失われた魔法を求めて 2
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及川部長は、微笑んで言った。
「熱心だねぇ」
東京は丸の内、虎澤百貨店本店事務フロアの奥の奥。
ここには、必要に応じてお店の外にいるお客様へ商品やサービスを送り届ける専任の部署、外商二部の事務室がある。
中には応接スペースとミニキッチン、それに事務机が五人分。
その中でいっとう古い、平成の初期を彷彿とさせる事務机と椅子が私の席となった。
この椅子が、私が立ったり座ったり伸びをしたりするたびに「ぎぃっ」と怖い音できしむので、ここに通い始めた当初は、少々肝が冷える思いをした。
その年代ものの事務机と椅子に座った私が、「熱心だねぇ」と言われるほど、何に没頭しているかというと。
自らの手で売り上げた商品の伝票を、鼻高々で処理している──のではなく。
外商を利用するお客様に対応するための商品知識について、猛勉強をしているのだった。
『世界銘品辞典』
『ファッションの基本』
『くらしの画報』
などなど、私のデスクの上には新旧のムック本や、富裕層向けの雑誌が積み上げられている。
「椿。進捗は」
声をかけられ、私は顔を上げた。
向かいの席に座る佐倉伶が、恐ろしく整った顔でこちらを見ている。
ふつうの女子であれば、心がときめいてしかりなこのシチュエーションにおいて、私のテンションは下降するばかりである。
なぜなら、
「……えーと。半分くらい、目を通しました」
「──遅い。もっとペースを上げないと、一生終わらないぞ」
と、このように。
佐倉が私を厳しめに指導してくるからだ。
及川部長に「椿さんにいろいろ教えてあげてね」と言われた佐倉は、その言葉にしたがって、本当にいろいろなことを教えてくれる。
そのスタイルは、とにかくひたむきで丁寧で、そして厳しかった。
その内容は、事務仕事の進め方から虎澤百貨店の外商員としての立ち居振る舞い、礼儀作法、マインドの持ち方などなど。
それはもちろんすごくありがたいのだけれども、本当にもう私の一挙一動を監視して、その都度指摘をしてくるというスタイルなので、指導を受けている側としては内心ビクビクしてしまったりするのも正直なところだったりする。
「すみません。急ぎます」
頭を下げつつ答えると、佐倉はすんとした顔になり、自分の作業に戻っていった。
今日は締め日ということで、忙しいらしい。何やらピリっとした空気を、私は佐倉から感じていた。
入ったばかりの私は、戦力になれない。申し訳ないと思う。
でも、この積まれた資料の数を見て欲しい。
短い期間でその半分に目を通せたのはなかなかがんばった方……だと思うのだけれど。
そう心の中で口をとがらせつつ、また資料に目を落そうとしたら。
「佐倉ってー、椿のお姑さん?」
悪戯っぽい顔と声でそう言ったのは、正社員の板花鷹人さんだった。
年齢はたぶん、二十代半ば、もしくは三十代くらい? 大人の年齢というのは基本的にわかりにくいけれど、板花さんはその代表格な気がする。
ハーフアップにしたサラサラの長い黒髪に、しっとり滑らかな肌。はっきりとした目鼻立ち。
板花さんはとても美しい人だ。
そして、板花さんと初対面の人が、板花さんのお顔を見た時に感じる、なにがしかの「らしさ」に先入観を持って会話を始めたとしたら、けっこうな衝撃を受けることになると思う。
少なくとも、私はそうだった。これはどういうことかというと──。
「お姑さんではありません。僕は椿の指導役です」
憮然とした佐倉の、慇懃無礼な回答。これに板花さんは、眉毛をつりあげて、
「ちょ、つまんなさすぎ! そのセンスでどうやってお客様にレコメンドしてるのか不安になっちゃう!」
と、こんな感じの低めのイケメンボイスで、口調はお姉さんのそれで、佐倉をどやしつける。
肩幅が広く、上背は佐倉よりも高い板花さんは、つまりジェンダーレスな外見の外商員なのだった。
どやしつけられた佐倉は、業務への集中力を途切れさせないため、板花さんを無視することに決めたらしい。板花さんはその態度にふんっと鼻を鳴らしてから、思い出したように私を見た。
「あ、そうそう。椿さ、近いうちで良いから時間作ってくれる?」
「? な、何かありましたか」
板花さんの注意が、急にこちらに向いたことに、どぎまぎした。
「あのねーもうねー、見てらんないのよ。何が見てらんないのかと言うと、メイクのテキトーさ見てらんない」
「えっ、えぇ?」
お化粧のテキトーさ? 見ていられないということは、そんなに変なのだろうか?
「そんなにおかしいですか」
落ち着かない気持ちになって、私は両手で頬をおさえる。
すると板花さんは立ち上がり、腕を組みながら上半身をこちらにねじ込むようにして、詰め寄る体勢をとった。
「おかしいですって? No! ちがうっ!」
言いながらビッ! と私を指さして、
「もったいない!! おおいに、もったいない!!」
と、なんとも悔しそうな顔をする。
「パッと見はまぁ別にアレだけどわかる人にはわかるのよむずがゆいのっ! ファンデもそうだしリップの塗りもまぁテキトー過ぎて……若さで誤魔化しやがって~っ! むきーっ! て感じよ!」
私はひぇぇと焦りながら、急いでペンとメモ用紙を手元に引き寄せる。
その間にも板花さんは「アイシャドウの塗りと、ぼかし! もっと丁寧に!」と、政治家の街頭演説みたいに思いの丈を語る。
「え、えーと。ぼかしと塗りを丁寧に……ですね。アイシャドウの」
言われたことをメモに書きつける私に、板花さんはようやく落ち着き始め、『よろしい』といった風に頷いた。
「そそ。もっと言えばアンタ明らかにブルベ春だから今日みたいな秋っぽい色を載せる時は、ベースの色味を──」
「ぶ、ぶるべ秋? の時のベース……? ですか」
「違う。ブルベ春の肌色の子が秋っぽい色を載せる時のベースの色の話」
「すみません、もう一度ゆっくりお願いできますか……!」
外商部に入る前は、外資系のコスメブランドで名物美容部員として働いていたという板花さん。その話は専門的過ぎて、私には難しいのだった。
頭が混乱してあわあわしていると、
「──ねぇ花ちゃん。ちょっと静かにしてもらえる」
と、静かな声が私たちの間に割って入る。
「ワーワーうるさい。いま私、集中中、なの。こんなんじゃ一生終わらない」
板花先輩を花ちゃんと呼び、たしなめたのは、私の隣の席に座る女性の先輩──宮ヶ丘すみれさんだ。
板花さんは目を剥いて下唇を突き出し(顎の部分がシワシワになっている)、肩をすくめた。
どうやら宮ヶ丘さんに叱られて、ふてくされているらしい。
板花さんが「ワーワーうるさく」してしまったのは私にも責任があるわけだし、私が宮ヶ丘さんに謝った方がいいのかもしれない。
でも板花さんを差し置いて私だけが「すみません」と言うのも板花さんに失礼な気がするし、この場合、どうするのが正解なのだろう?
……などと迷っているうち、
「きゃ! お客様から電話だわっ」
と、板花さんはスマホを持って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「……」
廊下へ通じる扉が閉まってから、私は右隣の宮ヶ丘さんをそっと伺う。
次回もお楽しみいただけますように。




