うみねこの鳴く運河の街から 5 ※佐倉視点
虎澤百貨店外商二部の執務室は、沈んだ空気に包まれている。
椿あやみは直帰したので、俺の向かいの席は空だ。
このところ内勤仕事の時にはいつも向かいに椿がいて、椿が動くたびに古い椅子のきしむ音が聞こえていた。
本音を言えば俺はその音が苦手だったので、近々摩擦のある部分に注油をしようと考えていた。
しかし今、この瞬間に至っては「椿あやみの椅子のお馴染みの音」が部屋の中に響いていて欲しかったと思う。
あの音は既に、外商二部の活気づいた空気感を表すものとして、俺の中に記憶されているのだ。
「持ちぬしの方、見つからなかったのねぇ。社葬だったら仕事以外で親交のあった人も来ていたでしょうに」
そうため息をついたのは、鷹人さんだ。
「本命を逃したとなると、なかなかの難題になってきましたね」
すみれさんは眉根を寄せている。
「……もしかすると、ご存命じゃない可能性もあったりするのかしら」
鷹人さんのこのつぶやきで、また一段、執務室の空気が沈んだようになる。
小沢様が探して欲しいと願った対象が既に亡くなっている可能性は、おそらく全員が考えていたことだ。
「……どこをあたるにしても、佐倉君と椿さんにお願いすることになりそうで……歯がゆいなぁ」
部長席の及川部長が、自分の手元を見つめながらぼやいた。
次の手をどうしたら良いかを思案しているようにも、考えあぐねているようにも見える。
「私の知り合いの古書店で、聞いてみましょうか? その本を好みそうなお客様を紹介してもらって、その中で探すとか……草の根的ですけど」
すみれさんの提案に、及川部長は首を横に振った。
「気持ちはありがたいけれど、仰る通りの草の根活動だね。それなら宮ヶ丘さんには通常業務を優先してほしいかな」
お客様のご用命であれば、草の根を分けてでも対象物を探さなくてはならないというのが虎澤百貨店外商部の大原則ではあるが、及川部長がそう言うのももっともな話だった。
虎澤百貨店の場合、こういった特殊な依頼には、かかった経費に一定のサービス料を上乗せするという取り決めがある。
つまり無料で請け負っているわけではないから、お客様の負担やこちらがかけられるコストやリソースなどの事情を考えれば、現実的でない探索はむしろしない方が良いという話なのだ。
もしかすると、見極めが必要になるのではないか──。
そう考えるに至り、俺は顔を上げた。
「そもそもが、現実的ではないお話だったのではないでしょうか。小沢様が本を返したかった相手を探すというのは、森の中から一本の木を探せと言われているのと同じだと僕は考えます」
しかも、その木を社葬という森に検討をつけてスクリーニングしてなお、見つからなかったのだ。
「小沢様と奥様にはとても申し訳なく感じますが、今回の依頼は──」
「佐倉君」
顔を上げると、及川部長が微笑みながらこちらを見ていた。
「お客様の依頼を無理だと考えるのは、お客様を疑うことだよ」
「疑う、ですか──?」
「うん。佐倉君はさ、虎澤百貨店の外商利用のお客様が、どうしてモノやサービスの購入以外で僕たちに何かを依頼をするのか、理由を考えたことはあるかな?」
「……」
及川部長が改めて問いかけてくる意味がわからず、考え込んでしまう。
「……お客様は、虎澤百貨店の外商部が長年培った特殊な見識やノウハウ、コネクションを頼りにされて、依頼をくださっているのだと思います」
問われているのはおそらくそこではない、と考えながらも言葉にすると、及川部長は頷いた。
「それも正解だね。でもそれ以前にお客様は、僕たち外商員であれば解決出来ると判断したから依頼をするんだよ。無理だと考えるのは、お客様の判断力を疑うことだ」
判断力を疑っている、という言葉が突き刺さる。これは本当にその通りだと思った。
「──はい。仰る通りです」
「虎澤百貨店の外商部なら本の持ちぬしを探し当てられる、ということはね、僕たちが探せる範囲の中にしか手がかりがないということさ。だからそれは森にある特徴の分からない一本の木を探せという、途方もない話ではない」
及川部長は落ち着いた声でゆっくり話しているが、選ぶ言葉や表現のためなのか、思わず聞き入ってしまう力があった。
「探しているのは限られた範囲の、枝葉に特徴のある一本であるはずで、僕たちなら見分けをつけられる術を持っている。小沢様はそれがわかっていたから依頼したという話さ」
「……はい」
限られた範囲の、特徴のある一本を探す。
小沢様は、虎澤百貨店の外商部であれば出来ると見込んで、ご用命をくださった。
なるほど、と納得するのと同時に、俺は自分の至らなさを痛感した。
「浅慮でした。申し訳ありません」
「謝ることはないさ。佐倉君は素直ってことだよ」
「いえ……」
どうして最初から及川部長のような思考を出来ないのか。なぜ最初から正解を導き出すことが出来ないのか。
己の未熟さが呪わしいし恥ずかしかった。
これまでの人生で幾度となくこういう気持ちを味わってきたが、いつになったら自分は完璧になれるのか、自問してしまう。
このままではパフォーマンスが落ちてしまうので、どうにか頭を切り替えようと、目の前の作業に集中しようと試みる。
しかし、すぐには思考が切り替わらず、答えのない自問を繰り返しながら、約三分の時間を無駄にしてしまった。これは未熟さの二次災害だ。
目を閉じ、ため息をこらえていると、左隣から声がかかる。
「あのねぇ。もっと大人になったら「どうにもならなさそうだけどどうにかしなきゃならない」場面ってたくさんあるわよ。覚えときな、佐倉」
顔を上げると、頬杖をつきながらこちら鷹さんがこちらに体を向けていた。その向かいですみれさんもうんうん頷いている。
「そうだよ佐倉、覚悟しときな。アワアワしちゃうような仕事を終えた後に、最高の仕事が出来たと思うやつなんて、むしろ信用ならないんだからね」
先輩二人の話はずいぶん抽象的で、難しい。もう少しわかりやすく話してくれるとありがたいのに──そう考えていると、
「「返事は!?」」
と、二人が声を合わせて凄んできたので、何の儀式なんだこれは、という思いにかられつつ、俺は「はい」と返事をしておいた。
「ていうか、学生はそろそろ帰る時間じゃないの」
鷹さんに言われて、壁の時計を確認すると、時刻は午後六時を回ったところだった。
俺が学生で、こなさなければならない課題があることを知っていての気遣いだ。
「何か指示がありましたら、連絡してください」
立ち上がった俺に、及川部長が謝るようにしてぱん、と手を合わせた。
「探索の実務は引き続き、佐倉君と椿さん頼みになっちゃうけれど!」
「かまいません。そのための僕たちですから」
「無理させちゃってごめんね」
「いいえ。お先に失礼します」




