果関係が変化し、平和を望んでいるはずの民衆がどうして戦いへと思考を方向転させられてしまうのか、という部分については特に学ぶべきところがあります。今で言うバイアスだとか承認欲求だとか、他責の精神だとか、そういう身近な事象にいくらでもなぞらえて参考にすることが出来ますからね」

「……」


 内容はともかく、葬儀と仕事の帰りで疲れ、入眠の前段階になった脳には、入ってきにくい話し方である。

 この本は俺も読んだことがあるが、歴史の中の大きな出来事を一つの事象として紐解いたもの、という印象で、鴻池の読み方は性格が悪いと思った。


 それでも頷きながら「うん」と相槌を打っていると、鴻池が何やらドヤ顔になる。


「実は議員秘書界隈で根強い人気があって。特に上巻です。僕も先輩から使い方を伝授してもらって」

「──!」


 気になる話だった。脳の奥が鋭く反応して、眠気が一瞬で引っ込む。


「上巻が、秘書界隈で?」


 小沢様が遺したのも、上巻だった。

 思わず顔を上げた俺に、鴻池は満足そうに頷いて、人差し指を立てて解説を続ける。 


「上巻にはアテネの将軍、ペリクレスが民衆に訴えかける言葉がたくさん載っています。これがまぁキレッキレで、上手いこと市民の心を鼓舞させる内容なんですよねぇ。だから演説の内容を考える時にはもちろん、議員がご縁を結びたい相手へのお手紙を代筆する時なんかには、アレンジして使えたりするわけです。語句を入れ替えればそれなりの内容になりますし、ほんのり詩的な響きがこれまたねー。おじさん方に鉄板で大ウケしちゃってウハウハなんですよね」


「……」

「って、聞いてます? おねむですか? そっちから聞いてきたのに……」


 鴻池は俺の顔を覗き込み、ウワッと声をあげた。


「眉間のしわがヤバい。こわい」

「……鴻池」


 顔を上げると鴻池は後ずさりしながら、


「……なんです?」


 と、慎重な声で言った。


「──ありがとう」

「え、え、急に何? 伶君がこわいんですけど……あ、俺まだ仕事が残ってるんだった!」


 せっかくこちらが感謝の気持ちを言葉にしているのに、鴻池はわざとらしく切り上げ、「おやすみさなさい」と言って部屋を出て行った。



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