123で、こっちを向いて。 5
数日後、私はまた朝松家を訪問していた。
玄関で黒いビジネスバッグと虎澤のロゴ入りの紙袋を持った、外商部の制服姿の私を見て、環希さんが「あやみちゃん、すごくかっこいい」と、驚いた顔をしてくれる。
照れくさかったけれど、居住まいを正して、私は口を開いた。
「本日は、お直しさせていただいたお品のお届けと、記念日の打ち合わせで伺いました」
──ややぎこちなさはあったように思うけれど、つっかえずに言うことが出来た。
「ああ! もう仕上がったのね、早くてびっくり」
至らなさ満点な私なのに、環希さんは「打ち合わせも楽しみ」とにこにこ笑ってくれる。これには感謝しかない。
正直なところを言えば、仕事モードで友達のお母さんに会うのはなんとも恥ずかしい。
けれど新人アシスタントとはいえ、私は虎澤百貨店の外商員なのだ。もじもじせずにビシッとしなければならない。
応接間に通され、L字のソファの下座に座ると、環希さんがお茶を持ってきてくれた。
蓋つきのお茶碗を開けて、お茶の香しさにうっとりそうになる。
どうやら、香りも温度も最適なタイミングになるよう見計らってくれていたらしい。
「今日美宇はヨットの日なのよね」
緊張している私をほぐそうとしてか、環希さんが美宇ちゃんの話題を振ってくれる。
「そうでしたね」
サークルで早朝から湘南の方に行っている美宇ちゃんの顔を思い浮かべたら、なんだか楽しい気持ちがこみあげた。
顔を上げると環希さんも笑っていて、私たちは顔を見合わせ声を出して笑った。
これで完全に、いつも通りの私だ。環希さんの気遣いがありがたかった。
頃合いを見計らって、私は顔を上げる。
「お直しのご依頼をいただいていたニットをお持ちしましたので、ご確認ください」と紙袋から取り出したのは、「バーキン」のバッグが有名なフランスの老舗ハイブランドのニットセーターだった。
グレーの地で、首元の内側にビビッドなオレンジの生地があしらわれているそのニットセーターは、まだファッションにうとい私から見ても、抜群に質感が良い。
首回りと肩の部分を小さく作り直したそれを差し出すと、環希さんは「わぁ」と嬉しそうに目を細めた。
「夫用に虎澤さんで買って着てもらっていたものなんだけどね、見ているうちに私が気に入っちゃって」
にこにこ上機嫌な環希さんを見て、私も嬉しくなる。
結婚記念パーティーのご用命をいただいた時もそうだったけれど、改めて環希さんの「旦那様愛」を感じた。
「ご夫婦で、本当に仲が良いんですね」
私の言葉に、環希さんが顔を上げる。
「そうなの? 他のお宅って、あまりこういうことはしないの?」
聞かれて、私はちょっと首を傾げた。私も世間をそう広く知っているわけではないので何とも言えない部分はあるのだけれど。
「私の両親の話でいえば、父が着ていたものを母が直して着るなんてことはまずしないです。『お父さん! その服どこで買ったの? どうなってるのそのセンス⁉』ってびっくりしていることはけっこうというか、かなりありますけど……」
そんな風に、一番身近な例を挙げると、環希さんはけらけら笑って、それから手元のニットを手のひらで撫でた。
「仲が良いって言われると……どうなのかしらねー」
まんざらでもなさそうに首を傾げた環希さんだったけれど、濁すような、含みを持たせるような言い方だった。
私はそっと環希さんの表情をうかがう。環希さんは何事もなかったようにお茶を飲んでいて、ああそうかと納得する。
きっと、濁すような含みを持たせるような言い方は、謙遜だ。
次は結婚記念日パーティーの話をしなければと考え、私は資料の入ったバッグを引き寄せた。
可能な限りじっくり時間をかけて、たくさん環希さんの意見を聞きたい。
そう思いながら、ファスナーを開けようとした、その時だった。
応接間の私の位置から見える、リビングへとつながる廊下に、人の気配がした。
見ると、環希さんと同じ年齢くらいの、中肉中背の男性が立っている。
チノパンに上品なシャツ、ジャケットを羽織ったその人と目が合って、私は咄嗟に立ち上がろうとした。
挨拶をしようと思ったのだ。しかし、男性は薄く微笑んで会釈をすると、そのままリビングの方へと去ってしまった。
環希さんの申し訳なさそうな声が背中にかかる。
「ごめんなさいね。あの人って人見知りなの、すっごく」
状況から判断するに、男性は環希さんの旦那様かつ美宇ちゃんのお父さん──修平さんだったようだ。私は振り返り、
「とっても素敵な旦那様ですね。美宇ちゃんに似ているように思いました」
と微笑む。修平さんの目元や通った鼻筋は美宇ちゃんにとてもよく似ていた。
環希さんはふふっと笑い、「そうそう、パパにそっくりなのよね」と嬉しそうに頷いた。
「人見知りのシャイなパパと、今年はどんな風に記念日の時間を過ごそうかしらね」
楽しい悪だくみをしているような。悪戯っぽい笑み。いわば共犯者の私は、ワクワクしてしまった。
「記念日の日はご夫婦で一緒に、お休みが出来そうなんですか?」
「そうね。いそがしい人だけれど、そこだけは、少なくても半休は取ってくれるの。毎年ね」
言いながら環希さんは私の茶碗に、お茶のお代わりを注いでくれる。
思わぬタイミングでの修平さんの登場に驚きはしたものの、かえってその後はスムーズに結婚記念パーティーの打ち合わせを始めることが出来た。
「では、そのあたりのご提案をさせていただきますね」
作ってきた資料は、パンフレットや、ネットで見つけた気になる情報をプリントアウトしたもので、簡単なスクラップブックになっている。
環希さんから見えるように開き、簡潔な説明をすると、環希さんは瞳を輝かせてたくさんの食いつきを見せてくれた。
具体的にどの箇所で環希さんの反応があったのかを頭の中にメモしつつ、どんどん聞き取りをする。
どうやら環希さんはある程度、直感でものごとを決められるタイプなようで、思った以上に順調に話を進めることが出来た。
コンセプトは「二十年の感謝と振り返り、そしてこれから」にしたい、ということになり、後日の打ち合わせで詳細を詰めていくことになった。
次回の打ち合わせ日を決めて、帰り支度をしていると、環希さんがおもむろに口を開く。
「二十年も一緒にいるとね、」
穏やかな口調に、私は手を止めて「はい」と聞き入った。
「お互いにリスペクトはしているけれどね、それが行き過ぎて、言いたいことが言えていない部分はあると思うの」
微笑んで、環希さんが顔を上げる。
「だからね、それを今回、形にしていけたらと思っているの」
また悪戯っぽく笑った環希さんに、私は「お供します」と言って笑い、朝松邸を後にした。
次の訪問先への道すがら、さっきの打ち合わせを思い返す。
環希さんと話をしていて感じたのは、二十年も一緒に夫婦生活を送っていると、外側から察することの出来ない様々な思いが生まれるのだろう、ということだった。
ふと、自分もいつかは結婚して、年月を重ねた時、夫婦だからこその微妙な関係性について、身を持って実感するときがあるのだろうか、その時の私はどう対処するだろう、と考える。
ううむ、と心の中で唸ったけれど、ほぼ何も想像ができない上に、何の感情も湧いてこなかった。
私にとって結婚は遠すぎる話だ。自分に結婚願望があるかどうかすら、わからない。
ただひとつ言えるのは、結婚するとして、その相手とはまだ出会ってすらいないだろうということ。
数秒で終わった妄想ですらないものに見切りをつけて顔を上げると、私は電車に乗り遅れないよう、小走りで目の前の横断歩道を渡った。




