うみねこの鳴く運河の街から 3
話に出てきた千駄木という街は、おしゃれなレストランやカフェがたくさんあるところだ。
その千駄木の「サカサクラゲ」の意味もわからなければ、小沢様がこんなに熱の入った──どこか嬉々とした表情で佐倉に絡む意味もわからない。
ど、どうしたら良いのだろう。困る。
「旦那様。もう千駄木にサカサクラゲはありませんよ」
素っ気ない声は戻ってきた奥様のもので、続けて及川部長が入ってくると、千駄木の話はわからないまま終わって、違う話に花が咲き、あっという間にお暇の時間になる。
「小売屋、次は写経の道具を持ってこい。もちろん一式だ」
玄関を出る間際、そう言って杖の先で及川部長を指さした小沢様に、部長が微笑んで頷く。
「かしこまりました。写経とは、これまた面白そうですな」
「さっき、釣りというのは存外に暇な時間が多いと言っていただろう。魚を待つ間にやるんだ」
時間を無駄にしたくないからな、と続けた小沢様に、及川部長は「明日にはお持ちいたしましょう」と約束する。
別のお宅に立ち寄ってから帰店するという及川部長とは別行動になり、私と佐倉は社用車でひと足先に店舗へ戻ることになった。
車の中で、私は運転席の佐倉に話しかける。
「写経のセットを明日納品ってことは、戻ってすぐに用意しないとだよね?」
「そうだな」
素っ気なく答えた佐倉の横顔を見ると、さっきの千駄木の話がまた気になってくる。
「そうそう、さっきの千駄木のサカサクラゲ? がどうとかって、何の話だったの? その前の「君たちは、」のところも聞き取れなくて、何もわからなかったんだけど」
「……」
佐倉は前を向いて、黙っている。
「【千駄木 サカサクラゲ】で検索してもね、これっていう結果が出てこなくって」
「そうか。そうだろうな」
「……? いや、そうかって……」
私は眉間にしわを寄せた。
いつもの佐倉雑学で私の疑問に答えてくれると思ったのに、「そうか」って。
何だろう? 佐倉の態度に、どことなく煮え切らなさというか、歯切れの悪さを感じる。
あの時あれだけきっぱり「違う」だとか「そういうつもりはない」と答えていたのだから、佐倉は間違いなく意味を把握しているはずだ。
「どういう意味? 佐倉は知ってるんでしょう?」
じれったさをおぼえて、ちょっと強めの口調になってしまった。
だって気になるのだ。覗き込むように顔をうかがうと、眉間にしわを寄せてにらまれる。
佐倉はため息をつくと、しぶしぶといったようすで口を開いた。
「……今から七十年以上前、高度経済成長のころ、千駄木には連れ込み旅館が多く立ち並び、温泉に湯気が立つマークの看板がかかげられていた。サカサクラゲはそのマークを指した隠語だ」
「連れ込み旅館のマーク……?」
簡潔明瞭なこの解説。連れ込み旅館とはつまり……。
「小沢様の仰るサカサクラゲは、今でいうブティックホテルだとかラブホテルの意味だ」
「──……」
「ちなみに、この話の前に仰ったのは、俺たちが「つがい」かどうか。つまり男女の関係があるのかどうかを確認されていた」
「あー……そうなんだ。なるほど、なるほど……うん」
どうやら私たちは、とんでもないセクシャルハラスメントを受けていたらしい。
全てを理解した今、私はどういう表情でいたら良いのかわからなくなった。
耳が熱い。
まぁ、元気が良くて何よりだと思うことにしよう。……うん。
それにしても、九十代も半ばを超えて、あんなにも色々なことに挑戦しようと思える気力は本当に素晴らしいし、いっそ目標にしたいくらいだ。
そのうち、もう少し気軽にお話しできるような関係を築けたら、秘訣を聞きたい。
小沢様の葬儀が行われる運びになったのは、それから一週間後のことだった。




