第三話(軽井沢編) 123で、こっちを向いて。 回想:平成の中期ごろ、軽井沢にて
父が所有する軽井沢の山荘では、若手の演奏家を招いての演奏会が夏と秋にあって、そこに演奏者の一人として招かれていたのが、東京藝大に通う彼だった。
十七歳の私は、演奏会と同時進行で行われるパーティーの雰囲気が好きではなかった。
だって会の間じゅう、どんなにつまらない話題であってもずっと、愛想笑いをして会話をしなければならないのだ。
決まって聞かれるのは、進路のこと。それから、縁談の有無について。
高校二年生の私にとって、進路の話題はの焦りを感じるものだったし、加えて縁談となると、遠い世界の事柄過ぎた。
それでも、父の見つけてきた人と結婚しなければならないのだろうな、と何となくは思っていたけれど。
とにかく、自分の中で何もはっきりと答えが出ていないことについて「どうするの」「どうなってるの」だなんて聞かれると、「私に聞かないで」と言いたくなってイライラした。
若い音楽家たちが情熱的な演奏を繰り広げる横で、「十七歳の元気な女の子」の仮面をかぶって笑い、探り合いの応酬をしていると、とても疲れた。
だから、その場を中座したくなるのは仕方のないことだった。
そんな時、私が休みに行くのは決まって、皆が使う二階ではなく、一階の裏手にある人気のないテラスだった。
そこで出会ったのが、彼だ。
その夜、あたりには霧が立ち込めていた。軽井沢は霧の出やすい地形で、だいたい年間百日くらいは霧が出る。
墨色の夜空を眺める彼の背中を見つけて、私は小さくため息をつき、「愛想笑いモード」に心を切り替えてテラスに出た。
こちらに気が付いて振り返った彼に、「こんばんは。ホール、暑いですよね」と微笑むと、彼は会釈を返してきた。
注ぎ口にライムを詰めたメキシコの瓶ビールを、人差し指と中指に挟んで持った彼の顔を見て、夏にも来ていたコントラバスの奏者だと気が付く。
どの程度どんな話題について話して、どの段階で切り上げれば収まりが良いか。
完璧なシミュレーションが組みあがったところで私が口を開こうとすると、彼は言った。
「あー。無理しなくて良いですよ」
「え」
出鼻をくじかれて、言葉をうしなう私に、彼は続けた。
「僕も、勝手に一人で休むから」
見透かされていると思ったのは一瞬。彼の言葉の意味に気が付けるくらい、自分が大人になっていて良かった。
私が疲れてここへ出てきたことを彼は察していて、「ホールの延長戦をしなくていい」と言ってくれているのだ。
お言葉に甘えて、無言のまま手近な椅子へ座る。
目を閉じて軽く深呼吸をすると、濃い木々と水のにおいがして、風が頬に触れるのと葉擦れが聞こえるのとは同時だった。
まるでこちらを飲み込もうとしているかのような暗闇にも、それに便乗するみたいに立ち込める霧にも、たしかな気配がある。
真摯に肌で感じようとすれば、熱は自然に抜けていく。
軽井沢はそれが出来る所で、だから避暑地と呼ばれているのだ。
気分がすっきりした私は、彼を残してホールに戻った。
その時は、それだけ。
まともな会話をするようになったのは、秋の演奏会の時。
彼が通学していたのが上野だったので、そのつながりで「不忍池弁天堂と周囲の蓮を背景のビル群と同時にながめると、ちょっと脳がぐらつく感じがする」みたいな、変な話をした。
携帯電話を持っていることが当たり前になりつつあるころだったけれど、連絡先の交換はしなかった。
演奏会のたびテラスで会話をするだけの関係のまま二年が過ぎて、私が十九歳になった夏の終わり、父が私の縁談をまとめることに本腰を入れた。
縁談の相手は、彼だった。
両家の顔合わせの席で、彼の家が私の家と同等の資産を持つ経営者一族であること、彼は三代目の次男だということを知った。
それから間もなくの秋の演奏会では、「秋の光に落ち葉が舞って」のアレンジが演奏されていた。
この時期の軽井沢にぴったりな、郷愁を誘うメロディ。
コンチェルトの中に彼の姿はなかった。
母に化粧を直してくる、と告げて、私は一階のテラスへと向かった。
テラスに、彼の背中を見つけた。いつもの透明なビールの小瓶はテーブルに置かれていた。
晴れた空を見上げる彼に「こんにちは」と挨拶をしたら、振り返った彼と目が合う。
息が苦しい。彼と直接会って話すのは、両家での顔合わせ以来だ。
「──それ、私も飲んでみたい」
何かを紛らわせるように、私は透明なビールの小瓶を指さした。
「それって、これ?」
片手で小瓶を掲げてから、彼は首を傾げる。
「きみって、」
「もう飲めるようになったのよ」
未成年じゃなかったっけ。という質問を遮るように、私は先回りをした。
彼は虚を突かれたように私の顔を見つめた。
「わかった。取ってくるから、待ってて」
奥に戻る背中を見送ってから、私は窓の外を見つめる。
落ち着かない気分なのはきっと、初めてお酒を飲むからだ。
テーブルの上には彼のノートパソコンが開いた状態で置かれていて、スクリーンセイバーが表示されていた。
ハードディスクがカリカリいう音を聞いているうち、彼が戻ってきた気配を感じる。
でもすぐには、振り向けなかった。完全にタイミングを逃してしまい、こういう時はどうするのがスマートなのだろう、と焦っていると、静かな声がした。
「振り向かないで、少しの間そのままでいて」
「……え、」
──どういう意味。動揺する私をよそに、彼は淡々と言った。
「三秒数えて、こっちを向いて」
いったい、何のおふざけなのだろう? ごくりと唾を飲んでから、私は数を数えた。
「いち、に。さん……」
振り向くのが怖い気がしたけれど、意を決して振り向いた。
振り向いた先に、彼は柔らかく微笑んで立っていた。
リングケースと、オレンジジュースの瓶を手に持って。




